アースガルズの城壁
アースガルズの城門は
まだ閉ざされたままだった。
平原には
倒れた巨人の跡が残っている。
砕けた石。
踏み荒らされた土。
城の上では
見張りの神が静かに外を見ていた。
巨人は討ち倒された。
だが――
神々は知っていた。
襲撃してきた巨人の
あれが最後ではないことを。
誰かが言った。
「城壁が必要だ。」
その時だった。
広間の入口に
ひとりの男が立っていた。
その男がいつ入ってきたのか
誰もわからなかった。
オーディンは言った。
「お前は何者だ。」
「私は工匠です。
お困りでしたら、私が城壁を建設いたしましょう。」
「できるのか。」
「はい。
その代わりに、完成した暁には
私に、太陽と月、
あなた方の女神、フレイヤを頂きたい。」
神々は口々に言った。
「そんなの無理だ!」
「月と太陽がなくなったら世界が終わってしまう」
「フレイヤを渡すことなどできない!」
ロキはそれを見てニヤリと笑った。
オーディンが断ろうと口を開きかけると
ロキは耳打ちをした。
「オーディン。
この者は城壁を作れる。
こちらが無理な条件を突きつけ、
報酬を受け取れなくすればいいだけだ」
ロキは、工匠に向かって
こう言った。
「いいだろう。
だが、こちらも条件を出そう。
お前一人で、三ヶ月以内に城壁を完成させろ。
それができぬならこの話はなかったことにする。」
工匠は少し考えてから言った。
「…承知した。
三ヶ月以内に完成させましょう。
ただし、私の馬を使うことだけはお許しください。」
ロキは眉を上げた。
“馬くらいなら問題ない。”
「いいだろう。
期限は三ヶ月だ。」
絶対に不可能。
城の誰もが
それを疑いもしなかった。
数日後。
工匠は作業を始めた。
そして、彼の馬が姿を現した。
それはただの馬ではなかった。
体は巨岩のように大きく、
首は太く、
蹄が地面を踏むたび
石が軋んだ。
その名はスヴァジルファリ。
工匠が石を削ると、
その馬は巨大な岩を
まるで小石のように引きずっていく。
朝になれば石は運ばれ、
昼には積み上がり、
夕暮れには城壁が伸びていた。
神々は城の上からそれを見ていた。
トールが言った。
「……あれは馬なのか?」
誰も答えなかった。
スヴァジルファリは
巨岩を背負い、息一つ乱さず
城壁へと歩いていく。
その働きは
工匠よりも早かった。
神々は次第に気づき始める。
この城壁は――
本当に完成するかもしれない。
日に日に城壁は伸び
約束の三ヶ月が近づいてきた。
神々の顔色が変わっていき、
彼らの怒りはロキへ向いた。
トールが一歩前に出た。
「ロキ。」
その声は低かった。
「お前の知恵で始めた話だ。」
「ならばお前が終わらせろ。」
別の神が言った。
「もしあの工匠が城壁を完成させたら――」
「太陽も月も失われる。」
「そしてフレイヤも奪われる。」
神々はロキを取り囲んだ。
トールはミョルニルを握りしめる。
「その前に」
彼はゆっくり言った。
「お前の頭を打ち叩く。」
ロキは慌てて
「わかったわかった、
俺に任せろ。」
と去っていった。
“仕方ねえな…”
スヴァジルファリが石を運んでいると
遠くに牝馬の影が映った。
牝馬は月光のような美しい毛並みで、
柔らかな歩みを見せながら
長い尾をゆるやかに振った。
だがスヴァジルファリは牝馬に動じない。
地面を荒々しく掻き、
鋭く嘶いて、
前脚を振り上げた。
スヴァジルファリはまったく誘われない。
遠くで見ていたロキは舌打ちした。
「煩わしい馬め。」
俺の幻術が効かないとは…
ロキは内心、焦っていた。
その夜。
月明かりの下、城壁の
石材に薄く霜が降りていた。
スヴァジルファリが足を止める。
蹄が滑り、
足場は崩れかけ、
工匠は苛立っていた。
「妙だ……」
ロキは遠くからそれを見ていた。
空気が冷えている。
季節外れの冷気。
ロキは視線を横にやると
少し離れた場所に、
ヴェトルが立っていた。
いつもながら無表情だ。
ロキは言った。
「…お前、何をした」
「失敗していただろ。」
「していない。」
「していた。」
「…余計なことをしたな。」
「均衡を戻しただけだ」
ロキは苛立ち、挑発した。
「俺がいなくても回せるつもりか?」
ヴェトルは静かに返す。
「お前がいないと、静かすぎる」
ロキは笑った。
凍った城壁の周辺は
足場がおぼつかず
作業は延滞した。
約束の三ヶ月が過ぎる頃には
城壁は扉の設置だけを残し、
完成には至らなかった。
工匠は怒り、巨人の姿を現した。
それを見たトールは
すぐさまミョルニルで巨人を討ち倒した。
その夜、アースガルズでは
城壁完成の祝宴が開かれていた。
神々は酒を掲げ、
新しい城壁の高さを誇っていた。
トールは笑いながら言った。
「これで巨人も簡単には来られん!」
「あの工匠め、巨人だったとはな!」
神々はいつものように
酒を飲み、湧いていた。
だが――
ロキの名は、誰にも口にされなかった。
あの交渉を持ちかけたのも、
契約をまとめたのもロキだ。
だが__神々は思っていた。
太陽と月。
そしてフレイヤ。
あの約束は
あまりにも危ういものだったと。
宴は続いていたが、
ロキの席はどこか遠かった。
館の端で、
ロキは一人、杯を回していた。
そこへ静かな足音がした。
ヴェトルだった。
「宴はどうした。」
ロキは顔を上げる。
「騒がしい連中は苦手でな。」
ヴェトルは隣に座る。
館の奥では
神々の笑い声が響いていた。
しばらくしてロキは言った。
「面白いだろ。」
「城壁を作らせたのは俺だ。」
「なのに――」
ロキは言いかけて口をつぐむ。
ヴェトルは静かに杯を揺らした。
「世界は、便利な者を使う。」
「そして忘れる。」
ロキは少し笑った。
「知ってるさ。
お前もだろ。」
ヴェトルは答える代わりに
酒杯を一口飲んだ。
「なあ、ヴェトル……
……また、掛けしようぜ。」
「…お前、まだ負け足りないのか?」
「うるせぇな!」




