ラフ雑談 カルボナーラに解らされた話
カルボナーラは象徴していた。
無事に、本当に危ない局面もあったが何とか無事に京大受験一日目を終えた僕は、苦楽を共にしてきた二人と共に、宿泊場所近くのカプリチョーザに入店した。
チラッと見えたくら寿司に惹かれたが、万が一があっては困る。お寿司は全て終わった後の楽しみに取っておこう。
妙にお店選びが慎重なのは、勿論明日に備えたいからでもあるが、直近二週間お腹の調子がずっと良くなかったからである。
理由は食生活の乱れ——ではなく、恐らく大学入試本番が迫ってきた影響である。
プレッシャーや緊張は可視的なものではないが、それらが現象化している一例なのであろうという自覚はあったし、それを踏まえた上で試験に臨んでいた。
入店してメニューを軽く眺めると、カルボと目が合った。
欧風料理店に来てパスタ系メニューを取り扱っていると、毎度湧き上がるカルボの欲求。今回も案の定選択肢に浮上した。
思考という行為に疲れていたのかもしれない。僕はその欲求に流されるままに従った。
試験に関する話はそこそこにして、たわいない話題で談笑を楽しんでいると、各々の料理が運ばれてきた。僕のカルボも。
金銭的にも受験年という状況的にも、外食に行く機会は然程多くないことも手伝って、ワクワク気分でカルボを食べ始めた。
しかし『4分の1程度食べ進めた所で全く手が動かなくなった』のである。
え?アレ?なんでやろ。
眼前に広がるのは、レボナーラぐらい残っているちゃんと美味しいカルボ。
胃に物が入っている感触は無い。手の運動機能が失われているわけでもない。油分にやられているわけでもない。
にもかかわらず、カルボを口に運ぶ行為が実行されず食が全然進まない。
外食に行って誰かの残りを貰ったことはある。しかし自分が注文した料理を、提供された折角のカロリーを、残したことは記憶の範疇には存在しない。
そして改めて思ったのである。
そっか。やっぱり自分は、試験本番に本当に凄まじく篦棒なプレッシャーを感じているのだなあ。
普段なら3皿頼んでも問題無い量のカルボが滞るぐらい、明日の二日目に向けてシッカリ緊張出来ているのだなと。
眼前に残存するカルボナーラは、自分の『現状と認識の齟齬を象徴』していた。
試験中は強く意識し把握することを努めていたが、試験後気を抜くとこんなにもズレていた。
もしこれを意識せずに食い違ったまま試験を受けていればどうなっていたかは、一目瞭然であった。
その後、目の前のカルボナーラをどうしたのかは、実は全く思い出せない。
友人達が「ユックリで良いよ」と声を掛けてくれたことだけは覚えているが、結局食べ切ったのか誰かに食べてもらったのか謝りながら残して帰ったのか、微塵も思い出せない。
どんなけ追い詰められとんねんっ。
何年か経って偶然その場所に遊びにきた「京大生の僕」は、カプリチョーザを目にした時に、軽い興奮と郷愁を覚え、隣にいる新たな友人に少しだけ昔話をするのであった。