思考 二枚の192点
とある高校では年に一度実力考査が実施される。
生徒が学力に応じた二つのグループに分けられている本学園において、中間や期末とは異なり共通の問題で実施される本考査は、特別な意義を持つ試験なのである。
ある年の高一の実力考査において、数学で192点を叩き出した者が二人現れた。試験範囲の指定が無い上に注力した難問を添えた試験である為、目に留まる点数である。
一人は上のクラス所属で、数学が出来る事で評判の者であった。彼は一番の難問以外は全て完答し、難問のみ部分点で8点落としていた。
もう一人は下のクラス所属で、一部の生徒と教員の間では噂になっていた者であった。彼は難問を完全に解答していた。しかし、誰も彼もが、数学が20点だった者さえも正解していた非常に簡単な問題を間違えて8点落としていた。
両者は学園内で暫くの間話題になるのであった。
本雑談を読むことで得る情報や受ける印象は当然各々で異なる。
勉学に興味が無い大衆なら何の関心も抱かなかったり、受験勉強を実際にした方ならテストの難易度が不明な点が気になったり片方の点数の取り方に心当たりが有り重ね合わせたり、本雑談が既知な人はどのテストで誰のことかまで分かり懐かしく思ったり……。
何を思い感じるかは読者や受け取り手の自由であり、個性とも言えるそれに正解は存在しない。寧ろその多様性こそが人間の魅力の一つである。
しかし『不正解は存在』する。
貴方がもし、本雑談の秀才とおっちょこちょいを、192点という額面の点数だけで=と認識し処理を終えたのであれば、それは辞めるべきである。正確にはもう少し深く思考すべきである。例え一切の興味が無くても。
しかしまあ、本雑談集を読んで下さっている貴方が、ここまで意図的に対比的に認められている文章を読んで、安直に=として処理を完結させるとは微塵も思っていない。信頼がある。
ところが日常になると一転して、本質の差異ではなく表層の差異で判断してしまうことが増えるのである。単純な原因としては、全情報量の増加や目に見えない情報の存在などが上げられる。
読者の中には、何故そこまで明確に禁止出来るのか、情報をザックリと捉えることは大切とは思わないのか、結果至上主義の世界に生きたことが無いから言える話なのではないか、文中で本質と表層と表現している両者の境界はどこなのか、等の問が浮かんだ方もいるかもしれない。
有意な問の現状の結論は追々の雑談で認めるので、この場では抽象的に結んでおく。
『大衆としてではなく人間として生きよ』
世界を深遠まで認識し繊細に彩られることが幸せであると断言は出来ないが、無知という不幸せより生き甲斐はある。
以下は蛇足であるが、「=の側面もある」と捉えるのは別に良い。それは一つの事実である。
また「額面の点数だけで=と認識していない」のであれば別に良い。貴方が人類種という対象をもっと引きの視点から観察し=と認識しているのであれば、本雑談において僕から言えることは然程ない。
冒頭の文で察した方も多いとは思うが、本雑談は僕の母校の話である。
後者のおっちょこちょいは、上のクラスに用が有り訪ねた際名前付きでヒソヒソ噂されたり、職員室に入った際英語教師から笑いながらツッコミを入れられたりする程には、学園内で話題になっていた。懐かしいなあ。
ウッカリさんの方を面白いと思ってくれた貴方は、きっと本雑談集と相性が良いと思う。
誇張した歴史書達と同じ轍を踏まぬようノンフィクションを心掛けるので、どうぞよしなに。