物語る少女
自作品http://sokkyo-shosetsu.com/novel.php?id=259986を加筆修正したものです。
※注意※
この小説では以下のような表現及び描写がされています。苦手な方はご注意ください。
読了後の苦情は一切受け付けませんので、ご了承くださいますようお願い申し上げます。
●残酷な表現。
毎日を生きよ。
あなたの人生が始まった時のように。
by Johann Wolfgang von Goethe
※※※
昔々あるところに、一つの世界がありました。
一つの世界は、死にゆくのをただ待つだけの世界でした。命はいつだって空から生み落とされて、いつだって地に落ちて死にました。空で生まれた命は、一対も翼を持っていなかったからでした。
それが世界の理であり、変えることのできない運命でもありました。
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昔々あるところに、一つの世界がありました。
一つの世界は、死にゆくことが選択される世界でした。命はいつだって地から生み落とされて、いつだって空へ飛ぼうとして死にました。地で生まれた命は、一対の翼を持っていたからでした。
それが世界の理であり、変えることのできない運命でもありました。
※
「こうして語ってみると、馬鹿げた“物語”ね」
翼を持った少女はポツリと呟きます。黒いワンピースに、差してはいませんが、黒い傘を右手に握っています。もう片方の手には革表紙の小さな冊子を抱えています。
この日は曇天で、今にも空から雨が落ちてきそうでした。でも、落ちてくるのは空から生み落された命ばかりでした。彼らは声を上げる間もなく、地面を真っ赤に染め上げました。
「ねえ、私たちと彼らの違いはなんだろうかって考えたことはあるかしら?姿形は一緒なのにって」
少女は歩きながらそう言います。背後の電信柱の上に命が一つ落ちました。
「彼らは空で生まれて地に落ちるまで、言葉を持たない。地にたどり着くそのときに初めて何かを訴えるような断末魔を上げるだけ。だから、地はいつだって叫びに満ちている」
そう語る声を肯定するように、近くに遠くに叫びが木霊します。
「私たちは地で生まれて空で死ぬまで、言葉を持つ。でも、私たちは何故そうなのかしら?何故言葉を持つのかしら?地にたどり着く命に対して言葉をかけるわけじゃない。地で生まれた者同士で語らうことも少ない。彼らに言葉がないのなら、私たちだって言葉がなくて良かったはずじゃない?」
少女の疑問に答える声はありません。少女はただため息をついて、ゆっくりとした動作で傘を差しました。パンッと小気味良い音が鳴ったその時、近くの地面に空からの命がまた一つ落ちました。赤い水が傘にパタパタとかかりました。少女は先ほどと変わらないゆっくりな動作で傘を閉じました。赤い水を落とすために僅かにそれを振りながら、少女は首を傾げます。
「もう一つ考えたいことは、翼のことよ。私たちは何故翼を持つのかしら?空に飛んだら死んでしまう、そういう運命にある私たちが翼を持つのは何故?そして、運命を知っていて何故飛ぶのかしら?飛ばなければ、私たちは命が尽きない。つまり、老いることも病むこともなく永遠に生きられるというのに。地に留まれないのは何故かしら?」
少女の声に応えるのは、そこらじゅうに響く断末魔だけでした。いや、厳密に言えばそれも応えているとは言えなかったでしょう。少女の言葉も断末魔もただ一方的に空虚な世界に響くだけなのでした。
少女は肩を竦めました。
「まあ、そんなことを考えてもどうでも良いのかもね。きっと誰もそんなことには興味がないものね。落ちる方も、飛ぶ方も。ただ生まれて死ぬだけだもの」
少女は背中の翼を曲げたり伸ばしたりしながら空を仰ぎました。雨はまだ降りそうにありません。
「早くこの赤いの、洗い流してほしいんだけどね……そうそう上手くは事は運ばないわね。まあ、物語でもあるまいし仕方ないのかな」
少女はそう言いながら革表紙の冊子を掲げました。よく見れば、どこもかしこも擦り切れています。
「これ、この前拾ったのよ。ここに書かれているものがね、物語っていうものなんですって。その昔、今みたいな世界になる前に、小説家っていうのがいてこれを書いたんだとか。その世界では何もかも自由で、みんながその命を幸福のために使ったんですって」
そこまで言うと、少女は鼻で笑いました。
「馬鹿みたいね。何かを書き記すなんて。どうせ死んでしまうというのに、何になるって言うのかしら。書くことによって何か意味でもあったのかしら。本当に馬鹿みたい。滑稽だわ」
しかし、その台詞とは裏腹にそこには憂いの響きがありました。小さな手に握られた冊子は静かに風に揺られています。
「私が何か物語書いたとして、」
少女は言いました。
「それは誰かのためになるのかしら?」
それは誰にも分からない問いでした。
※
雨が降り始めました。雨が流した赤い水は、排水溝に流れ落ちて行きました。地面には妙な臭いのした命の塊が転がっていました。
降り出した雨を、少女は傘も差さずに見上げていました。
「何となく分かった気がするわ」
少女は言いました。びしょ濡れの髪をかき上げて、雨を浴びていました。
「私たちが言葉を持つ理由も、翼を持つ理由も。そして、彼らが何も持たない理由も」
腕の中にはさっきの革表紙の冊子が大事そうに抱えられています。
「この三つの理由はどれも一緒なのよ、どうせ。それでも、私たちがそれに従ってしまうのは私たちが馬鹿だからなんだわ」
ねえ、と少女は立ち止まり、“僕”を真摯な顔で見上げました。
「私、物語を書いてみようと思うの。もう少しだけね。そしたら、貴方は読んでくれる?」
僕は少女の問いに答えます。これが、それまでの宙に浮いた質問に対する僕の答えのすべてでもありました。
「 」
少女は僕の答えを聞いて、笑顔で頷きました。そして、
「ありがとう」
と言いました。
少女は翼を畳んで、自らの足で歩き出しました。
fin.