盲目
〈蛇苺華を知られぬ開花かな 涙次〉
【ⅰ】
西歐式の考へ方を以てすれば、ハンディキャップはハンディキャップだ。
パラリンピックの選手がオリンピックに出る事はない。
例へば、盲目。
誰も* ホルヘ・ルイス・ボルヘスを可哀相だと云ふ人はいないが、東洋ふうにそれは前世の因縁だと云ふ人もゐない。
それは遠い遠い記憶としての視覺を持つてゐる。
* ホルヘ・ルイス・ボルヘス(1899ー1986)アルゼンチンの詩人・小説家。『傳畸集』『幻獸辞典』で知られ、博識で名髙い。1950年代に失明。後のポスト・モダン文學に多大な影響を及ぼした。
【ⅱ】
鰐革男は、蘇生と云ふ手段は「使へない」、と云ひつゝも、或る【魔】を甦らせた。
「魔坐頭」である。
「魔坐頭」、テオが初めて「をばさん」に會つた回で登場。
魔界の「坐頭市」である。
目明きにはちよつと分かり難いかも知れないが、盲目である、と云ふ事を利用する、惡辣な【魔】である。
自ら率いる「坐頭團」の團長に収まり返つてゐるのも、「健常者」への恨みゆゑだ。
【ⅲ】
「シュー・シャイン」は思つた。
自分の前世が、清作と云ふ、「過知能」のせゐで捨てられた子であるのと、テオは同じ運命を辿つてゐたのではないか、と。
たゞそんな氣がしたゞけで、その話は放つて置いたのだが、魔界に「魔坐頭」の復活があつたのを機に、思ひ出したのだ。
テオは、自らが「過知能」の猫である事をハンディにはしなかつたが、自分はその運命に負けてしまつた。
「魔坐頭」、云つてみればテオ式に、自らの宿命を巧みに操作し、魔界復帰を果たした。
だが、「シュー・シャイン」は己れと、「魔坐頭」とを比較したものゝ、何の感興も覺えなかつた。
⁂ ⁂ ⁂ ⁂
〈蟲息し蟲の息など云はれるが大きに生きて今日を迎へむ 平手みき〉
【ⅳ】
「をばさん」の眼は結局治つたのだし、「魔坐頭」の剣術がカンテラのそれに到底及ばない事は、既に明白である。
何を今更、「プロジェクト」が騒ぎ立てる事があるか、さつぱり分からない。
だが前回で述べた通り、カンテラはカネをいつも慾してゐる。
仕事として、この件、「魔坐頭」の復活を扱ふのは、これまた当然の成り行きである。
【ⅴ】
さて、作者は明らかにせねばならないが、「魔坐頭」の使ふ魔手は、實は由香梨の許に迄、伸びてゐた。
由香梨、ゲームのやり過ぎか、目が乾く、と盛んに云つてゐる。
こゝで勘の良い方なら想像が付くと思ふが、「魔坐頭」は由香梨の目薬に、「をばさん」にやつたのと同じく、強力な酸を混入、面倒臭いので、カンテラ一味御用達のドラッグストアの目薬、全部「酸入り」の物に取り換へてしまつた。
お蔭で、由香梨の目にそれが差される前に、被害は別の使用者に出た。
杵塚がたゞちに、由香梨に使用を取り已めるやう云つたのは、賢明だつたらう。
こゝで「プロジェクト」が動く。
【ⅵ】
カンテラは【魔】が嫌ひだつたが、一度云つても利かぬ奴は輪をかけて嫌ひだつた。
じろさんに陣頭指揮を執つて貰ひ、佐々圀守以下、「プロジェクト」の面々が、件のドラッグストアに張り付いた。
被害は廣まる事を免れた。
氣が濟まないのは、鰐革である。
カンテラが剣を執る迄もなく、怒り狂つた鰐革は、「魔坐頭」を処刑してしまつた。
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〈無碍無碍と処刑遊戲よ晩き春 涙次〉
【ⅶ】
で、結果としては、じろさんの「ご苦勞さん」代程度しか、「プロジェクト」はカネを支払はなかつたが、それがだうしたと云ふのだらう。
「シュー・シャイン」には、何もかも茶番に見えた。
彼がつひニヒルになつてしまふのを、だうか赦してやつて慾しい。
ごきぶりの目から見れば、人間界、魔界の全てが茶番なのである。
【ⅷ】
先日の宴席で、「シュー・シャイン」はほんの少しだけ盃を舐めてみたのだが、ちつとも酔ひは訪れなかつた。
覺醒者、乱酔者、どちらが倖せか、考へてみた事がおありだらうか。
「愛」と云ふのも、その一つではないか...
その答へは、「シュー・シャイン」にしか分からない。
だうせこの世は須らく「酔ひ」が支配してゐるのだ。
【ⅸ】
「酔ひ」に支配されてゐる世の中、と云ふものには、正確なジャッジはあり得ない。
然し、「シュー・シャイン」には、カンテラ一味の使ひ魔としての使命がある。
冷徹さも、彼の職掌には要求される。
そして、カネでカタの付く事以外の忠實さに沿つて動く今日一日、明日一日がある。
「魔坐頭」は鰐革の命に脊き、仕事を蔑ろにした。
天罰覿面、カンテラの雷號のやうな氣合ひが今日も街を谺する。
「しええええええいつ!!」
誰が何を斬る?
カンテラは「魔坐頭」を斬れなかつたが、それで自足するだらうか?
多分、血に飢ゑた剣は哭いてゐるだらう。
【ⅹ】
「シュー・シャイン」には、その哭き聲だけが頼りなやうな氣がした。
盲目に生きる人間。
遠い遠い記憶としての視覺を持つてゐる。
見者である事は容易ではない。
カンテラで見者あつたか。
尠なくとも彼は「覺醒者」であつた。
鰐革の自尊は、「酔ひ」の一種なのかもしれないなあ、と「シュー・シャイン」は思ひ、「魔坐頭」の死に兩の掌を合はせたのであつた。
その「思ひ」は、煙草の煙の如く暫く大氣中を漂つていたが、それもほんの暫くの間だけ、だつた。
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〈手を伸ばす夏はすぐそこ茶の香り 涙次〉
お仕舞ひ。