私の恋が終わりを迎えた日
「愛しい、と思う女性ができた。婚約を破棄したいと思ってる」
凍て緩むことのないはずのあなたの眼差しに、微かに甘さが宿る。
あぁ・・・!
いつか。
そう、いつか。
この日が来ることは分かっていた。
太陽のように明るく笑う彼女を見るあなたの眼差しが、ほんのりと和むのを見た。
あの時から、いつかこんな風に婚約破棄を申し渡される日が来るのは、分かっていた。
「勝手を言ってすまない。だけど、亜里沙のお腹にはもしかしたら僕の子がいるかもしれないんだ」
もう身体の関係まで!
そのことに、なぜかひどく動揺した。
私とはまだキスだけだったのに・・・・・・。
おかたい女のつもりはなかった。婚約しているのだもの、彼が望むならかまわないと思っていたのに。
「例え子供ができていなくても、亜里沙を安心させてあげたいんだ。亜里沙を大切にしたい」
亜里沙、と彼女の名を、あなたはなんて甘やかに口にするのだろう。
「最初に絢埜に告げるのが礼儀だと思った。これから両親に話し、許しをもらおうと思ってる」
分かっていたはずなのに、心臓に刃を突き立てられたような鋭い痛みが私を襲う。
私をえぐる鋭利なナイフを紡ぎだす彼の唇を見たくなくて、目を伏せる。
痛みに歪んだ顔を見られたくなくて、さらに俯く。
柔らかな心を万力で締め上げるような痛みに、何かを叫びだしそうになり、唇をぎゅっと噛み締めて声を出すのを堪えた。
今、口を開いたら、ひどく醜いことを言ってしまう。
「藤原の家には、後日、桐澤から説明に伺う。全ては僕の我侭で、絢埜には何の落度もないときちんと説明するから。その上で、正式に謝罪させてもらうから」
あなたがそこまで心を決めたことに、どうして私が否と言えるだろう。
いいえ、否と言ってみたところで、あなたを止めることはできない。
ならば、否という意味は何もないのだ。
せめて、あなたの婚約者に相応しく、誇り高くありたい。
醜く嫉妬の言葉を連ねて彼女を貶めたり、みっともなく泣いてあなたに縋るような真似はしたくない。
あなたが厭い軽蔑するような、そんな愚かな女として終わりたくない。
この最後の時、取り乱したりせずに、凛としていたい。
その一心で、私は涙を堪えて顔を上げる。
そうして口角を上げることを意識する――――上手く笑えてるだろうか?
もう2度こんな風に2人で会うことはないだろう。
あなたが覚えてる最後の私は、笑顔でありたい。
・・・・・・もっとも、私のことなどあなたはすぐに忘れてしまうだろうけれど。
「和真さまがそう決められたなら、私はそれに従います。両親には、破棄を申し渡されたこと、詳しいことは桐澤家から説明があることを伝えておきます」
私がそう言うと、あなたはあからさまにホッとした表情をした。
あなたが感情をそのまま表情に出すのが珍しくて、あなたでも緊張することがあるんだと少し驚いた。
「絢埜、君なら分かってくれると思っていた。今までありがとう」
たったそれだけの言葉を残して、あなたは嬉しそうにそそくさと帰って行った。
きっと彼女が待っているのだろう。
一人取り残された生徒会室は、しんと静かで、やけに広く感じた。
*******
藤原の家と桐澤の家を結ぶ縁組として、私と彼の婚約が決まったのは、私が10歳の時だった。
日本3大財閥の一角を成す桐澤家と地方に本家があり不動産・建築関係に影響力のある藤原家。
どちらも古くから続く名門の家柄。
けれど、財力では桐澤が圧倒的に格上だった。
そんな桐澤が藤原と縁組したのは、親友だった祖母同士の約束を果たすためだ。
互いの子を結婚させようと約束したのに、どちらも男子にしか恵まれなかった。だから、子世代で果たせなかったことを孫世代で、となった。
婚約者として初めて顔を会わせた時。
私は学校でも人気のある一つ上の彼と婚約できることが嬉しくて、ウキウキとしていた。
勉強でもスポーツでも何でも群を抜いてスマートにこなす彼は、名門金城学院初等科でも人気者の一人だった。
他人に媚びないクールなところが、痺れるほど格好よかった。
単純な子供だった私は、憧れの彼とパパとママみたいにいつも仲良くおしゃべりして微笑みあう関係になれることを素直に喜んでいた。
けれど、婚約者を見る彼の眼差しは、他人を見るのと変わらなかった。
特別な感情など何も伺えない、色のない眼差しと冷めた表情。
私に何か至らない点があれば、簡単に切って捨てられるのだろうと分かる、それは冷ややかな眼差しだった。
それから6年、彼に、桐澤の家に相応しくあれるよう私は努力し続けた。
語学、礼儀作法、音楽や美術だけでなく政治経済、歴史に至るまで学び、教養を深めた。
もちろん、流行にもアンテナを張り、エステに通い日本人らしい艶やかな漆黒の髪と滑らかな肌を維持し、身につける服や化粧にも気を配った。
彼に相応しく中も外も美しくあれるよう、全身全霊で自分を磨いた。
ただ一途に彼を慕った。
いつかきっとこの思いが届く日が来ると信じて。
一つ上の彼が、義務教育を終えて社交界にデビューした時には、婚約者として私も同時にデビューして、常に彼の傍らにあるように務めた。
彼の会話を邪魔せず、さりげなくサポートとなるように動き話す。
それはたった15歳の経験値の少ない小娘には、とてもとても気の張るものだった。
でも、私のたゆまぬ努力が実ったのか、桐澤の両親や一族の方はみな私を歓迎してくれた。
他人を寄せることは稀だった彼も、私が隣にいるのを当然のこととするようになった。
他家で開かれるどのパーティにも私を伴い、桐澤が開くパーティには彼の隣でホストとして客を歓待した。
いつしか、彼は私に微笑んでくれるようにさえなっていた。
その眼差しには、相変わらず熱情は宿っていなかったけれど、私だけに向けられるその微笑みがとても嬉しかった。
このまま歳を重ねて、彼と結婚するのだと思ってた。
私たちの間に情熱的な何かは生まれなくても、私の一方的な思いがあるだけで、彼がどこか冷めていたとしても、家族となれるのだと信じていた。
*******
リンリンリン。
スマホが着信を告げた。
どれくらいボーっとしていたのか、気がついたらもう17時半を過ぎていた。
あたりは暗い。
常夜灯の明かりだけだ。
藤原の運転手からだった。
彼から放課後の生徒会室に呼び出しを受けたので、今日は生徒会の仕事があるから後で迎えの連絡をすると言ったのだった。
けれど、17時半を過ぎても私からの連絡がなかったので、心配になったらしい。
冬のこの時期、金城学院の最終下校時刻は18時だ。
仕事が終わったこと、迎えに来て欲しいことを告げて、通話を終えた。
改めて薄闇に包まれた生徒会室を見渡す。
4月から約9ヶ月、長いようで短い時間だった。
生徒会長たる彼を支えるため、私も生徒会入りして書記としてがんばってきた。
けれど――――――――もう、ここに来ることもないのだろう。
これから、彼の傍らには、私でなく彼女が立つのだから。
家に戻ると、夕食前に両親に今日のことを話した。
どうやら痛みが過ぎると感覚は麻痺してしまうらしい。
淡々と和真さまとの婚約破棄を告げる私を、両親は悲しそうな顔で見つめた。
私の努力を誰よりも傍で見守り応援してくれていたから、好きな女性ができた、の一言であっさりと切り捨てられた娘が憐れでならないのだろう。
ママが私をぎゅっと抱き締めてくれた。
パパが労わるように頭を撫でてくれた。
「絢埜ちゃん、辛かったわね」
「絢埜、今までよくがんばったな」
桐澤との婚約が破談となったのに、一言も私を責めず、私の痛みに寄り添ってくれる両親に、私の自制は脆くも崩れた。
一度涙が溢れてしまえば、後はもう止まらなくなった。
ママにしがみついて、幼子のようにわんわん泣いた。
無限とも思える時間、ママに縋って泣いて、泣き疲れてそのまま眠ってしまった。
翌朝、腫れぼったい眼とともに私が悟ったのは、死んでしまいたいほど辛く悲しくても、どれだけ惨めでも、それでも人はお腹が空くのだ、という普遍の真理だった。
パパとママと兄と4人で朝食を食べながら、私はあるお願いを両親にした。
逃げ出す私は弱く、臆病者だと思う。
けれど。
幸せな2人を前にすれば私の精一杯の虚勢などいとも容易く剥がれ落ち、取り乱すのは分かりきっていた。
己を律せない程、私の恋は深すぎた。
何より婚約者を寝取られた惨めで無様な姿を学院中に晒したくない。
渋るパパを説得してくれたのは、意外にも過保護すぎるくらい心配性なママだった。
一番反対すると思っていたのに。
兄も私の味方に立ってくれた。
十分すぎるほど傷ついている妹が、金城に留まりこれ以上苦しむ必要などない、と言い切ってくれた。
たった3つ上なだけなのに、兄には妙に大人びて私に優しかった。
今日が土曜日でよかった。
週があけた月曜日と火曜日が半日授業の日で、水曜日が終業式。終業式の後は、金城恒例のクリスマスパーティだ。
そして冬休みに入る。
ママと兄の説得に、ついにパパが折れてくれた。
よかった。
これで、もう彼にも彼女にも会わずにすむ。
嫉妬に醜く歪む私を、彼に見られずにすむ。誰にも見られずにすむ。
そのことにひどく安堵した。
冬休み前の数日は、体調不良ということで欠席した。
当然、クリスマスパーティも欠席だ。
慌しく準備が整えられて、年明け早々に私は渡欧した。
スイスの全寮制の寄宿学校へ留学したのだ。
さようなら、日本。
こんにちは、スイス。
彼のために生きた日本での日々は終わり、これからは私自身のためにスイスで生きていこう。
私はもう男をたて、男と共に生きる道なんて選ばない。
女一人でも立って生きていける、そんな新しい私になりたい。
だから、もう泣かない。
誰一人として知る人とていないスイスの学校で、私はどこまでも孤独だろう。
でも、泣かない。
ここから新しい私が始まるのだから。
*******
――― 後日談(・・・・・・蛇足?) ―――
私が欠席したクリスマスパーティに、彼は彼女をパートナーとして伴い、学院中を驚愕させた。
主催者として働かねばならない立場で、彼女にせがまれるままダンスを踊り続け、生徒会役員を嘆かせた。
学院のパーティの翌日、桐澤家から、正式に謝罪の使者が訪れ、私たちの婚約が破棄された。
桐澤の両親は私との婚約破棄を認めたけれど、彼女のことは認めなかった。
だから、年末年始の社交の場には彼は彼女を同伴できず、彼はどのパーティにも一人で出席していた。
私との婚約破棄、それに伴う事情は光の速さで社交界を駆け巡り、あちらこちらで醜聞にまみれた噂となっているようだった。
それとは別に、学院内では密かにある噂が流れていた。
いわく、ビッチの手管、恐るべし! 近づくな、危険!! というものだ。
驚くべきことに、彼女は和真さまだけでなく、他に3人もの男に手を出していた。
そろいも揃って、金城の人気者ばかりだった。
音楽の女神に愛されし若き天才と名高い3年のヴァイオリニスト先輩
将来はプロデビューしトップテン入り確実といわれる2年のテニスプレーヤー先輩
中等科時代から一度としてトップ落ちしたことのない1年の秀才くん
この3人は、家柄、才能、容姿どれをとっても申し分なく、それぞれ和真さまと張る学院の人気者だ。
なのに、彼女はどうやらこの3人ともつきあっているというのだ。
校内や校外のあちこちで、3人それぞれと親密そうに2人きりでいる場面を何人もの生徒に目撃されていた。
誰が本命? みんな遊び?
よくやるわね、同じ学校の男にばかり手を出すなんて。
さすがビッチね、普通の神経じゃないんだわ。
だから特待生なんて制度イヤなのよ。
身の程知らずがのさばるから。
好奇心を伴い野火のように燃え広がるその噂は、しかし肝心の和真さまやヴァイオリニスト先輩達の耳には届いていない。
◇◇◇◇◇◇◇◇
これらのことを、私は初等科からの幼馴染にして親友の春香から教えられた。
彼女は私を追いかけて、2ヶ月遅れで同じ寄宿学校に留学してきたのだ。
なんたる行動力か、驚くばかりである。
3月のスイスはまだまだ寒く、春は遠い。
「みんな意図的に彼らの耳に入らないようにしてるのよ。自分があの女の唯一でなくて、手玉にとられた4人の男たちの中の1人に過ぎないのだと知って、これから苦しめばいいんだわ。絢埜や詩織や美月先輩や真理先輩の悔しさを思い知ればいいのよ!」
鼻息荒く、春香は言い切った。
彼女を“あの女”呼ばわりですか・・・・・・。
そういえば春香は最初に彼女に会った時から、なぜか嫌っていた。
春香の勘は昔から良くあたるから、彼女についても初対面にして何かを感じたのだろう。
ヴァイオリニスト先輩には、共に音楽の道を究めようとする可憐なピアニストの婚約者(美月先輩)がいた。
テニスプレーヤー先輩には、戦略面で彼を支える頭のきれる幼馴染の彼女(真理先輩)がいた。
秀才くんには、日本史大好きな歴女にして料理上手で家庭的な彼女(詩織さん)がいた。
彼女たちは、みな変わってしまった婚約者や恋人について嘆きながらも、それが愛する人の望みならばと素直に身を引いた。
私と同じである。
和真さまのことを思うと、今でも胸が痛む。
この6年、ただただ彼のために生きてきたから。私の胸には、いまだにぽっかりと穴が開いたままだ。
なのに私は、4人の男と平気でつきあうような不誠実な彼女に負けたのだ。
それほど私に魅力がなかったのだろうか?
そして思う、なぜ、と。
私が欲しくてたまらなかった彼の愛を手にしながら、なぜ他の男にまで手を出すのか?
どうして彼だけを思ってくれないのか。
もし、私だったら。
もし、私が彼から一欠片でも愛情を与えられたなら、命ある限り、誠心誠意全力で彼に尽くすのに。
――――だけど、もしかしたらそういう私の強い思いこそが、彼には重かったのかもしれない。
彼にしたら、他人とさして変わらないと思ってる婚約者から一方的に向けられる思慕、それがうっとうしかったのかもしれない。
「春香、私ね、もう恋愛はいいわ。男なんて要らない」
「あらあら・・・・・・まあ確かに、男はいとも簡単に女を裏切るわよね。性悪女にあっさり誘惑されて騙されるし。でもね、絢埜。友達はそう簡単にあなたを裏切らないからね」
「そうね。まさかここまで来てくれるなんて思いもしなかったわ」
そう言ってふわりと笑うと、春香がニヤリと笑み返してきた。
あら、何かしら?
「ふふふ、私だけじゃないわよ? 月末にはみんなも来るから」
みんな?
「そ、みんな。理子も栄太郎も俊輔も、みーんなこっちに来るの。終業式が終わったらね」
驚きである。
それ現生徒会1年メンバー全員じゃないの。
「生徒会も委員会運営も全部桐澤会長がやればいいのよ。4月になって、私たちがいないことを知って、せいぜい苦労すればいいんだわ。絢埜を苦しめた罰よ、いい気味だわ」
春香は清々しくそう言い切った。
「それとあの女の所業は、桐澤や他の家には報告済だから。どの家もあんなビッチを認めることなんて絶対にないわ。そんなにあの女がいいなら、家から切り捨てられて“真実の愛”とやらに5人で仲良く生きればいいんだわ」
さらに春香は吐き捨てるようにそう言った。
友人たちが、ここまで怒っていてくれるなんて思いもしなかった。
あれが和真さまに捨てられた憐れな婚約者だと揶揄されるのを恐れて、金城から逃げ出すような弱い私なのに。
「・・・・・・ありがとう」
「だから友達は裏切らないって言ったでしょ」
スイスに来る前に決めたことが一つあった。
もう泣かない、と。
なのに、なんで目から熱いものが溢れるんだろう。
「絢埜は頭がいいくせに馬鹿なんだから。なんで一人で抱え込むのよ。私たちが傍にいるのに」
春香がぎゅうって抱き締めてくれた。
ありがとう、大好きだよ。
お読みいただいてありがとうございました^^
最近お気に入りの曲PLATINUMの“End of the story ~悲しい結末~”にインスパイアされて1日で書き上げたお話です(なので多少のアラはお見逃しください)。
切なく哀しい恋のお話がどうしても書きたかったんです。
なので、主人公はいわゆる振られ役、ライバルキャラの絢埜です。
実は何気に乙女ゲーがベースにあるお話なのでした^^;
ヒロイン:亜里沙(前世持ち。攻略情報に則り、逆ハー目指してがんばる子。ただし年下には興味なし)
攻略キャラ:桐澤会長(冷酷腹黒男)、ヴァイオリニスト先輩(俺様男)、テニスプレーヤー先輩(軟派男)、秀才くん(無口男)、画伯くん(年下ワンコ男←攻略されず)、
サポートキャラ:春香(前世持ち。絢埜が大好きで、絢埜の恋を応援するため、ヒロインのイベント潰しをしたり、偽情報を掴ませたりと色々暗躍。この手のお話にお決まりの攻略キャラたちの親衛隊が存在しないのは中等科時代の春香の暗躍の結果)
ライバルキャラ:絢埜(←本作の主人公)、美月先輩、真理先輩、詩織、花音(←名前すら出てこず)
結末が絢埜にとって没落バッドエンドでなく海外逃亡なのは、ゲーム中での嫌がらせやいじめイベントがなかったため。
これも春香のがんばり(暗躍?)の結果、親友に恥じない友であろうと絢埜が誇り高いお嬢さまとして清く正しく生きてきたから。