定型句と自由詩と
わたしにとって、字数制限の無い自由詩とは零れだす言葉を過不足なく形にする手段です。でもそれはきっと我儘でしかなくて、例えば職業的詩人は編集の都合によって文字数を制限されることを否めません。つまり全ての発表される詩は文字数の制約を受けざるを得ないのです。
例えば、なろうにおいても200文字未満なら投稿すら出来ないし、長すぎる詩(100万字の詩を読めますか!?)は、読者が拒絶します。
時代に合った文字数、スタイルというものがきっとありそうです。服飾の世界を流行が左右するように、言葉の世界でも流行は無視出来ません。
社会においての自由とは全くの放埓ではなくて、型枠の中での動き回れる伸びやかさをいうように、自由詩といえども制約はあるのです。
そもそも詩とは定型から始まっており、その最も短いものが俳句であり、それに次いで短歌があります。漢詩にも、五言絶句や七言絶句があります(詳しくありません)。
短歌とは俳句を脱した詩であって、その自由度はかなりあります。自由詩がともすれば散文に拡散していく文字数の歯止めさなさを抱えていることを思えば、元より字数制限を課していることから、短歌はいっそ潔いように思います。だからこそ深く、だからこそ評価されているのでしょう。しかし、形骸化したピラミッド状のランキングは如何なものかとは思います。
アジア的な既得権益の「権威」というものからの脱却こそが、芸術のベクトルであるはずなのに、それに拘泥してしまうのは商業主義の蟻地獄です。
わたしは、作者を壇に座らせるのではなく、作品こそを讃えるべきだと思います。それは、確かに何某かによって生み出されたものですが、その以前にもっと大きな神秘的な力によって影響を強く受けていると思うからです。技術的なことを褒めるならば、論壇に飾ればいいのです。芸術にとって最も偉大なことは、技術ではなく努力でもなくて、明らかとなった形なき在る世界を誰の目にも自然に触れさせることだと、わたしは思います。その為に技術は必要ですし、もちろん寝食忘れる努力も当然なのです。誰にも頼まれもせずに人生を懸けて追い求めてしまう「それ」を、わたしたちは「美」と呼びます。そして「それ」を実直に現すためなら、それぞれにとって最適な手段を取ればいいと思います。その手段が「自由詩」であれ「定型詩」であれ。あるいは、両方であれ。