2024 8/ϛ 節の欠片
「……」
また死を迎えてしまった。
今回は所謂ゾンビのような何かと戦闘を重ねていた。
風呂場や一度確認した場所からの裏切りの不意打ちも乗り越えていた。
しかし敵ではない何かの背後にある窓が突然割れ、更に四体登場した。僕の手持ちの銃の残弾はたった二発。
結局上手く対応出来ずに、胸部を思いっ切り引き裂かれた。あーあ。
そこから先は記憶が無い。
死を迎える夢ももう随分と回数を重ねている気がする。ついこの間も遮蔽物の無い雪山で射殺されたばかりだ。
多種多様な場面での死を経験して相当に慣れてはきたが、目が覚めた時良い気分だったことは流石に無い。基本的には損である。プチ不運。
まあ死を迎える際の激痛や感触まで強制的に刻み込まれた過去の事例を思えば、今回のは引き裂かれた所で目が覚めたので幾分かマシと言える。
数年前から自分はもうこの世界にあまり用事が無い。
仮に明日自分が生きていなくても、僕と自分はそれはそれで良い。自己が解離し剥離する自分としては、今日の自分は今日で消えるので今更な話とも言える。
もし自分が一目置いている人間が直接引導を渡してくれるならば、それは数少ない幸せなのかもしれない。
自分と大衆や世界は、水と油。
僕や俺がエネルギッシュに撹拌すれば、束の間交錯することはあれども、結局は分離する。今の僕にはそのエネルギーも無いが。
そして自分が活性するような事物はもう存在しない。
アレもコレも適当かつ中途半端に手を出して喜楽を感じられる、数多の事物に安易に軽度な興味が湧く、そんな大衆機構は僕の脳には搭載されていない。
数多の行為に根差す生きるという行為への恍惚。一目置いている旧友達ですら根源に所持している機構が、僕には欠如している。
漉しに漉して残った消極的可能性、虚空界でも特段に虚無な虚空を見つめ進んでいる今。しかし哲学的主題に対して数多の切り口から雑談しようとする僕の最後の試みは、常に今という瞬間だけを本能的に生きる大衆には微塵も需要がなく、案の定刺さらない。
大衆の広大な興味と僕の極小の興味は、残酷なまでに分離している。
交わらない。交われない。
だから自分や僕が大衆社会において一般的な人間的成果を出す日が訪れそうもない事は、僕自身が一番知っている。
御世辞か本音かはさておき、俺や僕や偶に自分に可能性や興味を感じ、言葉を投げ掛けてくれたり直接的物質的な応援をしてくれたりする、旧友や友人や読者の貴方。極少数の貴重な存在。
しかしその存在を知っていながらも尚、真っ先に自分自身が、自分と世界を諦めている。
真っ暗で、それを知ってしまって、見なくなったらいつの間にか目が見えなくなっていて。
ぬかるみだらけで、それを知ってしまって、面倒になったらいつの間にか歩けなくなっていて。
視界も足場も、何もかも崩れ去って。自分が唯一羽ばたけそうだったのは、バランス良く「無知」だったあの頃。
今日も自分は、薄っすらと偽りの笑みを貼り付けて、モノクロームですら無くなりつつある世界を虚空だけを見つめ駆け抜けてゆく。
大衆や世界という鉋に削られて、精神を節にされ数多バラ撒き散らしながら。