弁護士の夫は幼なじみの母親の10円のために奔走したのに、私の母が命を奪われた事件は「受ける価値がない」と切り捨てた
母の命日、私は企業法務セミナー後の懇親会に出席していた。
グラスを手にした男が近づいてきて、どこか面白がるように尋ねた。
「高瀬先生、今でも黒川先生のことを恨んでるんですか? お母様の事故の時、依頼を断られたでしょう」
私はシャンパンを一口飲んだ。
「もう昔のことです。黒川先生は大企業の法務とクロスボーダーM&Aしか扱わない。それが彼の方針ですから」
男は小さくため息をついた。
「でも、今は相当後悔してるみたいですよ。あなたが戻ってくれるなら、家も貯金も全部渡していいって」
私はバッグからアイボリーの招待状を取り出した。
「それは残念ですね」
「来月、私、結婚するんです。黒川先生もお時間があればぜひ」
言い終わった瞬間、横から伸びた手が招待状を奪った。
紙が真っ二つに破かれる。
黒川恭介が、血走った目で私を見ていた。
私は一度だけ彼を見て、すぐに視線を外した。
もう、何も感じなかった。
何年も前、母は横断歩道を渡っている最中、酒を飲んだまま運転していた大企業創業家の息子にはねられた。事故のあと、相手は同乗していた知人を運転手に仕立てようとした。
病院へ駆けつけた時、母はもう息をしていなかった。私は残された資料をかき集め、最後の望みをかけて恭介のもとへ行った。
彼は書類を数枚めくっただけだった。
「交通事故は専門外だ」
「俺は企業法務をやってる。扱う案件にも方針がある。別の弁護士を探してくれ」
母の葬儀も、その後の手続きも、私は一人で片づけた。
それでもずっと、自分に言い聞かせていた。恭介はただ、自分のルールを守っただけなのだと。
ところが二年後。
彼は白石夏希の母親のために、商店街の店を一軒ずつ回り、防犯カメラ映像の保存と提供を頼んでいた。
夏希の母親は、店で十円の値引きをめぐって口論になり、相手に押されて転倒し、手首を痛めただけだった。それでも恭介は警察署まで付き添い、診断書や損害賠償の資料まで自分で整えた。
その時、初めて分かった。
彼のルールは、破れないものではなかった。
1
あれは、三回目の結婚記念日だった。
恭介が帰宅したのは深夜近く。リビングの明かりは消したままで、私はダイニングテーブルに置いたノートパソコンで翌日の訴訟資料を確認していた。
玄関から物音がして、恭介がブリーフケースを置く。
「電気もつけないで何してるんだ?」
「夕飯は? 残しておいてって言っただろ」
私は画面から目を離さなかった。
「明日、期日があるの。まだ資料を読み終わってない」
恭介はパソコンを一瞥した。
「賃貸借の案件?」
「請求額、いくらだよ」
「数百万円」
彼は鼻で笑った。
「そんな案件で夜中まで?」
「俺はさっきまでクロスボーダーM&Aの会議だったけど、そこまで大げさに忙しそうにはしてないぞ」
隠す気すらない軽蔑だった。
スマートフォンが鳴った。
画面に表示された名前を見た途端、恭介の声が柔らかくなる。
「夏希? どうした?」
電話の向こうから、泣きそうな声が聞こえた。
「恭介くん、今バーにいるんだけど、酔った人にずっと付きまとわれてて……」
「ちょっと怖い」
恭介はすぐに立ち上がった。
「動かないで。今から行く」
向こうでは友人たちが笑っている。
「夏希、また黒川先生呼んだの?」
「やっぱり恭介くんはいつでも来てくれるね」
電話を切る頃には、恭介はもう脱いだジャケットを手にしていた。
「今から夏希のところに行くの?」
彼は眉を寄せる。
「クライアントがトラブルに巻き込まれたんだ」
「杏奈、何でも変な方向に考えるのやめろよ」
先週も同じだった。
重要なM&A案件に集中する必要があると言って、一週間も家に帰ってこなかった。事務所の若手弁護士がSlackのチャンネルを間違えて写真を投稿しなければ、私は彼が汐凪島にいたことすら知らなかっただろう。
写真の中で、恭介は夏希の別荘の前に立ち、管理会社の担当者と話をしていた。
ただの雨漏りの対応だった。
私はジャケットのボタンを留める恭介を見た。
「恭介」
「今日が何の日か、分かってる?」
彼はもう玄関に立っていた。
「金曜だろ?」
「四半期案件の締め日じゃなかったか」
靴を履きながら時計を見る。
「本当に急いでるんだ」
「くだらないことで揉めるなよ」
ドアが閉まった。
私はしばらく、その場に座っていた。
三回目の結婚記念日。
彼は完全に忘れていた。
訴訟資料を閉じ、二つの新規ファイルを作った。
一つは退職届。
もう一つは、離婚条件に関する合意書と財産分与に関する合意書。
メールボックスには、ちょうど一通の未読メールが届いていた。
送り主は朝倉遼。
司法修習時代から知っている先輩で、今は白榊総合法律事務所のパートナー弁護士をしている。
【杏奈、うちの紛争解決チームで、一人で企業案件を回せる人間を探してる】
【シニア・アソシエイトのポジションを空けてある。来ないか?】
数秒だけ画面を見つめた。
返信は一言だった。
【行きます】
2
翌日の昼、昼食を買いに事務所を出た。
近くの高級レストランの個室フロアを通りかかった時、恭介と夏希に出くわした。
夏希は恭介の腕に自分の腕を絡ませている。
昨夜、私には苛立った顔しか見せなかった男が、今は彼女の話に耳を傾け、薄く笑っていた。
優しくできない人ではなかった。
私には、ほとんどそうしなかっただけだ。
先に私を見つけたのは夏希だった。
「あら、高瀬先生」
彼女は私の姿を上から下まで眺めた。
「ここでランチですか? 結構高いお店なのに」
返事をしなかった。
夏希はわざとらしく髪を耳にかけた。その手首には数百万円はするだろうジュエリーが光っている。
「昨日は本当に怖くて」
「恭介くん、朝の会議までキャンセルして、気分転換においしいもの食べようって連れてきてくれたんです」
甘い笑顔を浮かべる。
「そういえば、ここに高瀬先生が好きな料理があるって言ってましたよ。帰りにテイクアウトしてあげるって」
「部下にもこんなに気を遣うなんて、黒川先生って本当に優しいですよね」
私は足を止めた。
「黒川先生が私に気を遣うかどうかは、白石さんには関係ないと思いますけど」
「事務所のクライアントが、弁護士の私生活にそこまで興味を持つ必要があります?」
夏希の笑みが一瞬止まった。
すぐに目が潤む。
「すみません……」
「昔からの知り合いだから、つい気になってしまって……」
そこへ恭介が戻ってきた。
夏希の赤くなった目を見るなり、彼女を庇うように前へ出る。
「杏奈、また何言ったんだ?」
「夏希は昨日怖い思いをしたばかりなんだぞ。こんなところで嫌味を言う必要あるか?」
ちょうど青嶺総合法律事務所の同僚たちが近くを通った。
小さな声が耳に入る。
「高瀬先生って、なんであんなに白石さんに厳しいんだろう」
「昔から黒川先生に面倒見てもらって、いい案件回してもらったって聞いたけど」
「クライアントに少し優しくしたくらいで嫉妬するのかな」
事務所内で、私と恭介が夫婦だと知っている人は多くなかった。
彼は自分から話そうとしなかったし、私ももう説明する気を失っていた。
背を向けた瞬間、手首を掴まれた。
骨まで痛むほど強い力だった。
「離して」
恭介は手を緩めない。
「夏希に謝れ」
「今すぐ」
彼の後ろに隠れる夏希を見る。
「私、何か間違ったこと言った?」
「私の私生活に口を出す権利なんて、クライアントにはないでしょう」
恭介の顔が険しくなった。
私は力いっぱい腕を引き抜いた。手首には赤い跡が残っている。
それ以上、二人を見ることもなく、レストランのガラス扉を押した。
3
その夜、最後の引き継ぎ資料を送った。
退職関係の書類、離婚条件に関する合意書、財産分与に関する合意書をまとめて封筒に入れる。
来週からは白榊総合法律事務所で働く。
残された数日で、ここにあるものをすべて終わらせたかった。
翌日の昼休み、恭介の個室へ向かった。
ドアを開けると、ちょうど夏希が中から出てくるところだった。体には明らかにサイズの合っていない白いシャツを着ていて、そのシャツには見覚えがある。
恭介が、事務所に予備として置いているものだった。
「高瀬先生?」
「恭介くんなら、海外とのオンライン会議が終わったばかりで、少し休んでます」
夏希は自分のシャツを軽くつまんだ。
「さっきコーヒーをこぼしちゃって。恭介くんがこれを貸してくれたんです」
私は手にしていた封筒を握り締めた。
「黒川先生に署名してもらいたい書類があります」
夏希は封筒を見た。
「預かります」
「今かなり疲れてるから、私から渡しておきますね」
それ以上、そこにいたくなかった。
封筒を渡し、そのまま化粧室へ向かう。
洗面台に手をついた途端、激しい吐き気がこみ上げた。
何度えずいても何も出ない。視界がぐらつき、鏡の中の自分の顔が歪んだ。
次の瞬間、意識が途切れた。
目を覚ますと、青凪中央医療センターの個室にいた。
医師が検査結果を手にしている。
「高瀬さん」
「妊娠七週ほどです」
一瞬、意味が分からなかった。
ようやく言葉の意味が頭に入ってくる。
妊娠している。
恭介との子どもを。
病室のドアが勢いよく開いた。
恭介が入ってくる。手には、署名済みの封筒があった。
彼はそれをベッドの上に置く。
「引き継ぎと休暇関係の書類くらい、自分で持ってこいよ」
「わざわざ夏希に渡して、余計な勘違いさせる必要あるか?」
私は最後のページを見た。
署名欄には、黒川恭介の名前。
確認すべき箇所に貼られた付箋だけを見て、内容には目を通していない。
離婚条件に関する合意書にも、彼は署名していた。
私は封筒をバッグにしまった。
「どうして倒れたのか、気にならない?」
恭介は病床の横に立ったまま、冷めた顔をしていた。
「最近またまともに食べてないんだろ」
「忙しくなるとすぐ低血糖になるじゃないか」
「体調まで使って当てつけるなよ」
今、妊娠していると言ったら。
一秒くらいは、ここに残るのだろうか。
その時、彼のスマートフォンが鳴った。
電話に出た恭介の顔色が変わる。
事務所の受付からだった。ある案件の関係者が夏希を待ち伏せし、エントランスで揉めているらしい。
恭介は迷わなかった。
「ちょっと行ってくる」
ドアが閉まるまで、一度も振り返らなかった。
私はしばらく天井を見つめた。
それからナースコールを押した。
看護師が入ってくる。
「先生と、もう一度話したいです」
「人工妊娠中絶について」
4
その夜、私は一度マンションへ戻った。
玄関の自分のスリッパを袋に入れ、洗面所の物を片づける。ベランダで何年も飼っていた魚は、近所のアクアショップに引き取ってもらうことにした。
クローゼットには、恭介が昔買ってきたドレスが何着か残っていた。
一着も持っていかなかった。
美咲には、しばらく家に置いてほしいと連絡した。
病院にも、夫とは別居し、離婚の手続きを進めるつもりだと伝えた。必要な確認を終え、翌朝に手術を受けることになった。
午前一時。
恭介が帰ってきた。
額には擦り傷があり、シャツもひどく乱れている。隣には夏希がいた。
「高瀬先生、救急箱ってどこですか?」
「さっきの人たちが物を投げてきて、恭介くんが私を庇ってくれたんです」
私はソファから二人を見た。
「テレビ台の下」
「心配なら、そのまま手当てしてあげれば?」
夏希の目がすぐに潤んだ。
「誤解しないでください」
「私と恭介くんは本当に仕事上の関係だけです。すぐ帰りますから」
恭介がスマートフォンを玄関の棚へ乱暴に置いた。
「杏奈」
「夏希はわざわざ送ってきてくれたんだぞ。いちいち嫌味を言うなよ」
夏希は俯いた。
「私が悪いんです」
「来なければよかった……」
泣きながら玄関を飛び出す。
恭介はほとんど反射的にその後を追った。
その夜、彼は帰ってこなかった。
翌朝、美咲が車で青凪中央医療センターまで送ってくれた。
前日に診察を受けた病院だったから、そのまま同じ産婦人科で手続きを進めていた。
手術着に着替え、準備室へ入る。
点滴から鎮静薬が入り始め、頭が少しずつ重くなっていった。
その時、半開きのドアの向こうから聞き覚えのある声がした。
「高瀬杏奈の順番、三十分ずらして」
看護師長が戸惑ったように返す。
「白石さん、先生の予定はもう組まれています」
「前の処置が長引いたことにすればいいでしょう」
「この程度のことで、父に直接話をさせる必要があります?」
白石。
その名字を聞いて、ようやくつながった。
この病院を運営しているのは、医療法人白石会。
夏希の父親が理事長を務めている法人だった。
意識が遠のき始める中、さらに声が続いた。
「術後、少しくらい出血してもまずは経過観察で」
「何でもすぐ担当医を呼ばなくていいから」
何かがおかしい。
そう思った。
声を出そうとしたのに、舌がうまく動かない。腕を上げようとしても、もう力が入らなかった。
次に目を覚ました時、私は術後観察室にいた。
最初に感じたのは痛みだった。
下腹部が強く引きつる。
その直後、身体の下がどんどん濡れていくのに気づいた。
ナースコールを押した。
誰も来ない。
時間だけが過ぎていく。
身体が冷え、視界がぼやけ始める。
突然、ドアが開いた。
美咲だった。
血に染まったシーツを見た瞬間、顔色が変わる。
「先生!」
「出血してます! 誰か来てください!」
ようやく廊下が騒がしくなった。
モニターの警報音が鳴り、何人もの医療スタッフが駆け込んでくる。
そこで、また意識が途切れた。
5
夕方、ICUで目を覚ました。
身体にはいくつもの管がつながれ、息をするだけでも疲れた。
しばらくすると、外から美咲の掠れた声が聞こえてきた。
「手術の時間が突然変えられて、術後に異常出血してもすぐ報告されなかった!」
「白石夏希、これが全部偶然だって言うの?」
夏希は泣きながら答える。
「私は予定について少し聞いただけ」
「実際の処置は医師や看護師が決めたことでしょう? 私が医療行為に口を出したわけじゃない!」
続いて恭介の声がした。
「もういい」
夏希がすがるように彼の名前を呼ぶ。
「恭介くん……」
「本当に、杏奈さんを傷つけるつもりなんてなかったの」
恭介は彼女を宥めたあと、美咲へ向き直った。
「現時点では、夏希が故意に救命処置を遅らせたという証拠はない」
「杏奈に何かあったからって、全部夏希のせいだと決めつけるな」
美咲の声が震えた。
「中にいるのは、あなたの奥さんでしょう!」
「死にかけたのよ!」
しばらく沈黙したあと、恭介はいつもの冷静な弁護士の声で言った。
「法律は証拠で判断する」
「杏奈が妻だからという理由だけで、夏希を最初から有罪扱いする気はない」
私は目を閉じた。
不思議なくらい、悲しくなかった。
心が完全に冷えてしまえば、もう痛みすら鈍くなるのかもしれない。
数日後、退院した。
最後の身分証明書類を取りにマンションへ戻ると、珍しく恭介が一人でリビングにいた。
私を見るなり立ち上がり、財布からブラックカードを取り出す。
「今の案件が終わったら、どこか行こう」
「ヨーロッパ、前から行きたがってただろ」
「これ持っていけよ。好きな服でもジュエリーでも買えばいい」
受け取らなかった。
「いらない」
恭介はすぐに眉を寄せる。
「杏奈、いつまで怒ってるつもりだ?」
「夏希だって昨日、俺に言ってたぞ。お前は退院したばかりなんだから、もっと大目に見てやれって」
私は思わず笑った。
「夏希が、私を大目に見ろって?」
「じゃあ夏希に窓から飛び降りろって言われたら、あなた飛び降りるの?」
恭介の表情が険しくなる。
「話にならないな」
「分かった。しばらく一人で頭冷やせ」
「俺は事務所に泊まる」
彼が出ていったあと、私はバッグから数枚の書類を取り出した。
彼自身が署名した離婚条件に関する合意書。
妊娠七週の超音波検査結果。
人工妊娠中絶の手術記録。
そして大量出血後の救急処置記録。
すべてを、リビングの一番目につく場所へ置いた。
キャリーケースを引き、マンションを出た。
二度と戻らなかった。
6
翌日の夜。
恭介は赤い薔薇の花束を抱えてマンションへ戻った。
もう片方の手にはジュエリーショップの紙袋があり、中にはオーダーした指輪が入っていた。
玄関で、わざと柔らかい声を出す。
「杏奈、ただいま」
返事はない。
明かりをつけると、すぐに違和感に気づいた。
私のスリッパがない。
洗面所から私物が消え、クローゼットも半分空になっている。
恭介の表情が変わった。
最後に、リビングのテーブルへ目が向いた。
一番上にあるのは、離婚条件に関する合意書。
最後のページには、自分の署名があった。
恭介は動きを止めた。
次の書類をめくる。
妊娠七週。
呼吸が乱れた。
さらに下。
人工妊娠中絶。
異常出血。
緊急処置。
持っていた指輪が、カーペットへ落ちた。
ようやく理解した。
私たちには一度、子どもがいた。
その子はもういない。
そして私は、あの病院で死にかけていた。
スマートフォンが鳴る。
夏希だった。
「恭介くん」
「指輪、渡した?」
「高瀬先生、機嫌直してくれた?」
恭介は散らばった書類を見つめたまま答えた。
「いなくなった」
「杏奈が、俺を捨てた」
翌日。
青嶺総合法律事務所で予定されていた重要なパートナー会議に、恭介は初めて無断で欠席した。
マンションへ閉じこもったまま、何度も同じ書類を見返す。
そのうち夏希が自分からやってきた。
「恭介くん、そんなにならないで」
「高瀬杏奈は、子どものことすらあなたに話さなかった」
「最初からあなたにチャンスをあげるつもりなんてなかったのよ」
夏希は恭介を抱きしめた。
「いなくなってよかったじゃない」
「これからは私がいるから」
恭介は彼女を突き放した。
「あの日、俺の個室に書類を持ってきたの、お前だったよな?」
夏希の顔がわずかに強張る。
「そうだけど」
「中身を見たか?」
「見てない」
「机に置いただけ」
恭介は合意書を持ち上げた。
「じゃあ、どうして署名する場所全部に付箋が貼ってあった?」
夏希は答えなかった。
「病院は?」
「杏奈が大量出血したあと、どうして処置が遅れた?」
「お前、何をした?」
夏希は後ずさる。
「何もしてない」
「恭介くん、信じて……」
恭介は彼女の服を掴んだ。
長年保ってきた冷静さが初めて崩れる。
「杏奈は死にかけたんだぞ!」
「俺の妻だって知ってただろ!」
夏希の目から涙が落ちた。
「でも、あなたはあの人を愛してなかったじゃない!」
「ずっと冷たくしてたから、私は……」
恭介の手が離れた。
目だけが冷たくなる。
「出ていけ」
「病院の内部記録も、看護師長との連絡も、全部警察に出す」
夏希の顔が真っ白になる。
「もう二度と俺の前に来るな」
7
一週間後。
警察は病院のシステムログ、入退室記録、電子カルテ、当日の医療スタッフへの聞き取りを進めていた。
看護師長もついに、夏希から手術予定や術後報告について圧力をかけられたと認めた。
その朝、白石夏希が青凪中央医療センターへ入ったところで、数人の捜査員が近づいた。
捜査員は逮捕状を示した。
「白石夏希さん」
「高瀬杏奈さんの術後処置をめぐる傷害事件について逮捕状が出ています」
「あなたを逮捕します」
夏希の顔から血の気が引いた。
「私、あの人に触ってない!」
「手術したのも私じゃない!」
「なんで私が逮捕されるの!」
病院の内部記録には、人為的に手術時刻が変更された痕跡が残っていた。
夏希が該当時間帯に管理区域へ入っていた記録もある。
何より、看護師長の供述と通話履歴、電子カルテの時刻が一致していた。
病院の外にはすでに報道陣が集まっていた。
医療法人白石会は緊急記者会見を開き、夏希をすべての職務から外し、捜査に全面協力すると発表した。
青嶺総合法律事務所も短い声明を出し、夏希の疑われている行為に事務所は関与していないと表明した。
警察車両へ連れていかれる直前、夏希は病院から出てきた恭介を見つけた。
「恭介くん!」
「お願い、私の弁護人になって!」
「助けて!」
恭介は足を止めなかった。
「刑事事件は受けない」
夏希が凍りつく。
かつて母の事件を断った時と、ほとんど同じ言葉だった。
その頃、私はすでに白榊総合法律事務所で働き始めていた。
朝倉遼が分厚い資料を私のデスクに置く。
「新しい国際商事仲裁」
「相手はヨーロッパの大手製造グループ。争いの金額は三十億円を超える」
私は最初のページをめくった。
「相手方の代理人は?」
「国内でも有数の大手法律事務所」
朝倉が椅子を引く。
「三か月後がメインヒアリングだ」
私は顔を上げた。
「目標は?」
彼は笑った。
「勝つこと」
それから三か月。
オンライン会議、英文契約書、専門家意見書、証人準備で毎日が埋まった。
メインヒアリングを終え、その後の仲裁判断では、こちらの主要な主張が大きく認められた。
仲裁機関を出ると、朝倉がペットボトルの水を渡してきた。
「今夜、打ち上げするけど」
キャップを開ける。
「みんなで行って」
「私はまだ一つ、終わってないことがあるから」
翌日。
青凪家庭裁判所。
私が申し立てた離婚調停が始まった。
恭介は離婚に同意しなかった。
夫婦関係は終わっていない。
私が戻れば、まだやり直せる。
彼はそう繰り返した。
私は何も答えなかった。
結局、調停は不成立になった。
その後、正式に離婚訴訟を提起した。
恭介は何度も期日の変更を求め、書面の提出もぎりぎりまで引き延ばした。それでも最後まで、婚姻関係は破綻していないと主張し続けた。
長期間の別居。
それまでの夫婦生活。
双方のメッセージ。
病院での出来事を含む一連の事情。
証拠が積み上がっていく。
数か月後、裁判所は婚姻を継続し難い重大な事由があると認め、離婚を認めた。
判決書を持って裁判所を出る。
朝倉の車が階段の下に停まっていた。
窓が下がる。
「終わった?」
「終わった」
助手席へ乗る。
「これからどうする?」
シートベルトを締めた。
「まずはパートナーになる」
「その先は、なってから考える」
朝倉は笑った。
8
白榊総合法律事務所のパートナーになって二年目。
朝倉からプロポーズされた。
派手な演出は何もなかった。
ある難しい会議が終わったあと、朝倉が会議室のドアを閉め、ポケットから小さな箱を取り出しただけだった。
「高瀬先生」
「個人的な依頼が一件あるんですが、受けてもらえますか?」
私は思わず笑った。
「依頼内容は?」
朝倉はまっすぐ私を見る。
「これから先の人生を、僕と一緒に過ごしてほしい」
少し考えるふりをした。
「報酬、高いですよ」
「構いません」
箱を開ける。
「一生かけて払います」
私は手を差し出した。
「受任します」
数か月後。
青凪市にある予約制のブライダルサロンで、ウェディングドレスを試着していた。
鏡の中には、シンプルな白いドレスを着た自分がいる。
しばらく、その姿を眺めた。
三年前。
私は結婚していることすらほとんど知られず、いつも恭介が振り返ってくれるのを待っていた。
今はもう、誰かに自分の価値を証明してもらう必要はない。
店のドアベルが鳴った。
背後から名前を呼ばれる。
「杏奈……」
振り返った。
黒川恭介が数歩先に立っていた。
ずいぶん痩せていた。
以前なら一つの皺も許さなかったシャツは乱れ、目には赤い血管が浮いている。
時計を見る。
「三分だけ」
「外で話しましょう」
テラスは風が強かった。
恭介は私の前まで来ると、突然深く頭を下げた。
「ごめん」
静かに彼を見る。
「黒川先生は、何について謝ってるんですか?」
掠れた声が返ってくる。
「夏希をずっと庇ってきたこと」
「俺たちの子どもを失わせたこと」
「お前を病院で死なせかけたこと……全部だ」
母が亡くなった日の病院が、頭をよぎった。
「恭介」
「母が亡くなった時、私はずっと自分に言い聞かせてた」
「あなたは企業法務の弁護士で、交通事故は専門外なんだって」
「それがあなたのルールだから仕方ないって」
恭介の目が揺れる。
「でも、後になって分かった」
「あなたはそこまでルールに厳しい人じゃなかった」
「私の時だけ、破る気がなかったの」
「夏希のお母さんが手首を痛めた時は、自分で防犯カメラを探して、警察署にも付き添って、資料まで全部作った」
「私の母は飲酒運転の車にはねられて死んだ」
「私はあなたに頼んだ」
「なのに、別の弁護士を紹介することさえ面倒だったんでしょう」
恭介は慌てて首を振った。
「違う」
「あの頃の俺は若かった」
「お前も弁護士なんだから、自分で対処できるようになるべきだと思って……」
「夏希を手伝ったのも、昔あいつの父親に世話になったからで――」
「もういい」
私は遮った。
「理由はもうどうでもいい」
「許すつもりもない」
「戻るつもりもない」
恭介の目から涙が落ちた。
「杏奈」
「もう一度だけ、チャンスをくれ」
「本当に分かったんだ……」
一歩下がる。
「その後悔を抱えて生きて」
「もう私を追いかけないで」
その時、テラスのドアが開いた。
朝倉が出てくる。
「試着、終わりました?」
「店、予約してありますよ」
「杏奈の好きなフレンチ」
私は頷いた。
「行こう」
背を向けた瞬間、恭介が私の手首を掴んだ。
「杏奈!」
「お前、もっと前から朝倉と付き合ってたんじゃないのか?」
「だからあんなに離婚を急いだのか?」
「子どもまでいらないって決めたのか?」
振り返り、頬を叩いた。
「最低」
「自分がしてきたことを基準に、私まで同じだと思わないで」
恭介の目が朝倉へ向く。
「こいつに何の権利があるんだよ」
「朝倉遼は、私の婚約者だから」
恭介の表情が崩れた。
「俺は、あの時あれが離婚の書類だなんて知らなかった!」
「中身も読まずに署名したんだ!」
「あんなものだけで離婚になるわけないだろ!」
私は淡々と答えた。
「だから最終的には裁判で離婚したの」
「判決書、必要ならコピーを送りますよ」
恭介の顔から血の気が消えた。
また私の腕へ手を伸ばそうとした瞬間、朝倉がその手を外した。
「黒川先生」
「もう触らないでください」
「彼女はあなたの元妻です」
恭介が感情的に腕を振り上げる。
すぐに店のスタッフと警備員が間へ入った。
私は朝倉の前に立った。
「黒川恭介」
「彼に触らないで」
9
恭介の動きが止まった。
呆然と私を見つめる。
以前の私は、彼が少し眉をひそめるだけで心配した。
帰宅が遅くなれば眠れなかった。
それなのに今は、別の男を守るように前へ立っている。
「杏奈……」
「今、本当にそいつが心配なんだな」
私は彼を見る。
「当然でしょう」
「私が結婚する人なんだから」
恭介の目がさらに赤くなる。
「前は……」
「俺の帰りが少し遅いだけでも眠れなかっただろ」
ひどく疲れた。
「自分でも『前は』って言ってるじゃない」
「恭介」
「失望にも、限界はあるよ」
彼はテラスの柵へ寄りかかった。
急にすべての力を失ったようだった。
私は朝倉の腕を取る。
「もう会わない」
そのままテラスを出た。
一度も振り返らなかった。
一か月後。
黒川恭介は青嶺総合法律事務所のパートナーを辞任した。
その後、どこへ行ったのかは知らない。
白石夏希の事件も正式に裁判へ進んだ。
病院のシステムログ、通話記録、看護師長や他の医療スタッフの証言、異常出血後の報告が意図的に遅れた経緯が次々と提出された。
裁判所は彼女の行為を重大なものと認定し、夏希には重い実刑判決が言い渡された。
判決の日。
夏希は被告人席から何度も傍聴席を見ていた。
最後まで、恭介は姿を見せなかった。
その知らせを受け取った時、私も裁判所にいた。
ただし、座っていたのは被告人席ではない。
代理人席だった。
その日、私は一年近く続いた企業間のクロスボーダー訴訟で、依頼人にとって重要な判決を勝ち取ったところだった。
裁判長が閉廷を告げる。
私は分厚い記録を閉じ、ブリーフケースへ入れた。
裁判所を出ると、朝倉が階段の下で待っていた。
軽く手を上げる。
「終わった?」
「うん」
私はバッグから、長年使っていた古いスマートフォンを取り出した。
そこには、昔の番号やメッセージがまだ残っていた。
電源ボタンを長押しする。
画面が暗くなる。
裁判所から少し歩いたところに家電量販店があった。
中に入り、データをすべて消去したあと、古い端末を回収ボックスへ入れた。
店を出る。
朝倉はまだそこで待っていた。
彼が車のドアを開ける。
屋根の上に明るい日差しが落ちていた。
私は車に乗った。
もう二度と、振り返らなかった。
――完――




