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埋没

作者: つき

秘密を形に残してはいけない。その最たるものが日記である。いくら巧妙に隠しても、周囲に見るなと伝えておいても、そこに存在している以上、自分以外の何者かの目に触れる可能性はゼロではない。秘密は暴かれてはいけないのだから、暴かれるような状態にしてはいけないのだ。秘密はとても魅惑的で、誘蛾灯のように人を誘う。


それを前提として、今私の目の前には日記帳がある。私のものではない。誰のものか。恐らくは母のものだ。確信を持てない理由は、ふたつ。一つ目は、母が日記をつけているなどと聞いたこともなく、母の性格からは想像もつかないこと。そして二つ目は、母のものかどうかを確認したくても、当の母は一週間ほど前に墓の下に埋められてしまったからである。ワタシ胡桃を歯で割れるのヨ、とよく(正直どうでもいい)自慢を語っていた屈強な顎は、筋肉を伴わなくなった時点でただの白いカルシウムに成り下がった。もう米粒すらも潰せないだろう。


胡桃を割れるほど屈強な顎を持っていようとも、人はあっさり死ぬわけで、母も人であるからして墓の下に沈んでしまった。胡桃を割るのは結構なことだけれど、だからといって自分の頭まで割らなくてもよかったのに。誰もいない静かな部屋の中で、時計の針だけがチクタクと、世界から分離したように無感情に鳴り響く。


というか、どうして頭が割れたのだろう。そりゃあ頭蓋骨にだって限界はあるだろうから、くすんだ白色のカルシウムに文句を言うつもりはない。だけど、どうしてまるで、首から上だけ圧縮したような、複数の鈍器で複数の人から潰され続けたような、そんな割れ方をしたんだろう。胡桃を割るぐらいしか自慢のない、平凡な主婦だった母が。


その答えがもしかして、いや、恐らくはこの日記帳の中に示されているのだろう。鍵も何もかかっていない、メモ帳に毛が生えたような安っぽい薄っぺらの日記帳。この中にきっと、母の秘密が記されているのだ。フェルトに印刷されている滲んだ花柄は誘蛾灯で、私の指先を誘おうと必死に訴えかけてくる。


けれど私はいまだに、この日記帳を開けていない。日記帳自体が私の知らない母の秘密であり、きっとこの中に母の死に関連する何かが書かれていると、根拠のない確信まで持ち合わせているというのに、微動だにしない指先は花柄を拒絶するように、掌の中にくるまったままだ。


ひとつ、大きな溜息を吐く。日記帳から目を逸らす。私は、母の秘密を暴きたくない。母はもう死んだのだから、もう何も言えないのだから、私が一方的に秘密を暴くなんて、きっと母は嫌がるから。そう考えて、もう一度溜息を吐いて、それが建前だとわかっていて、指先はくるまるついでに私の掌を深く鋭く突き刺していく。


逸らした目がすべてを物語る。わかってる。私は、怖いのだ。母に母のままでいてほしいのだ。私の知っているただの主婦で、胡桃を割るぐらいしか自慢のない平凡な女性であってほしいのだ。それが私の母なのだから、今更あんな死に方をしても仕方のない理由など、知りたくはないのだ。身勝手だ。腰ぬけだ。理解はしている、けれど、そんな自分を責める強さなど私にはあるはずがなくて。


明日は燃えるゴミの日だったな、と、ぼんやり考える。こんな日記帳は、この世界から焼き消してもらおう。知らなければいい。知らなければ無いも同然だ。知っていることだけが世界のすべてなのだから。私は私の知っている母を、心から愛しているのだから。


なるべく視界に入らないように、机の上に置いた日記帳を手探りで手に取った。指先に伝わる、古くなったフェルト生地のざらざらとした感触。棺に納められた母の肌のようだ、と、またぼんやり考えた。涙はもう出なかった。きっと、母が代わりに泣いてるのだろう。











埋没


( 暗く冷たい場所へと埋もれてしまえ、母と同じに、深く深く )


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