光って、消える
その綺麗な箱には、収まりたくないの。
.
.
.
/ひかって、きえる
藤咲。
それが彼女の名前だ。苗字ではない、これで姓名なのだ。
ふじ、さき。
私は“藤崎”と同じ発音で「ふじさき」と彼女の名前を呼んでいた。
*
「ふじさき」
呼ぶと彼女は長い髪をふわりと靡かせてこちらを向いた。
「ねぇ、何でフルネームで呼ぶの?」
大して感情も込めずどうでもよさげに言う彼女の隣に急ぎ足で並んだ。太陽は西の空に大きく傾きふじさきの白い肌を朱に染めている。
「何よ、いきなり」
彼女と出会ってからずっと、その呼び方で通ってきたのだ。それが当然で、当たり前で、そのふじさきの質問の方が不自然である。私はその突然の質問に驚く訳でも動揺する訳でもなく冷静に返答した。
「いや、他クラスの友達に『何でフルネームで呼ばれてるの?』って聞かれたから。私は別にいいんだけど、まあ、確かに下の名前だけでいいんじゃないかとも思わないこともないわね」
彼女は淡々と言う。
嗚呼、分かっていない、ふじさきは。
「よくない、全くもってよくないよ。それは私のポリシーに反するね」
「ほほう、どんな方針よ」
「ふじさきはふじさきなんだよ」
「意味分からない」
「分からなくて結構」
ふじさきは綺麗に整えられた眉を中央に寄せ、さくら色の唇をへの字に曲げて難しい顔をしていた。彼女は口を尖らせ、なによぅと小さく呟いてから黙りこんでしまった。
訪れた沈黙は不意に私の嗅覚を敏感にさせた。ふじさきの甘い薫りが私の鼻腔をくすぐる。シャンプーかリンスの薫りだろうか。はたまた洗剤か、香水か。何だか居たたまれなくなった私は無理矢理に口を開いて白い息と一緒に言葉を吐き出した。
「ふじさき」
「何よ」
「……いや、最近勉強はどうよ」
かなり無理矢理な話題提供だ。彼女は訝しげに目をいくつかしばたいて、なにそれと呟く。
「……まあいいや。勉強は、そこそこよ」
ふじさきは視線を空にやってから言う。私もつられて上を向いた。東の空はすでに夜の色に染まっていて、そこに広がっていたのは吸い込まれてしまいそうな果てしない群青。西の空に未だに居座っている太陽が滲んで、視線の先には昼と夜の曖昧な境界があった。
彼女は言葉を続ける。
「模試の結果も悪くないし、志望校の判定だって限りなくAに近いB判定だもの」
私は首が疲れて地面に顔を向けたが、彼女の視線は固定されたままだった。
彼女は基本的に何でも出来た。スポーツも勉強も人間関係も。どれも涼しい顔をして、さも当然だと言うようにやってのけた。容姿だって申し分ない。中学時代から今に至るまでに数えきれないほどの告白を受けてきたらしいし。ただそれを受け取らないというだけであって。
ふじさきは兎に角完璧だ。平々凡々な私とは天と地程の差がある。月とすっぽん。雪と墨。それくらい明らかな差が、確かにある。誰に教えられる訳ではなく私は自然にそれを理解した。
「あんたの方はどうなのよ」
「……私もB判定だったよ」
勿論、志望校は違う。片やふじさきは有名国立大学、片や私は地方の、名前を書けば誰でも入れるような小さな私立大学。同じB判定でも、重みが違う。けれど私はそんなことはどうでもいいのだ。そりゃあふじさきに嫉妬することが、ないわけではない。こんなに優秀な人物が近くにいて羨ましがらないわけがない。しかし、そんなことより。
そんなものより、明らかに。
――――明らかに恋心が優っていた。
つまりは、ふじさきと同じ大学には行けないであろうという現状が悔しくて、悲しかった。
冷たい風が今日はやけに身に染みる。
「ならいいじゃない。あと二ヶ月でA判定までいければ、それに越したことはないけどね」
ふじさきは、何でもないように言う。あとほんの数ヶ月で私達は離れ離れになってしまうのに。
彼女にとって、私とは何なのだろうか。
そして私はこの消化も昇華もしようのない、重荷にしかならない想いを、どうするべきなのだろうか。
私がふじさきに出会ったのは、一年と八ヶ月前。
クラス替えにより、別の組だった私とふじさきは同じ組になった。そして幸運なことに、出席番号によって決められた席は隣同士であった。それから一ヶ月に一回行われた席替えで二回彼女の近くの席――つまりは前後左右のどこか――になった。それがどうというわけではない。ただ、そうであったというだけだ。
「私はふじ、さき。草冠の、佐藤とか斎藤とかの藤に、花が咲くの咲で、ふじ、さき」
二年生になって初めての朝のSHRが行われる前に彼女はそう言って自己紹介をした。“ふじ”と“さき”の間に八分休符を挟んで苗字と名前を区別できるようにしていた。
私も名を名乗る。私のありきたりな名前に彼女はふうんと、特に興味もなさそうに呟いた。
第一印象は、気の強そうな子だな、程度のものだった。目尻はしゅっとつり上がり、薄い唇は仄かに紅かった。凛とした雰囲気を纏った彼女とはとても気が合うとは思えなかった。私はどちらかといえば教室の隅っこで極力目立たないように、かと言って無愛想にするわけでもなく、波風を立てずにひっそりと過ごすタイプであった。
しかしその予想は良い意味で裏切られることになる。最初は只の隣人であった彼女は小テストの範囲や教科書のページを聞く仲になり、徐々に暇があれば雑談を交わす友達になり、移動教室やトイレ、タイミングが合えば登下校を共にし、最も気軽に話しかけることのできる親友になっていた。そうなるまでに一年もかからなかった。
三年に進級するときにはクラス替えは行われず、四月には当然のように隣の席になった。
その頃には私はふじさきの事を殆ど全て知っていた。メールアドレスや誕生日、電話番号、住所といった基本的な個人情報は勿論、ふじさきの好きな物、嫌いな物をこれでもかというまで熟知していた。そしてまた逆――つまりはふじさきが私の好き嫌いを熟知しているということ――も然りであっただろう。それは多分自惚れなんかじゃない。
彼女は藍色とミステリと体育と渋沢栄一とドラム、それに未完成なロックを好んでいた。そして赤色とファンタジーと物理とアインシュタインとピアノ、それに完成されたクラシックを苦手としていた。そんな、何でもない無数のタグによって形作られたふじさきという人間は、私の理想に限りなく近かった。
最初は友達として、彼女が大好きだった。そういう子は今までに幾らかいたし、これからも作っていくつもりでいた。ふじさきも、そのうちの一人なのだと思っていたが、しかしそれは違った。
いつしか彼女が男の子は勿論、女の子と仲良く話しているのを見てやきもちを焼くようになった。彼女を独占したいと思うようになった。私はふじさきが居ればそれでいい。ふじさきにも、私だけ居ればそれでいい、そうなればいいのに。
醜いけれど、純粋な気持ちが私を占領した。
始めは友情の延長なのだろうと思っていたのだがある日、これは恋なのではないかという疑いを抱いた。きっかけは何だったか今ではちょっと分からない。もしかしたらきっかけなんて無かったのかもしれない。ともかく私はふじさきへの恋心を自覚した。否定しようもないくらいに強く突き付けられた。音をたてて、ばん、と。
その感情に、名前を付けてしまったが最後。観念せずにはいられなかった。
――激しく、動揺した。未だかつて感じたことのない不安感が私を襲った。
これから私はどうすればいいのだろうか。私達はどうなるのだろうか。暫く悩んだが、日を重ねる毎にその悩みが馬鹿馬鹿しいものに思えてきた。どうでもいいように思えた。彼女の一番近い場所に私がいて、彼女の一番大切な人は私なのだから。
そういう風にして、私はこれまでふじさきに接してきた。この恋心に気がつかれないように、胸の痛みを奥に閉じ込めて、隠して隠して、彼女の隣は誰にも譲らず、私はそういう風にして過ごしてきた。
いつかは終わりが来るのだと、分かってはいた。彼女とずっと一緒に歩いて行くことは出来ない。知っていた。承知していた。
三ヶ月後には彼女はこの町にいない。きっと新しい親友を見つけて、本当に隣にいるべき人を探し出し、いつか私との日々は思い出として綺麗な箱に詰められてしまう。
私は中学二年生の夏から三年生の冬まで、ずっと付き合っていた男の子がいた。小川ゆう、という二年生の頃クラスメイトだった男子だ。小川は“おがわ”ではなく“こがわ”と読み、“ゆう”は平仮名であったが、彼は自分の名前を書く際何故か“ユウ”と片仮名表記を好んで使っていた。
三年生の時点で彼は私より約十センチ背が高かった。すらりと細身で、鼻は高かったが目は細かった。
別に嫌いになって別れたわけではなかった。彼は高校進学と共に遠くの県に引っ越してしまった。私達の愛は遠距離で保ち続けることができるほど強固なものではなかった。両方が納得して、別れた。
本当に彼のことが大好きだった。目を閉じてあの頃を思い出せば、淡い恋心はまるでたった今の現象であるかのように鮮明に蘇ってくる。
私は彼を愛していた。
あの頃私は確かに彼が好きだった。今ふじさきのことを愛しているのと同じように、小川ゆうを愛していた。そう、私は今、彼と同じように、ふじさきを愛しているのだ。そこに男であるとか女であるとかいう下らない違いはない。私があの頃、彼といつも一緒にいたいと望み、彼を守り彼に守られたいと欲し、キスやそれ以上の行為は彼以外あり得ないと考えていたのと同じように、私はふじさきといつも一緒にいたいし、彼女を守り彼女に守られたいし、キスやそれ以上の行為は彼女以外あり得ないと思っている。
以前は同性愛というものに多少なりとも不快感を抱いていた。しかし当事者になってみればなんてことはないもので、正直、「あなたは同性愛者ですよ」と言われても確かに事実ではあるのだけれどいまいちピンとこない。
よく分からなかった。
私はふじさきが好きだ。友情ではなく、恋愛的意味で。
ただ、それだけであって、それ以上でもそれ以下でもない。
私はふじさきが好きだ。
*
ある日の帰り道、私はふじさきの名前を呼んだ。
「ねぇふじさき」
別に今は私とふじさきの二人きりなのだから、ねぇ、だけで済んでしまうがそれでは余りにも味気がないし、もう暫くすればこの日常は消え去ってしまうので、敢えて名前を呼んだ。
「なによ」
彼女が私の名前を呼んでくれることはなかった。少し悲しい気がするけれど、まあどちらでもよかった。
「いや、別に。……あともう少しで、お別れ、だね」
まだ、大学が決まったわけではないけれど、先日行われたセンター試験の結果は大変良好で、彼女なら例え前期試験で失敗してしまったとしても、最悪後期試験で合格出来るであろう。きっと四月から、ふじさきに会いに行くには三時間も新幹線に乗らなければいけない。多分電車で二十分の距離はもう少しで崩れてしまう。
きっと、多分。
「いや、まだ分かんないから。まあもしそうなったら、ちょっと寂しいかもね」
“ちょっと”寂しい“かも”。私はとても寂しい。
しかし、その“ちょっと”も“かも”も、強がりであることを私は十分に理解していたので、きっと私とふじさきは同じ気持ちなのだろうと想像した。
そのとき唐突に、ポケットに入れておいた携帯電話がぶるぶると震えた。いや、携帯電話というものは何時でも唐突である。所有者の都合など、割とどうでもいいのだろう。せめてサイレントに設定しておけば良かったのに。いつもはそうしているのに何故か今日は忘れていた。
振動は数秒で止まってしまった。携帯電話を取り出し、開く。どうやら友人からのさして内容もないメールだったようだ。後で返信しよう、と携帯電話を元あった場所へ仕舞おうとした時。
「なんだか」
ふじさきが口を開いた。
「なんだかあんたのケータイって宝箱みたい」
この人は、何を言っているのだろうか。
私の携帯電話を改めて見てみる。シンプルな白い携帯電話。私のようにスマートフォンに乗り換えていないのはクラスであと十人くらいだろう。(因みにふじさきは既にスマートフォンを使いこなしている。)
それはパタンと閉じればサブディスプレイがグラデーションのように七色に光る。青い石のついたストラップがついている。至って平凡な携帯電話だ。
「よく、意味が分からない」
――宝箱。
彼女は確かにそう言った。
「何か、宝箱って中に入ってるものは勿論だけど、箱そのものも綺麗じゃない。あんたのケータイ、何となくそんなカンジ」
「なに、中身知ってんの?」
「知るわけないじゃん」
じゃあ何故中身が綺麗なのだと分かるのだろうか。そもそも中身の綺麗な携帯電話とはどのような物なのだろうか。
「中身は……まあ割とどうでもいいんだよ」
ふじさきは私の心の呟きに応えるように言った。
「何だろうな、只のフィーリングだからさ、感性だから言葉には出来ないんだけど、雰囲気が他のケータイとは違うんだよね」
ふじさきは私の方は見ずに、茜色に染まった西の空ばかりを眺めながら独り言のように呟いていた。
「持ち主の中身を反映するのかな、よく分かんないけど。まあそれがどうという訳でもないけど、何となくそう思っただけ。思ったことを口に出しただけ」
彼女はそう言うと満足したように一つ頷いて黙ってしまった。
持ち主の中身を反映する。つまりは私の中身が携帯電話の放つ雰囲気に反映されているという意味だろうか。分からない。まず携帯電話の雰囲気というのが分からない。
ふじさきは、わからない。不思議で真っ直ぐで勝ち気で強情で繊細な女の子。ふじさきが宝箱と形容した私の携帯電話が柔らかな夕日を反射してきらきらと光っていた。
宝箱と言うには中に宝が入っていなくてはならない。この中にそこまで価値のある何かが入っているのだろうか。敢えて言うならばふじさきと交わし合った数々のメールだろうか。よく分からない。
「あと、あれだよね。可愛い女の子がガラケー使ってるのって、なんて言うか、萌えだよね」
やっぱりよく分からない。ただ、可愛いと言われて悪い気がしないわけがないというだけだ。果たしてそれが私を指していたのかどうかは分からないが、今ばかりは自惚れたっていいだろう。
嗚呼、ふじさきは、わからない。
*
宝箱、と言うものは普段引き出しの奥にひっそりと眠っているようなものなのだ。
時々引っ張り出しては埃を払い、中身を取りだし並べてみたりして眺める。満足すれば元の形に戻して再び眠りにつかせる。
宝箱とはそういう物なんだと、私は思う。
*
夕方、私は公園のブランコでぽつんと一人ふじさきを待っていた。パーカーに上着を着て、更に薄手のコートまで羽織ってきたのだけれどそれでも今日の風は冷たかった。昨日までは春の暖かな陽気が満ち溢れ、このまま冬は終わってしまうのかもしれないと思っていたが、一日で気温はぐんと下がってしまった。まさに三寒四温である。
ぎいぎいと錆び付いたブランコを揺らす。西の空に沈んでいく太陽は不気味なくらいに綺麗で、まるでもう二度と姿を現さないような気がした。勿論気のせいだ。
ブランコが前後する度スニーカーが地面をざりざりと鳴らすのを眺めていると、頭上から声がかかった。ゆっくりと見上げればふじさきが無表情で突っ立っていた。彼女は私が声を発する前に素早く隣のブランコに腰かける。何と切り出すのが正解なのか分からずに、開いた口から声を出すことが出来なかった。
「何か、久しぶりだね」
ふじさきの方から、話しかけてきた。
「会ってないのは数日だけど、何か久しぶり」
そう言うふじさきの横顔をちらりと盗み見るけれど、それは先程と変わらぬ無表情。
「明日、ホントにお別れだね」
また、ふじさきが喋る。
彼女は明日この町から出ていく。一生会えない訳じゃない。例えばゴールデンウィークだとか無駄に長い夏休みだとかを使ってふじさきに会いに行くことだって、数回ボタンをプッシュすれば彼女と会話したりメールしたりすることだってできる。
「……向こうに着いたら、いちばんに連絡してね」
「親よりも先に?」
ふじさきは楽しそうにふふ、と笑いながらも、わかったと言ってくれた。
ざざざ、と冷たく強い風が木々を揺らす。子供が走り回っていない公園というものは何故こんなにも冷たいのだろうか。ジャングルジムもシーソーも、何だかセピア色をしている。私の体温を徐々に奪っていくようであった。冷えきった指先を力強く握る。
――話したいことは、沢山あるのに。
何を話せばいいのか、分からない。
苦しいような、情けないような、悲しいような。ぐちゃぐちゃな感情が胸のあたりでつっかえていた。風がひゅうと体を通り抜けていく。
例えばここで、ふじさきに告白したとする――なんて。そんな仮定、馬鹿馬鹿しい。
そんな、馬鹿馬鹿しい考えを私は嘲笑うけれど、一蹴することなんて出来なくて。
「……ふじさき」
別に、伝わらなくてもいいと、聞き逃してくれていいと、そう思いながら、望みながらそっと息を吐き出すけれど。
「ん、なに」
ふじさきはしっかりと聞き取る。私の言葉を聞き逃したりなんかしない。
「ふじさき」
ああ、伝わらないで。
「好きだよ」
お願い、伝わって。
「大好きだよー」
気づかないで。
「――私も、好きだよ」
――ああ、気づいて。
ふっと笑ったふじさきによって吐き出されたその言葉に、私は安心しながらも酷く落胆した。私がこの呪縛から放たれる時は未来永劫訪れることはない。たとえいつか他の誰かを好きになっても。ぐるぐる巻かれたこの糸を、ほどける時はこない。しかし安心していたのも確かなことなのだ。がっかりしていたのに、どこかでほっとしていた。その糸が私を締め上げることも、ないのだ。いつまでも絡まったまま。
空を見上げれば、そこには深い黒が沈んでいた。まるで私の心のよう。
チープな比喩に嫌気がさした。
その夜、私は薄暗い部屋の中で一人、月の光に照らされた白い携帯電話を見ていた。てらてらと鈍く光る宝箱は暗い海に浮かんでいるようだ。その漆黒に飲み込まれないように、溺れないように、もがくけれど。息が苦しかった。そう、もう遅い。飲み込まれている、溺れている。僅かな酸素を吸い込んで、ふじさき、と呟く。私だけの特別な呼び方で彼女を呼ぶ。いけない、ここにいては届かない。
指を隙間に引っ掻けて携帯電話をぱかりと開けた。それが発する青白い光は闇を照らして何かを壊した。
宝箱は、開いた。
中に入っている物は一番大切で一番綺麗で一番尊い物。
中に入っている物は、私の恋心。激しい恋情。狂おしい嫉妬。愛おしい愛情。純粋な欲情。誰も触れないで、私の一番柔らかくて敏感で壊れやすくて大事な部分。
滑るような手つきでおもむろにメール作成画面を立ち上げた。宛先には何も入れないままに本文を入力する。簡単に言ってしまえばそれはふじさきに宛てたラブレターだ。出会ったあの日から今日に至るまでの日々を、この想いを余す所なく書き付ける。行き場のない、この胸をちりちりと焼くような恋心を。胸の高鳴りを、苦しみを。あの日、あの時あの瞬間。私はこんな風に思ってだんだよ、こんな想いを抱えていたんだよ。
かちかちと音を立ててボタンの上を滑る指は一瞬を惜しむように動き続けた。止まらない、止まらない。知らない、分からない、出来ない。
ないないない。
たすけて、と。私をすくって、と。叫ぶようにキーを叩き続ける。黒く埋まっていく。空白はいらない。苦しい、気持ち悪い、頭が痛い、辛い。
これが、恋だ。愛だ。
世界中が否定したって私が肯定し続ける。
どうして駄目なんだろう。どうしてふじさきに恋をすることが駄目なんだろうか、許されないのだろうか。こんなにもふじさきが好きなのに。
どれくらい時間が経ったのだろうか。白く光るディスプレイに突然警告文があらわれた。
『メール本文最大サイズを越えています 削除してください』
私は文字をじっと見つめた。見つめていたはずなのにいつの間にか眉間にぎゅっと皺をよせて睨んでいた。だめだ。こんな小さな箱には。
仕方がないから数文字削除して、確定ボタンを親指で強く押した。迷わずそのまま送信ボタンを押す。再び警告文があらわれた。
『宛先を入力してください』
私は笑った。ははっと笑った。渇いた笑いは小さな部屋で反響して、何処かへ吸い込まれて消えていく。
宛先? これを何処へ送るの? こんなもの。
「送れるわけ、ないじゃん……!」
小さく叫ぶとその声は響くことなく白い壁に吸収された。誰にも届かない悲痛な叫び。もう、閉じ込めるにも受け流すにも吐き出すにも、大きすぎていけない。
だから。
「もうこれで、おしまい」
これは自分で終止符を打たなければいけない。ここで終わらせなければいけない。
ふじさきの名前を宛先に入れることは出来ないし、一生私以外の人間が目にすることもない。画面に表示された記号として一生を終える。誰にも読まれることのない文字たちは、文章になることさえ出来ない。
その醜くて美しい恋文は私の携帯電話に保存して、鍵をかけた。
宝箱にそっと入れてしっかりと鍵をかけた。
時々思い出してはそれを開いて眺めればいい。それだけでいい。きっと、そうなる。多分、そうなる。
お願い、消えて。
画面を待ち受けに戻してから携帯電話をぱたんと閉じた。
漆黒の中で、サブディスプレイが七色に、光って、消えた。