思考と人間 人間と大衆
人間種に関する雑談項目は山程存在する。
社会的少数派の「人間」の為に、そして自分自身の目的の為に、数多認めるつもりである。
それらを正確に記述する上で欠かせない概念として、「人間」と「大衆」が存在する。少なくとも僕はそう思っている。
概念説明に関しては「概念 人間と大衆」に一任して、一先ず「思考と人間 人間讃歌」の続きに該当する、この発想に至るまでの話を雑談しておく。
子供の頃は、人間が好きだったと思う。
カフェに連れて行ってくれる時や、塾へ行く為に電車に揺られて移動する時に、隙あらば周囲の人間を観察していた。
すると気が付く事は子供ながらに色々とあった。
大人達は僕には見当も付かない何かについて話をしていることが多々あった。未知の存在を知り、無知な自分を知った。
しかし、自分が当たり前に考えていることすら考えていないこともかなりあった。無能の存在を知り、自分の無知を知った。
要するに、人間達は長く生きた分知識はあるが、密度が薄い分思考力は無かった。自分には思考力も足りていないけれども、それよりも思考材料が足りていなかったのであると。
それを知った僕は、勉強でも運動でも遊びでも何でも、気になったことに関する出来るだけ一番凄い奴に話を聞き体験させて貰うようになった。
走るのが速い子に服を掴ませて貰いながら全力で走ってもらい感覚を学んだり、ボール遊びで特徴的かつ強い球を投げられる子に激痛と共に只管その球を自分に投げてもらい観察したり、ボードゲームで強い大人に只管挑み続けて悪い所を教えて貰ったり。
実際、収穫と成果はそれなりにはあった。ありがとう。
中学生になり、とある一連の事件によって、純粋さや無邪気さと引き換えに深い闇と真理の入り口を入手させられて、一度崩れた。
その後巡り会った人々の存在によって人間へと再度形作られた際に、一つの結論に辿り着く。
『僕は人間を嫌っているのではない。
人間が持つ多様性には目を見張る物があり、興味深く面白いと感じている。自分が知らない知識に触れられて、自分が辿った事のない思考を体験出来る。
嫌うどころか、寧ろ人間の長所である多様性を楽しみ尊重している。
ただこの世界に「人間」が殆ど存在していないだけである。』
世間で人間と呼ばれている存在の大半は「人間」ではない何かなのだと理解した。
だから僕はその何かに名前を付けて扱うことにした。
モノと片仮名で書いたり、オブジェクトと呼称したり、似たようなことを考えていた哲学者の存在を知り畜群という単語を借りたり。
それを知った僕は、自分が興味深いと思った「人間」との関わりを特別大切にした。
仲良くさせてもらっていた教師陣や良く喋っていた友は、変わっていることを楽しみ評価出来る人々であった。それは少数であったが、それだけで充分であると思った。
興味深い「人間」とだけ深く関われば、クラスに存在する一般生徒の思考や行動もある程度知れた。
奴等は酷く似ていた。一つ学べば、他を学ぶ必要性が無いと思ってしまう程に。自分に対して好意的な何名かと軽く楽しく話しておけば、それで充分であった。
奴等の全てが分かった訳では勿論ない。しかし理解すべき所は理解した。これ以上深く関わっても、時間やエネルギーのコストに見合った何かは得られない。深く関わっている奴等同士は、余計なしがらみを勝手に作り、それに無駄に振り回されてばかりで滑稽であった。
実際、楽しく充実した時間を過ごせた。有難う。
そして現在に至る。
現在は「人間」ではない何かのことを穏やかに「大衆」と表現している。
それは本雑談集が「人間」以外にも読まれて欲しいと、一応は思っているからである。自分なりの最低限の配慮である。
本雑談集において「人間」と「大衆」の対立構造は非常に大きな意味を持つ為、「人」という単語は「人間」を指す場合のみ用いている。
全雑談において厳密に取り扱っており、あの手この手で掻き分けて書き分けているので、もし良ければ意識して読み直して「見て」欲しい。
まあ誰しもに間違いはあるので、見つけたら教えて欲しい。
尚、本項以外では「」を付けていない。
沢山の読者が付く前であれば、細かなことまで気にする丁寧さよりも本数の多さを優先するべきかもしれない。
しかしこれが自分らしさの一端を担っている気がするので、どうか楽しんでくれているようにと切に願いつつマイペースに雑談を認めてゆく。