表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
猪娘の躍動人生  作者: 篠原皐月
第一章 一年目は猪突猛進

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/61

8月 トラブルメーカー

 社員食堂で美幸と晴香が向かい合って昼食を食べていると、控え目に声がかけられた。

「……堀川さん、藤宮さん。ここ、良いかしら?」

 その声に二人が顔を上げると、今年入社して一緒に初期研修を受けた三人の女性が立っており、加えて六人掛けのテーブルに座っていた二人組が居なくなっていたのを確認して、愛想良く笑いかけた。


「構わないわよ? どうぞ?」

「長谷川さん、富田さん、青山さん、久しぶり」

 すると総務部の長谷川美里、受付の富田泰子、経理の青山紀恵は、愛想笑いを振りまきながら美幸達と同じテーブルに着いた。


「本当に、久しぶりね」

「部署が違うと、意外に顔を見かけなくなったわね」

「本当にね。部署によって、休憩に入る時間も微妙にずれるから」

「社食で時々、見かけていたけどね。わざわざ話しかけるのもって思う事が多いし」

「私はいつもはお弁当持参だから、社食には来ないし、余計に顔を会わせる機会は少ないかも」

「じゃあ長谷川さん、今日は寝坊してお弁当を作る時間が無かったとか?」

 ふと気になって美幸が突っ込んでみると、美里は僅かに狼狽しながら笑ってみせた。


「…………ええ、まあ、そんな所?」

「そうなんだ。でも偶には社食でも良いわよね?」

「え、ええ、そうね」

 そんな美里の反応を美幸と晴香は訝しく思ったものの、口に出して指摘したりはしなかった。

 そして少しの間五人で近況報告混じりの他愛もない話をしていたが、さり気なく泰子が美幸に話しかけてきた。


「……その、藤宮さん」

「何?」

「最近恋人とか、できた?」

「うん」

「本当? それって誰?」

 あっさりとした返事に寝耳に水の晴香は驚き、後から来た三人が目の色を変えたが、美幸が淡々と話を続ける。

「誰って……、目下のところ、仕事が恋人だけど? 入社して半年経ってないし、覚える事は山ほど有るでしょう?」

「……まあ、そうね」

 同意を求められた泰子が憮然としながら頷いてみせると、今度は紀恵が尋ねてきた。


「じゃあさ、最近、会社の人とどこかに出掛けたりした?」

「会社の人? 晴香とは買い物に行ったよね?」

「その後映画を見たわね。それが何なの?」

 女二人で顔を見合わせから不思議そうに紀恵に顔を向けると、紀恵は多少苛立たしげに言葉を継いだ。


「そうじゃなくて! 男の人と二人でって事よ」

 そう言われた美幸は、一瞬真顔で考え込んだ。

「男の人と? ……ああ、そう言えば係長と行ったっけ」

「え? 係長って……、あの、もの凄く迫力のある城崎さん?」

 目を丸くして確認を入れてきた晴香に、美幸が笑って頷いた。


「うん。でもそんなに怖がらなくても。とっても親切で、良い人よ? 結構顔立ちも整ってるから、歴代彼女は全員美人だし、並んで立った所を想像すると迫力あるわよね~」

 ニコニコとしながら直属の上司をそう評した美幸に、晴香は思わず変な顔をした。


「……何で歴代彼女が美人って知ってるの? 本人から聞いたの?」

「ううん。二課に関係ある情報を片っ端から集めていたら、引っかかったの。……ねえ、美人だよね?」

「え?」

「それは……」

「まあ、ねえ……」

 いきなり話を振られた三人は、互いの顔を見合わせ、しどろもどろになりながら僅かに頷いたが、晴香は益々怪訝な顔をして周囲の者達を見やった。


「何で皆に聞くのよ?」

「だって皆、今言った係長の歴代彼女とは、同じ部署の先輩後輩の間柄だから」

「同じ部署?」

「うん長谷川さんが仲原さんと同じ総務部、富田さんが真柄さんと同じ受付担当、青山さんが戸越さんと同じ経理部だよね?」

 美幸がそう言って笑顔で確認を入れたのと、晴香が物言いたげな表情で目を細めたのを受けて、美里が些か焦った様に問いを発した。


「そ、そのっ! 藤宮さんは城崎係長と付き合ってるわけ?」

「はぁ? どうして?」

 いきなりの質問に美幸と晴香は呆気に取られたが、三人は口々に言い出した。

「だってデートしてるんでしょ?」

「休みの日に、社内で一緒にいる所を見かけたって人がいるのよ」

「耳に入っただけでも、一度や二度じゃないから」

「あんた達……、何が言いたいわけ?」

 さすがに晴香が目を細めて睨み付けると、三人はたじろいだ様子を見せたが、その横で美幸が考え込みながら指折り数えた。


「えっと、テーマパークと水族館と映画と美術館と屋形船とボーリングで六回ね。でもデートじゃないわよ? 市場調査の一環だし」

「はぁ?」

「何、それ?」

 あっさり言われた内容に、晴香を含めたその場全員面食らったが、美幸は真顔で説明を続けた。

「課長から企画案を出すように言われて。そうしたら係長が、ちょっと予想もしなかった方向から切り込んできたから……」

 そして美幸が唖然としている面々に、簡潔に経過を説明した。


「……それで、そんな風にほぼ毎週誘ってくれてるわけ。ほら、デートじゃ無いでしょ?」

 サラリと同意を求めた美幸は、残っていたうどんを食べ終えて「ごちそうさまでした」と手を合わせたが、他の者達は微妙な顔付きで美幸を見やった。


「……へぇ、知らなかったわ」

「城崎さんって、意外と面倒見が良いんだ……」

「お休みの日も仕事の事を考えてるなんて……、藤宮さんは真面目ね」

「別に大した事では無いわよ? じゃあ食べ終わったから失礼するわね。行こう、晴香」

「……ええ。じゃあまたね」

 そうして食べ終わっていた晴香を促して美幸は立ち上がり、簡単な別れの言葉を口にして二人は食堂を出て行った。


(仲は悪くないけど大して親しくもないあの人達が、わざわざ声をかけてきたのは偶然かしら?)

 そんな事を考えた晴香は、いつもと変わらない風情で横を歩く美幸に声をかけた。


「美幸……」

「何?」

「ちょっと気をつけた方が良いかもね」

「だから何が?」

「その気がなくても、他人の怒りを買う事があるって事」

 肩を竦めて注意を促した晴香だったが、それを聞いた美幸は眼光鋭く不敵に微笑んだ。


「そんな事……、分かってるわ。伊達に幼稚園から大学まで、十九年女の園で過ごして来たわけじゃ無いのよ?」

「そ、そう? 分かってるなら良いんだけど……」

(やだ……、何か今、美幸の笑顔がムチャクチャ怖かったんだけど!? 田村君が見たら、百年の恋も一気に醒めそう……)

(ふぅん? 何か空気がピリピリしてるのよね。念の為、臨戦態勢にしておきましょうか)

 傍目にはいつもと変わらない様子で歩いていた二人だったが、心の中ではそれぞれ物騒な事を考えていた。


 そんな事があった翌日、誰もが予想していなかった騒動が勃発した。

 そろそろ終業時間と言う時間帯に真澄に届け物を頼まれた美幸は、総務部があるフロアにやって来た。そして第一課課長に書類を渡し、指示された通りに目を通して貰って何枚かの書類に判を貰い、更に別な書類を渡されていそいそと企画推進部のフロアに戻ろうとした所で、一人の女性に声をかけられたのだった。


「企画推進部二課の藤宮さんよね?」

「はい、そうですが。何でしょうか? 仲原さん」

 臆する事なくにこやかに返されて、理彩は不愉快そうに顔を歪めた。

「どうして私の顔を知ってるわけ?」

「うちの係長とお付き合いしてましたよね。『美人なのに別れるなんて、城崎はなんて勿体無い事をするんだ』と皆が言っていたので、どの程度美人なのかと興味が湧いてこっそりお顔を眺めた事がありまして」

 変わらず笑顔で平然と述べた美幸に対し、理彩は盛大に顔を引き攣らせる。


「……ええ、お付き合いしてたわよ! あなたが義行にチョロチョロ纏わりつくまではね。ちょっとこっちに来なさい!」

 腹立たしげに理彩が吐き捨てると、美幸の腕を乱暴に掴んで廊下をズンズンと歩き始めた為、美幸は一応抵抗してみた。


「ちょっと、困ります。私、仕事の途中なんですが。これが終わったら上がっても良いと言われていますが」

「五月蠅いわよ! 新人のクセに生意気な!」

(駄目だわね、これは。相当頭に血が上ってるみたいだし、面倒だから一度話を聞いておきましょうか。疲れるなぁ……)

 うんざりとして小さな溜め息を吐いた美幸を、理彩がそのフロアの女子トイレに押し込んだ。そしてさし当たって美幸が特に抵抗していないのを見てとると、出入り口のドアを塞ぐ様に仁王立ちになり、携帯を取り出して何やら操作を始める。


(何やってるのかしら? まあ、こちらも準備時間が貰えて良かったけど)

 そんな事を考えながら美幸は右手で上着の左ポケットから小さなある物を取り出し、封筒を抱えている左手でそれをこっそり握り込んだ。更に右ポケットに入っている物を服の上から触れて確認し、いざという時の手順を頭の中でおさらいする。


(ふぅん……。メイクもバッチリだけど、爪のお手入れもなかなか。取り敢えず真面目に仕事をしてるみたいで、変に伸ばしていないから、やっぱり必要だったわね)

 相手を観察しながらそんな事を考えている間に、理彩は掃除用具が入れてある場所の戸を開けて『清掃中』の立て看板を出し、出入り口のドアを開けてその向こうに出した。それと入れ替わる様に次々と五人の女性がやって来て、無言でトイレの中に入って来る。自分を不躾な視線で眺めてくるその面子を確認した美幸は、ちょっと不思議に思った。

(どうしてこの人達が一堂に会するわけ?)

 しかしその疑問はすぐに解決する事になった。


「仲原さん、本当にこの子なの?」

「そうよ。ふざけた話よね」

「全く……、城崎さんも女を見る目が無いわ」

「本当にね。眼精疲労が著しそうだから、今度目薬を贈ろうかしら?」

「と言うか仕事が忙しくて、つい手近な所で済ませようと思ったとか?」

「あの鬼畜課長の下だと、ストレスが多そうですものねぇ……」

 美幸を馬鹿にする様な口調でそんな事を言い合ってから、互いの顔を見合わせてコロコロと笑った女達を見て、美幸は楽しそうに口元を歪めた。

(喧嘩は三倍返しが基本よね……。課長に対する暴言への落とし前は、きっちり付けて貰おうじゃないの!)

 内心、そんな先頭意欲満々で、美幸はわざとらしく笑ってみせた。


「そうですね。あれだけ有能な課長の下で働けるのは、あれだけ有能な係長じゃないと務まらないんでしょう。だから課長を見慣れた係長がそこら辺の平凡って言うか、阿呆っポイ女が物足りなく見えて、見向きもしなくなったんでしょうし」

「何ですって!?」

「幾ら何でも失礼でしょうが!?」

「先輩に対して、その口のききかたは何!?」

 気色ばむ女達にも顔色を変えず、美幸は冷静に話を続ける。

「だってそうでしょう? どうして歴代恋人と恋人志望がつるんでるんですか? 全っ然、意味が分かりません。挙げ句、同じ課に配属された私が羨ましくてつるし上げですか? それなら自分で配属希望を出したら良いじゃないですか。二課は慢性的に人手不足なんですから。そんな狭量でセコい考えの持ち主だから、係長に見向きもされないんですよ。先輩だから敬意を払えっていうなら、敬意を払うだけの行いをして欲しいですね」

 あからさまに馬鹿にした口調で言い切られ、トイレ内の雰囲気は一気に険悪になった。


「ちょっと下手に出てればこの女!」

「ふざけんじゃないわよ!」

「私達はね、仲原さんなら城崎さんの相手として納得出来ると思ってたのよ!」

「それなのに数段見劣りするあんたが横から割り込んできて、ちょっかい出して来たんでしょうが!?」

「何の事だか、皆目見当がつきませんが?」

 単に城崎に指導されているのが面白く無いのだろうと考えていた美幸が本気で首を傾げると、香織が怒鳴りつける。

「惚けるつもり? あんたと同期の子達に確認させたら、あんた城崎さんと毎週の様にデートしてるって、散々のろけたそうじゃない!」

「……はい? 私別にのろけてなんかいませんし、第一デートなんかしてませんけど?」

(ああ、あれか……。だけどきちんと説明したつもりだったのに、どこがどうなったらのろけてるって事になるのよ。本当に伝聞って当てにならないわね……)

 美幸としてはその時事実を正直に述べたつもりだったが、それで周りは更に激高した。


「お黙り! ネタは上がってんのよ?」

「白々しい……、本当に上が社長令嬢の立場でごり押しするふてぶてしい女なら、下もちょっと可愛くて若いからってチヤホヤされていい気なってる身の程知らずの女ね」

(へぇ……、課長を二度も貶して、タダで帰すわけには行かないわよねぇ……。これは濡れ衣の一つや二つ、きせても文句を言われる筋合いではないわね。決定)

 心の中でそんな事を考えて容赦ない制裁方法を決めた美幸は、ここであからさまに相手を煽る様に言い出した。


「そうですねぇ……。私が皆さんより多少可愛くて、相当若いのは分かっていますが、それをご自分ではっきり口に出すのはどうかと思いますよ?」

「なっ!?」

「だって……、そんな若くてちょっと可愛い子に嫉妬するなんて、皆さんはもう若くなくて可愛くも無いって事じゃないですか。自分で認めるのって、痛すぎますよね?」

 そこでにっこり笑った美幸の左頬が、バシッと派手な音を立てた。さすがに周囲が顔色を変える中、険しい顔で平手打ちしてきた理彩を、美幸が薄笑いで見やる。


「はっ……、やってくれましたね?」

「それがどうしたのよ! 泣きもしないなんて、とことん可愛げが無いわねっ!」

「じゃあ泣いて差し上げますよ。格好がつきませんしね」

「はぁ?」

 小さく肩を竦めた美幸は、赤くなった頬には構わず、上着の右ポケットから小さな目薬の容器を取り出し、書類を抱えたままの左手で蓋を押さえて外し、右手で両眼に点眼した。その間他の者達は、呆気に取られて美幸の行為を眺める。


「……っつぁ、きっくぅ~」

「何やってんの? あんた」

「下準備ですよ? 次はこうやって、と!」

 ボロボロと涙を流しながら不敵に微笑んだ美幸は、目薬を右のポケットに入れるのと入れ替わりに防犯ブザーを取り出し、左手に本体を持ち変えて紐を思い切り引っ張った。当然の事ながら、その途端にピーッピーッピーッと甲高い警告音がトイレ内に響き渡る。


「なっ、何やってるのよ!」

「こうするのよ」

「きゃあっ、ちょっと!?」

 動揺する女たちには目もくれず、美幸はたじろいだ理彩を突き飛ばしてトイレの入り口のドアを開け、その隙間から廊下に防犯ブザーを投げ捨てた上で今度は自分がドアを塞ぐ形で背中で寄りかかりながら、壮絶な悲鳴を上げた。


「きゃあぁぁーーっ! 助けてぇぇーーっ!」

「ちょっと! 何するのよ!」

 フロア中に響き渡りそうな悲鳴を上げながら、美幸は理彩の右手を書類を持ったままの左手で抱え込む様にして掴んだ。そして理彩の体の前で体を折る様にしながら絶叫を続ける。

「人殺しぃぃーーっ! やだぁーっ! 助けてぇぇっ!」

「何言ってるのよ! 人聞き悪いわね。離しなさいったら!」

 何とか理彩が振り払おうとしているうちに、騒ぎを耳にした室内の人間が廊下に出てきて、トイレの前に集まり始めた。


「おいっ! 何かあったのか!?」

「どうした!? ここを開けろっ!」

 美幸が体で押さえている状態のドアを叩かれながら誰何され、理彩達が咄嗟に対応できずに固まっていると、美幸が小さく理彩に告げた。

「じゃあ、お望みどおり、離してあげるわよ」

「っ! え!?」

 一瞬右手を掴む力が緩んだと思ったら今度は指先を掴まれ、理彩の指先が勢い良く美幸の頬を滑った。そしてその跡が一本の線として残り、理彩が呆然としているうちに血が滲み出てくる。

 そして上半身を起こした美幸が、理彩の体の横からその後方に視線を向けると、そこに佇んでいた女達は流石に顔色を変えた。


「きゃあっ!」

「ちょっと!」

「あなた顔がっ!」

 そこで呆然としている女達を尻目に、美幸は素早くドアをすり抜ける様にして廊下に転がり出た。


「きゃあぁぁっ! た、助けて下さいっ!」

 膝を付いて、目の前にいた人物を見上げて涙目で助けを求めると、その美幸の顔を認めた面々は、揃って顔つきを険しくした。

「一体何……、おい、君!」

「顔が切れてるぞ、大丈夫かっ!?」

「何があった?」

「……って、……にや……ればっ、……のでぇっ……」

 そこでしゃくりあげながらトイレを指差した美幸に、既に人垣になりつつあった者達が、鋭い視線をトイレに向ける。


「おい、落ち着いて話せ」

「トイレに誰か居るのか? 確認しろ!」

「…………」

 そこでいつまでもトイレに篭っているわけにもいかず、ぞろぞろと理彩を先頭に中にいた女性達が強張った顔つきで出てきた。それを目ざとく見つけた同僚の一人が、厳しい声で理彩を問い質す。


「仲原? お前こんな所で何やってるんだ?」

「この子の怪我、お前達か」

「もうすぐ終業時間って時に、違うフロアの人間が、どうしてトイレで集まってるんだ?」

 総務部だけではなく、他の部署の者達からも責める様な視線を向けられ、理彩達は狼狽しつつ責任転嫁を図った。


「こ、これはその……」

「だっ、だいたい、その子が生意気だからよっ!」

「そうよ! 目薬まで使って泣き真似なんかして」

「私っ! そんな事してませんっ!」

「はぁ? カワイ子ぶってるんじゃ無いわよっ!」

「ポケットに入れたのを見たわよ? 取り出して!」

「きゃあっ!」

「おい、止めないか!」

「お前達、いい加減にしろ!」

 三人がかりで美幸に組み付き、左右のポケットに手を突っ込んだのを見て、周囲の男たちは一瞬遅れてあわてて彼女達を美幸から引き剥がした。しかしポケットの中身を表に出しても中には何も入っておらず、理彩達が呆然となる。


「……無い」

「そんなバカな! こっちは?」

「だからそんな物持ってないし、してないって言ったじゃ無いですかぁぁっ!」

「おい、どこが嘘泣きだって?」

「お前らの行為で十分泣かされてると思うがな?」

 益々周りからの視線が冷たくなる中、実穂が血相を変えて美幸に組み付いて恫喝した。

「どこに隠したのよ、あんた!?」

「いい加減にしろ!! 何をやってるんだお前等は! ここは職場だぞ? 喚きたいなら帰ってからにしろ!」

「部長……」

 廊下に一際轟く怒声と共に人垣が割れ、総務部長の清川が現れた瞬間、その場に不気味な静けさが漂った。すると清川は、如何にも不機嫌そうに吐き捨てる。


「はっ! これだから女と言うのは度し難いな。仕事もロクに出来んくせに、騒ぎを起こすのは得意と見える。しかも刃傷沙汰か? その顔の傷は誰がやった」

 横柄に廊下に座り込んでいる美幸を見下ろしながら清川が理彩達を眺め回すと、その中の何人かが居心地悪そうにボソボソと言い出した。

「……それは」

「仲原さんが……」

「お前か? 仲原?」

 うっとうしそうに清川が確認を入れると、理彩は弾かれた様に顔を上げて反論した。


「いえ! 違います! この子が勝手に私の手を取って顔を引っ掻いたんです!」

 力強いその反論に、実穂と美奈が引きずられる様に美幸を非難し始める。

「そうよ! 全部この子が仕組んだんだから!」

「本当に性悪女だわ!」

「違います! この人達に無理やり引きずり込まれて、殴られた拍子に切れたんです!」

「どこまで嘘を吐けば気が済むの!」

「見解の相違はともかくとして……、取り敢えず、事実確認だけはさせて貰いたいわね」

「柏木課長!」

「どうしてここに?」

 ここでいきなり割り込んできた女性の声に再び人垣が崩れ、その向こうから真澄が現れてゆっくりと歩み寄った。それを認めた途端、清川は益々顔を顰める。

 真澄はちらりと清川の様子を窺ったものの、それを無視して穏やかな口調で語りかける。


「新人に仕事を頼んだらなかなか帰って来ないからどうしたかと思えば、ここのフロアで騒ぎになってるって、うちに教えに来てくれた人がいてね」

「何ですか。この嘘吐き女を庇うつもりですか?」

 理彩が目つきを鋭くして睨みつけたが、真澄はどこ吹く風で淡々と話し出した。


「庇う? さっきも言った様に、私は事実確認をしたいだけよ。まず一つ目。私は藤宮さんに総務部の杉本課長に書類を持って行って貰ったんだけど、用事は済んでいるのかしら?」

「は、はいっ! これですっ!」

「ああ、内容は確認して、必要書類を入れておいた。後から確認してくれ、柏木課長」

 流石に美幸も真澄の登場に度肝を抜かれながら、慌てて立ち上がって抱えていた封筒を真澄に手渡すと、人垣の中から先ほど美幸とやり取りをした課長の杉本が補足説明を加える。それに真澄は軽く礼を述べた。

「分かりました。ありがとうございます。……それで? あなた達は全員、このフロアの所属なの? 見たところ違うフロアの人間が居るようだけど」

 何気なく話の矛先を変えた真澄に、周囲の冷たい視線が揃って女達に向けられ、流石に彼女達の顔が強張った。


「それはっ……」

「……たまたま」

「わざわざ違うフロアのトイレを利用しようとして、たまたまかち合ったわけね」

「そ、そうで」

「幸いあそこにここの廊下を撮っている監視カメラがあるわ。さっき藤宮さんが言った様に、彼女が引っ張り込まれたのか、あなた達が偶然居合わせたのか、それを見ればはっきりするわね」

「…………っ」

「それはっ……」

 淡々と述べた真澄の言葉に一瞬頷こうとしたものの、少し離れた通路の上に取り付けられている監視カメラを冷静に指差され、皆一様に押し黙った。しかし真澄は変わらぬ口調のまま、続けて確認を入れてくる。


「二つ目。藤宮さんは殴られたと言ったけど、実際は殴られていないのかしら?」

「…………」

 流石に後ろ暗い所がある面々は一様に押し黙ったが、真澄は小さく肩を竦めて話を続けた。

「さっきのカメラの件もそうだけど、本当の事は自ずと分かるものよ。散々嘘を吐いた挙げ句、後から『実は違いました』なんて言ったら、それだけ上司の心証が悪くなるだけだと思うのだけど? 勿論連帯責任としかいえない状況だったのなら、別に誰がどうのと無理に言わなくても構わないわ」

 そう穏やかに真澄が言い諭すと、いきなり美奈が弁解し始めた。


「たっ、確かに仲原さんが殴ったのは事実ですけど! その子が生意気な事を言ったからですっ!」

「ちょっと!」

 いきなり自分の名前を出した美奈を理彩が睨んだが、他の者達も口々に同意した。

「そうです! 私達がここに来たのも、仲原さんが『例の生意気な子を捕まえたから、ちょっと懲らしめてやるわよ』ってメールをよこしたから!」

「他の人に邪魔されない様に、清掃中の看板を出してたのも仲原さんですし!」

「良く分かったわ。殴ったのは仲原さんで、あなた達は揃って傍観していただけと、そういう事かしら?」

「はい」

「そうです」

「…………っ!」

 あっさりと裏切られて理彩が歯噛みしたが、真澄は理彩の様子には構わず、淡々と話を続けた。


「じゃあ三つ目の質問だけど……、藤宮さんの顔の傷は、彼女に言わせれば藤宮さんが彼女の手を取って、自分で傷付けただけと言っているけど、それに間違いは無いの?」

「それは……」

「さあ……」

「あら、どうしたの? あなた達の目の前で起こった事でしょう?」

 互いに困惑した顔を見合わせるだけの面々に、真澄はわざとらしく問いを重ね、理彩は苛立たしげに叫んだ。


「ちょっとあなた達! ちゃんと否定しなさいよ!」

 しかし他の者達は、煮え切らない返事を返す。

「だって、ねぇ……」

「仲原さんが私達に背中を向けていたので、その陰で良く見えなくて……」

「その子と取っ組み合う格好になってましたし……」

「仲原さんの手を、その子が掴んで押さえたみたいですけど……」

「それなら、どうして藤宮さんの顔に傷が付いたのか、はっきり見ている人は誰もいないと言うわけね?」

「はい」

「そうです」

「…………っ!」

 真澄の確認に自分以外の皆が頷くのを見て、理彩は怒りで全身を振るわせた。そんな理彩に向き直り、真澄が笑顔で話しかける。


「それなら最後の質問だけど……、仲原さんと言ったわね」

「……はい。そうです」

 その笑顔に危険な物を感じた理彩が警戒しながら頷くと、何を思ったか真澄は微笑みながら理彩の右手を取って少し持ち上げた。

「爪、綺麗に手入れしてるわね」

「はぁ……」

「……だけど、右手中指の爪だけ少し欠けているのはいただけないわ。どうしてここだけきちんとしていないの? ここで顔が切れたみたいね。仕事中にここだけ欠けたの?」

「……え? ……そんな!?」

 慌てて理彩が自分の手を見下ろすと、確かに右手中指の爪の先端だけ僅かに欠け、朝には無かった角ができていた。理由が分からないまま呆然としていると、ここで冷え冷えとした真澄の声と眼差しが降りかかる。


「それとも…………、偶然を装って、わざと欠けさせておいたとか? これなら確実に切れるわね」

「そんな事は!」

 慌てて否定しようとした理彩の耳に、周囲の男達の囁き声が聞こえてくる。

「……おい、聞いたかよ」

「うわ~、女ってこえぇ~」

「あれってさ、全員城崎絡みだろ……」

「あっちは企画二課の新人だよな? って事はあれか?」

「嫉妬で集団で苛めかよ。ガキじゃあるまいし」

 非好意的な視線が自分達に突き刺さっている事を自覚し、理彩達は真っ青になったが、ここで真澄は理彩の手を放し、冷静に清川に声をかけた。


「清川部長。取り敢えず主だったところの事実確認は済みましたので、部下を医務室に連れて行きたいのですが宜しいでしょうか?」

「ああ、連れて行け」

「そちらの方々にも色々言い分はあるかと思いますので、仲原さんは総務部の様ですし、清川部長が聞いて頂いたら助かります。何かこちらの藤宮に落ち度があるようでしたら、遠慮なくおっしゃって下さい。後ほどお伺いします」

「分かった。さっさと連れて行け。お前達は全員部長室に来い。一通り話を聞いてやる」

 まるで苦虫を噛み潰した様な顔付きで清川が理彩達を促し、真澄は美幸に声をかけて歩き出した。

「さあ、藤宮さん。行くわよ」

「はい」

 そして周囲の視線を一身に浴びつつ、エレベーターの前まで移動すると、さり気なく周囲に人の気配の無い事を確認してから、真澄が囁いてきた。


「……藤宮さん」

「はい」

「身体を張るのは良い心意気だとは思うけど、今回のはやり過ぎよ」

「えっと……、顔は大丈夫ですよ」

「それもだけど……」

「え?」

 それを聞いて心配をかけてしまったと思った美幸は控え目に弁解したが、何故か真澄が小さく溜め息を吐く。そこでやってきたエレベーターに二人で乗り込んでから、真澄は行き先階数のボタンを押さずに閉ボタンを押した。そして止まったままの箱の中で、真澄が真顔で美幸の体をパンパンと両手で軽く叩き出す。


「あの……、課長?」

 流石に戸惑った顔を向けた美幸だったが、何かの感触を捉えた真澄は、スーツのジャケットの裾を捲り、スカートのウエスト部分に挟まっている、携帯用の爪切りを抜き取って美幸の目の前にかざした。


「これ、何かしら?」

「…………」

 ヒクッと美幸の顔が強張り、咄嗟に次の言葉が出なかったが、真澄は冷静に確認を入れた。


「どさくさ紛れに、わざと彼女の爪先に切れ目を入れたわね?」

「あっ、あのですね」

「私が割り込む直前、目薬がどうこうと言ってたみたいだけど。大方こっそり相手のポケットにでも、滑り込ませておいたんじゃない?」

「…………はい」

「どいつもこいつも、目が節穴ぞろいね」

 ぐうの音も出ずにうなだれた美幸を見て、真澄は舌打ちをして医務室がある階数ボタンを押した。そして腕組みしたまま壁に寄りかかった真澄に、美幸が恐る恐るお伺いを立てる。


「課長……、清川部長に言いますか?」

 しかしそれに対する真澄の答えは素っ気なかった。

「別に」

「どうしてですか?」

「言わなくても部長が私に文句を言ってくるでしょう。……彼女達の話にまともに耳を傾けて、疑問を感じたならね」

「課長?」

 そこで冷笑と言う言葉がぴったりの笑みを浮かべた真澄に、思わず美幸が声をかけると、真澄は小さく首を振った。


「でも恐らく文句は言ってこないわ。あなたの言い分を鵜呑みにして終わりよ」

「課長はそれで良いんですか?」

「部長がそれで良いと判断した事に、わざわざ私が『自分の部下に非があります』と申し出る必要は無いわ。あの人は面倒事は嫌いなのよ。特に女に関わる事はね」

「そうですか。それなら一件落着で」

「するわけないでしょう!」

「……申し訳ありません」

 安心してにっこり笑いかけた美幸に、真澄が鋭く釘を刺した。


「明らかに今回のこれはやり過ぎです。ですがあなたが上手く立ち回って主張がほぼ認められている状況で、下手に処分はできません。ですがあなたにとってしかるべき処罰を、近日中に与える事にしますからそのつもりで。ほら、行くわよ?」

「…………はい。分かりました」

 そしてエレベーターを降りて医務室へ向かいながら、美幸は鋭い叱責を受けた事で地味に見事にダメージを受けていた。


(うぅ……、課長に怒られた。元はと言えば係長の元カノ連中が勝手に勘違いして、絡んで来たのが悪いのに……)

 そこでタイミング悪く、廊下の反対側から慌ただしくやって来た城崎と、医務室前で遭遇した。


「……藤宮さん! 怪我をしたって聞いたけど! 一体どうしたんだ!?」

 美幸の左頬に斜め一直線に走る赤い傷を見て城崎は顔色を変えたが、その城崎に向かって美幸はビシッと人差し指を突き出し、恨みがましい声をぶつけた。


「これは全面的に係長のせいですから!」

「……え?」

「係長、仕事はできますけど、女を見る目は最低レベルですね。歴代彼女が揃いも揃って見た目が良くても中身激悪ですから」

 続けて言われた台詞に、城崎が顔を引き攣らせる。

「…………理由を聞いても良いかな?」

「不愉快過ぎて、説明する気にもなれません!」

「…………」

「……城崎さん、戻りましょうか」

 そうして城崎の目の前でピシャリと医務室のドアが閉まり、流石に不憫に思った真澄に慰められつつ、城崎は職場へと戻ったのだった。



 そんな騒ぎがあった翌週。定例の週一回の朝礼が執り行われていたが、企画推進部の室内は必要以上に静まり返っていた。

「……それでは最後に、二課に新たに配属になった二人を紹介する。仲原理彩さん」

 苦笑い気味に部長の谷山が声をかけると、一歩下がって後ろに控えていた理彩はスルリと前に出て、綺麗に一礼してから口を開いた。


「本日付けで総務部から異動しました仲原理彩です。最近何やら柏木課長を社長にして、自分は重役を務めるなどと大言壮語された方がいらした様ですが、私は謙虚に柏木課長より出世した瞬間に、柏木課長を腰巾着共々蹴落とす事を目標とするつもりです。宜しくお願いします」

「……何ですって?」

 そして再度一礼した理彩は顔を上げると、美幸を真正面から睨み付けて不敵な笑いを漏らした。


(へぇ? 二課に入って本当にやる気なわけ? 冗談じゃ無いわよ。負けるものですか!?)

 美幸も闘志を漲らせる目つきで睨み付けていると、谷山が続けてもう一人の人物を紹介する。


「それでは次に、瀬上孝太郎君」

 すると理彩と同様に一歩後方に控えていた瀬上は足を踏み出し、きちんと足を揃えて一礼してから、力強く宣言した。


「はい、営業五課から異動になりました瀬上孝太郎です。城崎係長を叩き出すまで二課で粘るつもりですので、宜しくお願いします」

 瀬上がそう口にした瞬間、室内中から好奇の視線が城崎に突き刺さる。

「……知るか。勝手に言ってろ」

 以前から慣れている感情ではあったが、瀬上からの鋭い視線に内心うんざりして呻いた城崎だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ