5月 喧嘩の買い方
美幸が企画推進部第二課に配属になってから、約一ヶ月。美幸はすっかり周囲の者達と打ち解け、順風満帆に仕事をこなしていた。
「村上さん、幸和バルブと丸井金構への納入実績のデータ処理が終わりました! チェックをお願いします!」
「もう出来たのかい? 早いね。在学中にP検一級取得は、伊達じゃ無いか」
ニコニコと差し出された書類の束を見て、村上が心底感心しながらそれを受け取ると、机の向こう側から加山が確認を入れてくる。
「藤宮さん、グレイバインの販売パターンシュミレーションの方は、どうなってるかな?」
「あ、それはあと三十分あれば出来ますから、完成次第そちらにデータを飛ばします」
「流石だね」
もはや何も言えず、口笛でも吹きそうな表情をしてから加山は自分の仕事を再開したが、美幸が自分の机に戻ると同時に、隣の高須が声をかけてきた。
「なぁ藤宮、昨日午後の始業に遅れたのは、ここの近くで荷物引ったくられて立ち往生してたフランス人を、交番まで連れて行って事情説明してやったって本当か?」
「はい。同期の人達とお昼を食べた帰りに遭遇しまして。日本語は話せないし同行者と離れて単独行動中の上、連絡先はバッグの中で、その女性が泣きそうになっていたんですよ」
椅子に座りながら淡々と状況説明をした美幸に、高須が思わず呻いた。
「喋れるんだ、フランス語」
「はい、英語は当然として、その他にドイツ語とポルトガル語と中国語も、日常会話程度なら大丈夫です!」
「……へぇ、そりぁ凄い」
当然と言われた英会話すら、何とかモノにしたレベルの高須としては、これ以上突っ込んだ話をして先輩の威厳を崩壊させたく無かった為、そこで会話を打ち切った。すると滅多にこのフロアに現れない人物が部長の谷山と共に部屋に入って来たと思ったら、谷山と別れて真っすぐ二課のスペースにやって来る。
「やあ、藤宮君、頑張っているかね?」
そう声をかけてきた人物を振り仰いだ美幸は、優雅に立ち上がり、綺麗なお辞儀をしてみせた。
「笹城戸課長、お久しぶりです。お陰様で希望部署に配属させて頂き、ありがとうございます」
人事部でそれなりに力を持っている笹城戸に、美幸がにっこりと微笑むと、相手も満更では無い顔付きで鷹揚に頷いてから顔を寄せ、低い声で囁いた。
「いやいや、ここは色々難しい所だから、配属を決定したものの気になってね」
「はい、大丈夫ですからご心配なく。でも笹城戸課長の様な将来有望な方に、気にかけて頂けるなんて嬉しいです」
同じ様に声を潜めて礼を述べた美幸に、笹城戸が幾分照れくさそうに笑う。
「こら、お世辞は止したまえ。将来有望だなんてこそばゆいよ。現に研修中の面接の時に、一度顔を合わせただけだろう?」
「あら、あの一回で十分です。服装も一分の隙も無くビシッと決まってて、流石一部上場企業の管理職の方は違うなぁと、惚れ惚れしましたから。特にあの濃紺のネクタイとか。あれで笹城戸さんの顔とお名前を覚えてしまった位ですし」
美幸がそう言った途端、笹城戸は軽く目を見開いてから、如何にも嬉しそうに顔を緩めた。
「おや、そうだったのかい?」
「はい! だってあんな微妙な色合いと柄の物を使いこなしているなんて、それだけで尊敬に値しますし、良くお似合いでしたよ?」
「そうかそうか! いや、藤宮君こそ将来有望な社員だぞ? これからも頑張りなさい。何か有ったらいつでも相談に乗るからね」
「ありがとうございます。頼りにしています」
そこで笹城戸は愛想笑い全開の美幸の肩を軽く叩き、上機嫌で周囲の者達に、仕事中突然訪問した事を詫びながら去って行った。
「いやいや、それじゃあ邪魔したね。皆、頑張ってくれたまえ」
「はぁ……」
「どうも……」
皆揃って微妙な顔付きで笹城戸を見送ってから、高須が美幸に向かって怪訝そうに囁いた。
「おい、藤宮。あの人社内ではワーストドレッサーで有名だぞ? 今だって、濃いグレーのスーツに赤紫のネクタイって有り得ないだろう。面接の時って、何を着てたんだ?」
「何って、礼服の様な真っ黒のスーツに、濃紺で斜めに銀色の細い線が幾つも入ってて、その間に金色の星が無数に縫い取られてるネクタイでしたが?」
それを聞いた高須は、美幸に疑惑に満ちた視線を向けた。
「お前……、そんなのが良いと、本気で思ってるわけ?」
「思うわけ無いですよ、そんな悪趣味な代物。だからこの人は常々周りから服装の趣味を貶されてるだろうから、衣装を誉めてヨイショすれば簡単に転がせると、インプットしただけです」
「そうか、良く分かった」
サラッとそう答えた美幸に、高須は僅かに顔を引き攣らせて話を打ち切った。するとここで真澄の声が響く。
「藤宮さん、ちょっと良い?」
「はいっ! 何ですか課長っ!」
途端に勢い良く立ち上がり、一目散に駆け寄って来た美幸に、真澄はいつもの事ながら僅かにたじろいだ。しかし何とか表面上は平静を装い、何枚かの書類を差し出す。
「え、えっと、ちょっとこの中国語の文章を訳して欲しいの。食品の貿易協定に関する条文を、見直しする動きが中国国内で強まっているとかで」
「お任せ下さいっ!」
力一杯請け負った美幸に一瞬引きながらも、真澄は取り敢えず伝えるべき内容を告げた。
「あ、りがと。それから……、紀陽グループの販売網調査のレポートを見せて貰ったけど、見事だったわ。良く短期間であれだけ纏めたわね。あれなら」
「きゃあぁぁっ! 課長に誉めて頂けるなんて光栄ですっ! これからも精進しますので、何でも遠慮なくビシビシ申し付けて下さいねっ!」
「え、ええ、そうするわ」
話の途中で美幸に手を握り締められ、感極まった状態でぶんぶんと振られた真澄は、何とか顔に笑顔を貼り付けて頷いた。そして美幸が満面の笑みで、書類を抱えて自分の席へと戻る。
「それでは失礼します! 早速取りかかりますのでっ!」
そして鼻歌混じりにスキップでもしそうな雰囲気で机に戻った美幸を眺めた同僚達は、彼女の様子を密かに観察しつつ、深い溜め息を吐いた。
(能力としては申し分無くて、実際に即戦力になってるのに)
(今時の子には珍しく、お嬢様学校出身だからか礼儀正しいし言葉遣いも完璧だから、立ち居振る舞いを一から教える必要も無いのに……)
(社交性も十分で、他の部署や外部の人間とのコミュニケーションもバッチリなのに)
「うっふっふっふ~、課長に誉められちゃったぁぁ~」
(どうして課長が絡むと、頭のネジが何本か緩んだ様な言動になるんだろう?)
それは二課に所属する美幸以外の全員が、この一月近く疑問に、且つ残念に思っている内容だった。
その日の昼時。社員食堂の一角は、特に賑やかだった。
「それでねぇっ、今日そう言う風に、課長に誉められたのっ!」
美幸の笑顔の後ろに、子犬が振り切れんばかりに尻尾を振って喜んでいる幻影が見えた総司は、思わず遠い目をしながら、些か投げやりに頷いてやった。
「そうかそうか、誉めて貰えて良かったな」
「うんっ! それに今日も課長は超絶美人で指示が冴え渡ってて、新規契約一本もぎ取ったんだって! 才色兼備って、まさに課長を言い表している言葉だよねぇぇっ!」
「……本当ね。羨ましいわ」
こちらも投げやりに晴香が話を合わせたが、途端に美幸が鋭い視線を向ける。
「やだ……、そんな羨ましいがっても、二課の椅子は絶ぇ~っ対に渡さないんだからねっ!」
それを聞いた晴香は、疲れた様に呻いた。
「あのね、さっきのはあんたが羨ましいって意味じゃなくて、課長さんの様になりたいわねって意味よ」
「なぁんだ、驚かせないでよっ!」
そこで笑いながら勢い良く美幸が晴香の背中を叩き、その痛みに晴香が恨みがましい目を向ける。
「……痛いんだけど」
「ごめんごめん、だってひょっとしたらとライバルになるかもって焦っちゃったから、ホッとしちゃって~」
そんなやり取りを昼食を食べながら大声で話していると、美幸の体内で危険信号が発生した。
(あれ? この感じ……)
ピリピリと身体に僅かに電流が走る気配に、美幸は黙って原因の気配を探る。そして自分とはテーブルを挟んで座っていた総司と隆に、真顔でいきなり尋ねた。
「ねぇ、あのね? 私の右斜め後方、約五メートルから十メートルの範囲に、私を睨んでる人とか居る?」
「うん? ああ、確かに居るな。男が三人。藤宮、お前何やったんだ?」
「男の人を泣かせる様な事は、特に何もしてないけど。私って存在自体が罪なのかしら?」
白々しく言ってのけた美幸に対し、総司が呆れて窘めた。
「真顔でそういう冗談を言うな」
「だって本当に身に覚えが」
「げっ、あれ、俺んとこの先輩達だ」
そこで狼狽しながら口を挟んできた隆の台詞に、晴香が思わず呻く。
「という事は、営業一課の人? 最悪。美幸、あんたの課長の自慢話、絶対連中に聞こえてたわよ? 大声で吹聴してたから」
「そりゃあ、向かっ腹立てるよなぁ……」
「本当の事を言って、何が悪いのよ」
合いの手を入れた総司に美幸が拗ねた様に反論しようとしたが、ここで事態が動いた。
「お前なぁ……。って、こっち来るぞ!」
「げっ、やばっ」
総司と隆が狼狽したが、美幸は平然と昼食のハヤシライスを食べ、晴香はすっかり高みの見物を決め込んだところで、二十代後半の男三人組が、美幸達の居るテーブルまでやって来た。
「やあ、田村。今日は同期と食べてたのか?」
「は、はい! お疲れ様です、早川さん、青木さん、山崎さん」
「ああ、お疲れ」
慌てて立ち上がってお辞儀をした隆から視線を動かし、三人は薄笑いの表情を浮かべながら、揃って美幸に目を向けた。
「それで? そっちのカワイ子ちゃんが、企画推進部二課の新人さんだよね?」
それに全く臆する事無く、美幸が静かに立ち上がって礼儀正しく頭を下げる。
「はい、藤宮美幸です。宜しくお願いします」
すると三人は苦笑しながら、口々に言い出した。
「宜しく。君の噂は色々聞いてるよ?」
「そうそう、営業部と海外事業部と秘書課からの誘いを蹴って、企画推進部一本で配属希望を出したとか」
「良くご存じですね?」
「部長が悔しがっていてね。柏木課長に取られたって」
「別に課長が横取りしたわけじゃありませんよ? 単に私が柏木課長以外の人の下で、働きたく無かっただけで」
その他はまるで眼中に無いとでも言いたげな口振りに、その場の雰囲気が一気に悪化した。
「新人の癖に……。少しは、口の聞き方に気をつけたらどうだ?」
「何の事でしょう?」
「おいっ、藤宮!」
睨み付けてくる相手に笑顔で返す美幸に、流石に隆が小声で窘めた。しかし横から小馬鹿にした様な声が割り込む。
「よせよせ、営業は所詮男の職場だからな。お嬢さんは『お姉様~』とか言って、おままごとしてれば良いだろう?」
「そうだな、企画推進部は所詮お試しで作られた遊び場でなんだし、それが似合いか」
そんな事を言って三人で「あははは」と笑い出すと、美幸は良く通る声で食堂中に聞こえる様に明るく言い放った。
「そうですか~、営業は男の職場なんですか~。だから『兄貴~』って男同士でくっついてて、営業一課は課長以下独身男性ばっかりなんですね~。私所謂腐女子じゃないので、そんな世界理解不能で、入っていけませ~ん。入っていくつもりもないしぃ~、企画推進部に入れて、本当に良かったわぁ~」
そのあまりの暴言に、総司を始めとしてその場全員瞬時に固まり、一瞬遅れて営業一課三人組が、揃って怒声を張り上げた。
「なっ、何だと、この女!?」
「俺達ばかりか、課長まで侮辱する気かっ!」
「ふざけんなよ!?」
しかし男三人を向こうに回しても、美幸の勢いは止まらなかった。
「ふざけるな? はっ! それはこっちのセリフよ! 自分の所が業績がふるわいからって、ぶっちぎりトップの二課をひがんで妬んだ上、年下女に嫌味言って鬱憤晴らししようなんてね。そんなだから、毎回ブービー賞止まりなのよっ!」
「なっ!!」
「お前っ!」
「このっ……」
もはや怒りで顔を赤黒くさせている三人を見て、流石に晴香が美幸の腕を引っ張りつつ叫んだ。
「ちょっと美幸! 今のは流石に、謝罪するべきよ!」
「あ、そっか。ブービー賞って下から二番目の事だったっけ。間違いました。万年二位とブービー賞では大違いでしたね。申し訳ありません」
笑顔でにこやかに謝罪した美幸に、晴香は説得を諦めて黙って額を押さえた。そしてプルプルと全身を震わせて、山崎が低い声で呻く。
「てめっ、わざと間違ったな?」
「あら~? 何の事でしょう?」
「ふっざけんな、この女!?」
「先輩!」
「美幸!」
ふてぶてしくしらばっくれた美幸に、とうとう我慢できなくなった山崎が、衆人環視の中美幸に向かって手を振り上げた。流石に隆が止めようとし、晴香が避ける様に注意を促す様に叫んだが、山崎の手がいきなり空中で止まる。
「……っ!? ててっ! 誰っ!」
「城崎っ!?」
「げっ」
いつの間にか山崎の背後に現れた城崎が彼の手を捕らえ、逆手に捻り上げていた。
「お前ら……、俺の部下に何をする気だ?」
突然現れた城崎に美幸達が目を丸くする中、城崎は冷え切った声音で山崎達を恫喝した。それにたじろぎつつ、三人が負けじと言い返す。
「う、五月蝿いっ! あんたこそ引っ込んでろ!」
「この礼儀知らず女に、身の程ってのを教え、てててっ!!」
「おい、離せよっ!」
しかし喚き立てる三人を冷笑した城崎は、山崎を勢い良く突き飛ばしながら皮肉を放った。
「はっ、礼儀知らずはどっちだ? 年下の女性に絡んだ挙げ句、暴力を振るうとはな。営業一課はそんな教育をしているのか? どっちが柏木産業の面汚しなんだか」
「何だと?」
「言わせておけば……」
「そんなろくでもない事をやってる暇が有ったら、取引先の電話番号と担当者の名前を暗記するのに時間を使え。当然百件位はソラで言えるんだろうな?」
正論を吐いた城崎に青木と山崎は無言になったが、早川は意地悪く顔を歪めながら、確認を入れた。
「へぇ? じゃあ敏腕と名高い城崎係長様は言えるんですか?」
「当たり前だ。軽く二百は頭に入れてる。それに仕事上で関係が深い企画推進部、営業部、海外事業部、法務部、経理部の全社員の顔と名前は一致させる様にしているしな」
それを聞いた早川は、鬼の首でも取った様に大笑いした。
「ははははっ! 聞いたかよ!? どうやら企画推進部ってのは、大言壮語とはったりをかます、身の程知らずの集まりらしいな! 全員で何人居ると思ってんだよ!」
「それなら試してみたらどうだ?」
冷静に提案してきた城崎に、早川が嬉々として横のテーブルに座っていた人物を指差した。
「おもしれぇ。じゃあサクサク答えて貰おうか。この人は誰だ?」
「営業四課の松島智弘さんだ」
「じゃあこの人は?」
「経理部の但馬希美さん」
「それならこの人は?」
「法務部の麻生忠さん」
「それならこっちは!?」
「海外事業部の野崎昌彦さん」
「…………っ!」
途中から青木と山崎も一緒になって食堂中を行き来し、指定した人物の所属を城崎に尋ねたが、五十人を越えても城崎は誰一人間違える事無く即答し、質問していた三人は流石に顔色を変えた。
「どうした。もう終わりか?」
「五月蝿いっ!! じゃあこの人はっ!」
そう叫びながら勢い良く早川が指差した人物を見て、城崎は最早憐れむ様な視線を向けた。
「お前な……、その人は総務部庶務課長の森末さんだ。……お久しぶりです、森末課長」
そう言って如才なく頭を下げて挨拶した城崎に、森末が笑って頷く。
「ああ、暫くぶりだね、城崎君。相変わらず冴え渡っているな」
そして早川に向き直った城崎は、容赦なくとどめを刺した。
「日頃そんなに接する事が無い部署とは言え、部課長クラス以上の方の名前と顔位は、全員分頭に叩き込んでおくんだな。これ以上恥の上塗りをする前に、とっとと失せろ」
「……っ」
「おい」
「ああ……」
これ以上絡んでも無意味だと理解してしまった三人は、悔しそうに顔を歪めながらスゴスゴと元の席へと戻って行った。それを見送った美幸が、上機嫌で城崎に声をかける。
「とっても格好良かったです、係長!」
しかし城崎は、そんな誉め言葉に感激した素振りなど見せず、先程に負けない冷たい口調で問い質してきた。
「藤宮さん? 俺の警告を覚えているか? 忘れてしまったのなら、思い出させてやっても良いが……。それでも思い出せないなら、配置転換だな」
それを聞いた美幸は、瞬時に(営業一課とは事を構えない事)と言われた事を思い出し、真っ青になって弁解した。
「おおお覚えていますっ! でもあれはっ! 向こうから絡んで来たので、不可抗力でっ!」
涙目で必死に訴える美幸を見て、城崎は小さく溜め息を吐いた。
「前振りの君のあれもどうかとは思うが……、まあ、今回は大目にみようか。以後気を付ける様に。それから……」
「な、何でしょうか?」
びくびくしながら美幸がお伺いを立てると、城崎は僅かに身体を屈め、美幸の耳元で囁いた。
「報復する気なら、今回の様にあからさまに表には出さない事。かつスマートに、二課の不利にならない方法で遂行する。以上だ」
「……はぁ」
思わず生返事をした美幸を、体勢を戻した城崎が目を眇めて見下ろすと、美幸はピクッと弾かれた様に直立不動の姿勢になって力強く宣言した。
「はいっ! 以後、重々気を付けます!」
「良し。騒がせて悪かったね。ゆっくり食べてくれ」
「いえ」
「お気遣いなく」
美幸に対して重々しく頷いてから、城崎が同席していた総司達に穏やかに笑いかけ、その場から立ち去った。と同時に緊張が一気に解れた三人が、思わず口々に声を漏らす。
「はぁ……、あれが二課の城崎係長? 実物を初めて見たけど、噂通りすんげぇ迫力」
「流石、柏木課長の下で、うるさ方を向こうに回してやってるだけあるわねぇ……。東成大首席卒業の噂は本当みたい」
「不味い。戻ったら、絶対先輩達にどやされる」
一人頭を抱えた隆に対し、総司と晴香が同情する視線を向けた。
「頑張れ、隆」
「お疲れ」
しかし美幸はその流れに同調せず、何やら一人でブツブツ呟いていた。
「うぅ~、やっぱり消化不良。一発殴らせたら正当防衛が成り立つから、ボコボコにしてやるつもりだったのに、係長が割り込んで来ちゃったから」
「美幸ったら、そんな事を考えていたの?」
「怖すぎる奴……」
呆れた表情を隠そうともしない同僚達の視線を、一身に浴びた美幸だったが、ここで勢い良く立ち上がった。
「よし! 係長の意見を踏まえた、良い方法を思い付いた! ごめん、用事が出来たからこれ食べて! それじゃあねっ!」
そう言うやいなや、美幸は止める間もなく走り去って行き、周りは唖然として見送った。
「あ、ちょっと美幸!」
「……相変わらず、思い付いたら即実行だな」
「ある意味羨ましいわ。でもこれ、どうしよう?」
美幸が半分程残していったハヤシライスのトレーを見下ろしながら、晴香が困惑顔で告げると、反対側に座っていた隆が嬉々としてそれに手を伸ばした。
「あ、俺食べるから」
「そう? じゃあお願い」
「おう」
そうして皿に乗っているスプーンに手を伸ばした隆に、晴香がさり気なく問い掛けた。
「ひょっとして、『このスプーンで食べたら間接キスだ~』とか、痛過ぎる事を考えてない?」
晴香がそう口にした途端隆はビシッと固まり、慌てて手にしたスプーンをトレーに置いて立ち上がる。
「かっ、考えてるわけ無いだろっ! 新しいスプーンを貰って来る!」
「あらそう、変な事言ってごめんなさいね」
「全く、変な事言うなよ!」
そうして怒っている様な口調で文句を言いつつ、食器が揃えてある方に歩き出した隆の背中に、総司と晴香は生温かい視線を向けた。
「馬鹿だな」
「馬鹿よね」
ある意味美幸以上に、この同期二人に心配されている隆だった。
一方、食堂から姿を消した美幸は、近隣のドラッグストアに飛び込み、首尾良く目的の物を購入して社屋ビルにとって返した。しかし自分の職場には向かわずに、営業部が入っているフロアに直行する。
「失礼しま~す!」
営業一課の部屋に入り、明るく挨拶した美幸は、迷わずに窓際にある課長席へと足を向けた。
「うん?」
「あれ?」
「君は……」
昼時ではあったが室内に残っていた何人かが怪訝な顔をする中、美幸は残って仕事をしていたらしい浩一の元に歩み寄り、改めて声をかけた。
「浩一課長でいらっしゃいますね。申し訳ありません、今お仕事中でしょうか?」
「いや、今ちょうど一区切り付いて、これから休憩に入ろうかと思ってた所で大丈夫だけど、君は?」
椅子に座ったまま、不思議そうに自分を見上げてきた浩一に、美幸は愛想良く笑いながら挨拶した。
「申し遅れました。私、今年企画推進部第二課に配属になりました、藤宮美幸と申します。お見知りおき下さい」
そう言って頭を下げた美幸に浩一は顔を綻ばせ、立ち上がりながら右手を差し出した。
「ああ、噂は色々聞いています。優秀な人が姉の下に入ってくれたと聞いて、嬉しく思っていました」
「ありがとうございます。光栄です。先程も社員食堂で浩一課長の部下の方に、丁寧なご挨拶をして頂きました」
差し出された右手を握り返しつつ美幸が笑顔で告げると、浩一の笑顔が僅かに強張った。
「ご挨拶……、君に?」
「はい!」
「因みに、どんな《ご挨拶》だったのかな?」
そこで手を離した美幸は、考え込む素振りをしながら話し出した。
「えっとですね、何でも『正真正銘のサラブレッドな浩一課長とは違って、柏木課長は血も涙もない暴れ熊で、下の人間を馬車馬並みにこき使うから擦り切れ無いうちに異動した方が良いよ?』とか、『問題ありまくりでも能力が有るかどうかで部下を選んでいるから、普通の俺達を使っている浩一課長の方が、業績を上げられないのは当然だ』とか、『恥知らず課員は周囲を不快にさせない様に、食堂でも隅で食べるのが礼儀だ』とか、『柏木課長は女じゃないから、弟に花を持たせる位の心配りが出来ないんだよな。女の君が入ったんだから、ここは一つ女の嗜みとして言ってみてくれない? そうすれば社内でも居心地良くなるよ?』とか、色々とご親切に教えて頂きまして」
「へぇ? それはそれは……」
美幸の話を聞いている間に、顔は笑顔のままの浩一のこめかみに、青筋が浮かんできた。それに気付かないふりで、美幸が話を続ける。
「その折りに、『浩一課長が柏木課長に負け続けて、最近元気が無くて疲れ気味だ』との話も聞きまして。柏木課長を応援するのは二課の一員としては当然ですが、浩一課長は柏木課長の弟さんですし、課長のライバルとして頑張って頂きたいので、これを持って来ました!」
そう言って美幸は手に持ってきたビニール袋を、浩一の机の上にドンっと置いた。その質量に、流石に浩一が怪訝な顔をする。
「これって」
「はい! ドラッグストアのおじさん一押しの【一発逆転、特選ロイヤルパワー】1ダースですっ!」
「…………」
ビニール袋の中から一つの細長い箱を取り出しながら美幸が説明すると、浩一を始めとして室内に居た全員が無言で美幸を凝視した。それを無視しながら、美幸がにこやかに説明を続ける。
「お店のおじさんに、『最近疲れ気味で自信喪失している男の人を、元気にさせたいんです』と相談しましたら、『それなら絶対コレ! 一本三千円するけど、スッポンとマムシとローヤルゼリー、その他諸々の滋養強壮の成分がたっぷり詰まってるから、飲んだ途端に体中あちこちが元気になること請け合いだよっ!』と太鼓判を押してくれました! 是非、お試し下さい!」
「あの、藤宮さん?」
盛大に顔を引き攣らせながら浩一が話し掛けようとしたが、美幸は浩一の手に黒を背景に赤と金字が踊る、派手派手しい上、如何にも怪しげなその箱を、浩一に押し付けて頭を下げた。
「あ、もし万が一効果が無かったら、返品に応じてくれるそうなので、レシートも一緒に置いて置きますから。それじゃあ失礼します。これからも柏木課長の次に、浩一課長の事を応援してますね? お邪魔しました!」
「ちょっと、藤宮さん!」
言うだけ言って踵を返して立ち去ろうとした美幸だったが、ドアの付近で、食事を済ませて戻って来た例の三人組と隆に遭遇した。
「あ?」
「げっ」
「何でお前がここに?」
顔色を変えたのは男達のみで、美幸は笑顔を浮かべつつ余裕綽々で挨拶をする。
「先程はご挨拶とご助言を、色々とありがとうございました。青木先輩、山崎先輩、早川先輩、今後とも宜しくお願いします。それでは失礼しま~す!」
そうして元気に立ち去って行った美幸を見た早川達は「何しに来たんだ?」「やっぱりあそこの人間は分からん」などとブツブツ呟いていたが、そんな余裕はそれまでだった。
「青木、早川、山崎、田村、ちょっとこっちに来てくれ」
幾分固い声で浩一に呼ばれた四人が課長の机の前に立つと、浩一は立ったまま、皮肉っぽく口元を歪めて問い掛けた。
「お前達……、よりにもよって人の姉を社員食堂で『血も涙もない暴れ熊』呼ばわりした上、『サラブレッドの課長がそんな暴れ熊に勝てないのは道理だから、手心を加えてくれ』とか言ったのは本当か? 他にも色々と、興味深い話を聞いたが」
「はあぁっ!?」
「いや、まさか!」
「俺達、誓ってそんな事は!?」
「あのっ! 俺は本当に無関係で!」
予想外の事を言われ、美幸に因縁を付けた三人は勿論、巻き添えを食った形の隆も必死に弁解しようとしたが、四人の目の前で浩一は先程美幸が持って来た代物を突き出しながら、薄笑いで再度尋ねた。
「じゃあ何を言ったんだ? 俺はさっき来た新人に、深く同情された挙げ句、『部下の方がお疲れと言っていたので、これで疲れを癒やして下さい』と、これを差し入れて貰ったんだが?」
「…………」
そこで差し出された微妙過ぎるそれを見た男達が、全員揃って顔を引き攣らせて黙り込むと、浩一は力任せに自分の机を叩きながら一喝した。
「黙っていないで、洗いざらい吐け!! 言っておくがこの期に及んで、適当に誤魔化しておこうなどとは考えるなよ!? どうせ今頃は、社内中に噂が広がっているだろうからな。分かったかっ!!」
「わ、分かりましたっ!」
そうしてその日、普段温厚で滅多に怒りを露わにしないと言われている営業一課長の雷が、四人の部下に対して派手に落とされる事になった。
同日夜、柏木邸での姉弟の会話。
「姉さん、お疲れ。ちょっと良いかな?」
「浩一? どうかしたの?」
真澄が自室で机に向かっていると、浩一が声をかけてきた為背後に向き直った。すると浩一が微妙な表情で、真澄にある事を告げる。
「その……、姉さんの所に入った新人の子、昼に俺の所に来たんだ」
「え? 藤宮さんが、浩一に何か言ったの?」
途端に嫌な予感に襲われた真澄は浩一に詰め寄ったが、彼は姉から視線を逸らしつつ、質問の答えをはぐらかした。
「その……、どうやらきっかけは、俺の部下が彼女に食堂で絡んだ事らしくて……。彼女も悪気は無いから、多分」
「だから何を言ったのかと、聞いてるのよ!?」
「……姉さん」
「な、何?」
急に真顔になり、両肩を掴んで自分の顔を見詰めてきた弟に、真澄はなんとなくたじろいだ。すると浩一が、しみじみと告げる。
「色々大変そうだと思うけど、頑張って」
「……もう何も言わないで。お願いだから」
浩一の懸念と真澄の悲哀を深めながら、その夜は静かに更けていった。




