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猪娘の躍動人生  作者: 篠原皐月
第二章 二年目はガチンコバトル

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12月 何故か職場は針のむしろ

 未だ足のギプスが取れないまま退院した美幸だったが、「退院した以上は出勤するわ!」と宣言し、周囲が心配する中、週明けから職場復帰する事になった。その日は朝から生憎の天気だったにも係わらず、秀明に事前に言い含められていた通り城崎が車で迎えに来た為、美幸は恐縮しつつも、松葉杖と共にその後部座席に乗り込む事となった。


(美野姉さん……、勤務先が同じなんだから一緒に乗って行けば良いのに、「私、お邪魔みたいだから、先に行くわね!」って、一人だけさっさと逃げて。後で覚えてなさいよ?)

 窓に張り付く雨粒が斜めに流れ落ちていくのを眺めながら、美幸が恨めしく思っていると、運転席から気遣わしげな声がかけられる。


「さっきから黙っているが、乗り心地が悪かったか?」

 その問いに、美幸は弾かれた様に反応した。

「いえいえ、結構な乗り心地でございます。車内空間も十分で、杖を持ち込んでも全然狭くないですし」

「それなら良かった」

 慌てて否定した言葉に、ホッとした声が返ってきた為、今回の事でこの車を購入する羽目になった城崎に、美幸は心底申し訳なく思った。


「あの……、係長。わざわざ朝から迎えに来て下さって、ありがとうございました」

 その殆ど謝罪の言葉に、城崎が運転しながら苦笑いで返してくる。


「これから暫く送り迎えする事になるんだから、一々気にするな」

「きっ、気にしますから! 第一、私の送り迎えの為だけに、車を買うって何なんですか!?」

「じゃあ有効活用する為に、今度ドライブにでも行くか」

「は? 有効活用って」

「だが当面は無理だな。休日出勤決定だし」

 何気なくそんな事を言われて、その意味する所をすぐに悟った美幸は、慌てて申し出た。


「それって、私の退社に合わせて係長が送り届ける必要があるからですよね? 帰りは大丈夫ですから。自力で帰れます!」

 しかし城崎は、そんな美幸の言葉を、どこ吹く風で受け流す。


「しかしついてないな。復帰初日に雨とは。足元が滑りやすくなっている所があるかもしれないから、十分注意しろよ? 特に外より、一階ロビーに入ってすぐの床には要注意だ」

「お願いですから、私の話を聞いて下さい!」

「ああ、玄関前に蜂谷を待たせているから、鞄はあいつに持たせる様に」

「あのですね……」

(係長もお義兄さんも……。多少いつもより時間はかかるだろうけど、自力で通えるって言ってるのに、どうして聞く耳持たないのよ!?)

 最近妙に押しが強い城崎に美幸が太刀打ちできない間に、車は柏木産業の自社ビルがそびえ立つ通りに入った。


「じゃあ、俺は近くの借りている駐車場に車を入れてくるから、ここで降りてくれ」

「はい。ありがとうございました」

 そして自社ビルの前に静かに停車した為、美幸は色々と諦めて礼を述べたが、それが言い終わるとほぼ同時に、勢い良く外からドアが開けられた。


「藤宮先輩! 職場復帰、おめでとうございます。さあ、お持ちしますので、お荷物をどうぞ!」

 そこには満面の笑みの蜂谷が、ドアを開けた隙間に傘を差し掛けながら立っており、(ここで超特大の花束付きじゃないだけマシよね)と自分に言い聞かせながら、美幸は鞄を手渡した。


「……ありがとう。お願い」

「畏まりました」

 そうして蜂谷が受け取った鞄を片手でしっかりと抱え込んでいる間に、美幸は歩道に杖を付いて降り立った。すると蜂谷が後部座席のドアを閉めてから、美幸に雨がかからない様に再度傘の位置を変える。


「さあ、傘にお入り下さい」

「ありがとう、助かるわ」

 そうして車が走り去るのを気配で感じつつ、ビルの正面玄関に向かって歩き出した美幸だったが、ふと傍らに目をやって、従順な後輩に声をかけた。


「……ええと、蜂谷?」

「何でしょうか? 藤宮先輩」

「あんたが派手に濡れてるけど?」

「どうぞお構いなく!」

 自分は傘のお陰でさほど濡れていないにも関わらず、傘を手にしている人間の全身に雨が降り注いでいる状況に美幸は顔を引き攣らせたが、当人の晴れ晴れとした笑顔を見て、ここで何か言うより先にとにかく雨が当たらない場所に移動しようと瞬時に判断した。


「……急いで中に入るわ」

「あ、足元にお気をつけ下さい!」

 そして美幸は、自分達が出勤してくる柏木残業の社員の視線を集めているのを嫌と言う程意識しつつ、ビル内に入った。


(周りからの視線が痛い……。絶対、私が蜂谷を顎でこき使ってる図よね、これ。確かに仕事でこき使っている自覚は有るけど……)

 そして頭痛を覚えつつ、ずぶ濡れになりながらも相変わらずにこにことしている蜂谷を従え、美幸が企画推進部のある部屋に入った。


「おはようございます」

 自分の席に向かいながら挨拶をすると、隣の席の理彩が安堵した様に声をかけてきた。


「おはよう、藤宮。無事に復帰できて良かったわね。でももう少し休んでいても、良かったんじゃない?」

「確かにギプスが取れるまでは少し不自由ですが、仕事はできますから」

 やる気満々でそう答えると、家族同様に苦笑が返って来る。

「藤宮らしいわね。でも無理しない様に。お昼とかも買ってきて欲しい物があったら、下に行くついでに買ってきてあげるから」

「ありがとうございます。その時はお願いします」

 そこで理彩は、美幸の席に鞄を置いた蜂谷を見て目を丸くした。


「蜂谷君どうしたの、そんなに濡れて。置いてあるタオルを貸してあげるから、早く拭きなさい」

 その声に田辺や大岡が寄って来て、甲斐甲斐しく世話を焼き始める。


「その前に上着を脱いで、乾かしておきなさい。ハンガー、持って来てあげるから」

「そんなに酷い雨じゃなかったのに、どうしたの? それに傘だって持ってるのに」

 最近ではすっかり女性陣のペットと化した蜂谷が、あれこれ構われている情景から意識的に目を逸らした美幸は、両手で松葉杖を付きながら課長席へと向かった。


「職場復帰、おめでとうございます、藤宮さん」

 すると近寄ってくる美幸を認めた課長代理が、嘘臭い笑みを浮かべながら声をかけてくる。それに若干顔を引き攣らせながら、彼の目の前に立った美幸は軽く頭を下げた。


「……どうも。長らくお休みを頂きまして」

「そんな事は気にせずに、ゆっくり休んでいても良かったんですよ?」

「なんとなく、長々と休んだら、机が無くなっている様な気がしたもので」

「何やら、被害妄想の気があるみたいですね。やはりもう少し休んだ方が良くはありませんか?」

 含み笑いで勧めてきた清人だったが、美幸は断固として復帰を主張した。


「結構です。滞っている業務もあるかと思いますし、遅れを取り戻す為にも今日から復帰します」

「別に業務は滞っていませんよ? 藤宮さんに任せた、来月の入札の件以外は」

(つくづく嫌味な奴! 確かに私一人に任せられてるのは、あの入札の仕事だけだけどねっ!!)

 ニヤリと笑いながら言われた内容に、美幸のこめかみに青筋が浮かび上がったが、彼女が何か言い返す前に、新たな声が割り込んだ。


「課長代理、おはようございます」

「おはようございます。城崎係長、ちょっと宜しいですか?」

「はい、何でしょうか?」

 ここで近くの駐車場に車を停めてからやって来た城崎と、清人が何やら真剣な表情で打ち合わせを始めた為、美幸は不満を抱えながらも大人しく席へと戻った。

 それからは休んでいた間の遅れを取り戻しつつ、自由に動き回れない不便さを実感しながら仕事をこなしていた美幸だったが、昼休みになって、また別の事について困惑する羽目になった。


「あの……、係長?」

「どうかしたか?」

「その、どうしてこういう事態になっているんでしょうか?」

 向かい合わせに座っている相手に、控え目に尋ねてみた美幸だったが、城崎は事も無げに返してきた。


「企画推進部内の応接セットで、昼休みに俺と差し向かいで昼食を食べている事が何か問題でも? それか《ラデル》のコールスロー添えBLTサンドが嫌いだったか? それともホットコーヒーじゃなくて、紅茶の方が良かったとか?」

「いえ、ここのサンドイッチは好きですし、これには紅茶より珈琲だと思いますけど! わざわざ係長に買って来て頂くのは、心苦しくてですね」

「松葉杖をついてるのに、エレベーターを使うにしても大変だろうが。手間に関しては気にするな。代金は俺持ちだが、蜂谷に買って来させた」

「そうですか……。あの、後から代金の半分」

「払いは俺持ちだから」

「……ご馳走になります」

 せめて割り勘にと思った美幸だったが、有無を言わせない口調で迫られ、大人しく奢られる事にした。


(係長、入院中から変な方に強引というか、仲原さん曰わく『妙に振り切れた』のが如実に出ているっていうか……。何か慣れなくて疲れる)

 そしてもそもそとサンドイッチを食べながら、美幸は激変しつつあるこれからの生活を思って、小さく溜め息を吐いた。


「ただいま……」

 色々な意味で疲労して美幸が家に帰ると、車が門前に止まる音を聞きつけたのか、美子が玄関に出迎えに来ていた。


「お帰りなさい。どうだった? 足は痛まなかった?」

「うん、結構疲れたけど」

 そのまま家に上がれる様に、用意しておいた雑巾で松葉杖の先を綺麗に拭き取りながら、美子が尋ねてくる。


「そんなにお仕事が大変だったの?」

「そうじゃなくて、係長や蜂谷があれこれ世話を焼いてきて、ちょっとウザかったわ」

 それを聞いた美子は、杖を美幸に渡しながら小さく笑った。


「秀明さんったら、相当脅かしたのね。気の毒に。じゃあ課長代理さんも?」

 その問いに、美幸は苦々しげに答える。

「……あいつは復帰早々、山ほど仕事を回してくれたわよ。ありがたくて涙が出るわ」

「まあ」

 そこで楽しそうに微笑んだ美子と共に、美幸は杖を付きつつ廊下の奥へと進んだ。


「でもさすがに毎日、係長に帰りも送って貰うのは……。そのせいで係長が残業するのに支障が出ているし、休日出勤が確実みたいなのよね」

「あら、そこまでは思い至らなかったわ。とんだご迷惑よね」

 困惑顔で美子が同意を示してきた為、美幸は勢い込んでまくし立てた。


「そうよね! 幾ら何でも申し訳無いわよね? 美子姉さんから秀明義兄さんに、せめて帰りは送って貰わなくても良い様に」

「せめてものお詫びに、明日から城崎さんに夕食を食べていって貰いましょう。自宅に戻ってから準備するのは手間でしょうし、外食続きも健康に悪いもの」

「え? あ、あの、美子姉さん?」

 さくっと提案してきた美子に美幸が翻意を促そうとしたが、美子は既に決定事項であるかの如く微笑む。


「そういう事だから、美幸。食べ終わったら、早速城崎さんに連絡を入れてね?」

「……はい」

 長年の経験上、この類の微笑みを浮かべている時の長姉に逆らう事は無理だと分かっていた美幸は、素直に頷くしか選択肢が無かった。


「……そういうわけで、宜しかったら、明日から私を送ってきた時、夕飯を一緒に食べていただきたいな~と、思っておりまして」

「…………」

 そして指示通り夕食後に美幸は電話をかけてみたが、美子の話を伝えると、返ってきたのは沈黙のみだった。


「あの……、係長?」

 恐る恐る声をかけてみると、正気に戻ったらしい城崎が、些か慌て気味に問い返してくる。


「あ、いや、すまん。因みに、藤宮社長と先輩は、いつも何時位に帰宅されるんだ?」

「二人とも、帰宅時間は一定では無くて……。今日と同じ時間帯に帰るなら、一緒に食べるのは週に一度位でしょうか?」

「それなら何とか……」

 考え込みながらの美幸の台詞に、口の中で何やらもごもごと自問自答してから、城崎は腹を括った様に了承の言葉を返してきた。


「夕食の事は分かった。お姉さんに宜しく伝えてくれ」

「はい、分かりました。それでは失礼します」

「ああ、おやすみ」

 最後は苦笑混じりのその声に、美幸は疲労感を増大させながら通話を終わらせた。


「なんか……、益々泥沼に嵌まっている様な気がする。あれ?」

 そして時を置かずにかかってきた電話に、ディスプレイの発信者名を見て慌てて応答する。

「もしもし、美幸? 晴香だけど、今大丈夫?」

 そう断りを入れてきた友人に、美幸は気分転換とばかりに明るく言葉を返した。


「うん、平気だから。晴香、どうしたの?」

「ほら、年末に企画してた同期会だけど。あれ、今回はパスよね? 一応歩けるみたいだけど、お酒を飲むわけにいかないし、夜遅くまで出歩けないだろうし」

「うん、さすがにね。またあったら顔を出すから」

「こんな状態だし、皆も分かってるから気にしないで。今日復帰したばかりなのにもう噂が広がってるから、これが収束するまでは変な目で見られかねないし」

「……どんな噂が流れているわけ?」

 そう言って晴香が溜め息を吐いた為、嫌な予感を覚えながら美幸が問いただすと、晴香がとんでもない事を口にした。


「『自分に怪我させた相手を、裏で手を回して支店に飛ばした上、片足が使えない事を口実に、職場で恋人と後輩を顎でこき使ってる、転んでもタダでは起きない狡猾女』って。これだけ聞いたら、美幸ってとんでもない悪女よね~」

 コロコロと笑いながらの晴香の台詞を聞いて、美幸は思わず携帯を取り落としかけた。


「はいぃ!? ちょっと! 晴香、それ誤解だから!」

 盛大に反論しかけた美幸を、晴香が落ち着き払った声で宥める。


「はいはい、私は分かっているから。でも相変わらず、変なところで苦労してるわね、美幸。じゃあ頑張って」

 そうして晴香はあっさりと通話を終わらせ、美幸は固まったままその場に立ち尽くした。そして少ししてからゆっくりと携帯を耳から離し、翌日からの社内での視線と噂を想像して一人項垂れる。


「ま、負けないんだからっ!」

 復帰早々暗雲垂れ込めている職場環境を思い、美幸は挫けそうになる自分自身に言い聞かせる様に、力強く宣言した。



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