結間町
朝を迎え、身支度を整えたカイリは老夫婦にお礼を渡して村を出た。
「私の分のお礼までごめんね。カイリは私の命の恩人だよ、本当にありがとう!」
慌ててあとを追ってきた小花に、カイリは黙って首を横に振る。
「恩を感じる必要はない。それじゃあ、俺は行くから」
「あっ……待っ」
別れを告げてカイリは足を踏み出したが、五歩も歩かぬうちに「そうだ」と呟き振り返った。
「本気で自由になりたいのなら、まずどこかで住み込みの仕事を見つけるといい。そうすれば、旅に必要なお金も貯められるはずだから。それと、『魔除け』か『結界』の札を早めに買うように」
「私、お守りなら持ってるよ」
カイリの助言を聞くや否や、小花は胸元から首飾りを取り出して、「ほら」と見せつけた。その首飾りに付いていたのは――
『鮮やかな赤色の水晶』
彼女の親指と同じくらいの水晶が一つだけ付いている。そこから醸し出される怪しげな雰囲気に惹かれ、カイリはいつの間にか見入ってしまっていた。
「赤い水晶……珍しいな。初めて見る」
「これは村の伝統的なお守りだよ。生まれた子どもの健やかな成長と、その子が次の代へ命を繋げられるように願いが込められてるの。赤色なのは、両親と村の術師様の血を一滴ずつ垂らして作られているからなんだって」
それだけで、こんなにも赤くなるだろうか。
「村の術師は、不思議なことができるんだな」
「それからね……」
「ん?」
首飾りについて一通り説明を終えたと思われたが、どうやらすべてではなかったらしい。小花はもじもじしながら頬をほんのり赤らめた。
「自分の……は、伴侶となる人に、このお守りを渡すっていう習わしがあるの」
「……そうか、そんな習わしは初めて聞くな。ハッキリ言うけど、そのお守り、全然効果ないぞ。お前に山ほど陰の気がくっついていたからな。なるべく腕のいい結界師か筆師に札を書いてもらうんだ、いいな」
「…………」
小花は急に遠い目になると、ただただ無言でカイリを見つめた。
この年頃の少女にとって恋の話は特別。話し相手が同性ならおおいに盛り上がっただろう。だが、残念なことに相手はカイリ。彼はこの手の話題には疎かった……当然、会話はまったく盛り上がらなかった……。小花をときめかす村の習わしは、カイリの胸をときめかすことはできなかったらしい。
村に代々伝わるお守りを全否定されたうえに恋の話題も聞き流された。小花はカイリに話したことを激しく後悔しただろう。
「――最後に」
「……?」
「悪い人間もいる、むやみについていくな。じゃあな」
そう言い放つと、カイリは別れを惜しむことなくそそくさとその場を立ち去ってしまった。
悲しいかな、小花の無言の抗議もカイリには通じなかったようだ。
◇◇◇
山道の木々は瑞々しい新緑の若葉から青葉へと変わり、その隙間から木漏れ日が降り注ぐ。雨季を迎えたというのに、ここ数日はカラリとした陽気が続いていた。髪がそよ風に揺られて気持ちいい……はずなのだが、カイリの意識の半分は後方の厄介事に奪われていた。
(あいつは……いったいどこまでついてくる気だ?)
後方に見えるのは先ほど別れたばかりの小花の姿。時々木の影に隠れてこちらを覗いては、顔を出したり引っ込めたりを繰り返して、昨日に引き続きカイリの尾行を遂行中のようだ。
ただ、本人はこっそりのつもりでも、ばっちりバレているわけで、カイリは「はぁ」とため息をつくと歩く速度を少し落とした。
――歩き続けること1時間。
カイリは山道を抜けると麓の町に辿り着いた。後方をわずかに振り返ると、小花も無事に辿り着けたみたいだ。
この町の名は『結間』
東には桑畑、西には藍畑が広がっており、どうやら東では養蚕業、西では染織業が行われているらしい。
町の中央では市が開かれ、この町で織られた見事な絹の反物がずらりと並んでいる。カイリはまったく知らなかったが、この町はわざわざ遠方から足を運んでくる者がいるほど有名な織物の町だった。
遠くから訪れる客のために食事処や宿場も建ち並び、先ほど見た市もこの町で作られた反物だけではなく、外から持ち込まれた野菜や竹細工、金物などさまざまな物が取引されている。
小花はしばらく立ち止まり、キョロキョロと周りを見回していたが、決心したように表情を硬くするとどこかに向かって歩きだした。
この町は今朝までいた村とは違って、人が多くお店もいくつかある。
(もしかしたら、あいつを雇ってくれる所があるかもしれないな)
カイリは前方へ向き直ると、町の人に赤眼について尋ね始めた。そして、ずいぶんと時間が経った頃、少し離れた場所からカイリは声をかけられた――。
「そこのお若い方。お前さん術師かい?」
『術師』という言葉に反応し、声の出所へ素早く振り向けば、やはり呼ばれたのはカイリで合っていたようだ。一人の老人がこちらに向かって手招きをしている。カイリが腰に携えている霊玉付きの杖と、着物とは違う黒衣を見て術師と思ったのだろう。
「どうかされましたか?」
「ちょうどいい時に来てくださった。この道を真っすぐ突き当たりまで行った所に大きなお屋敷がある。そこの旦那様が、二週間ほど前から突然寝たきりになってしまったんじゃ。お医者様はお手上げで、奥様は妖のしわざじゃないかと必死に術師を探し回っとる。一回見に行ってくれんか?」
突然寝たきり……カイリの母と同じだ。
「旦那様は、町の発展のために尽力されて、皆からとても頼りにされとる方なんじゃ」
「わかりました。このあと伺ってみます」
「ありがとう、頼んだよ」
カイリは老人に言われたとおり、真っすぐ伸びる道の突き当たりに向かって歩き始めた。お店が並ぶ中央からだんだんと離れていく。
町の人から心配されるということは、あの老人が『旦那様』と呼ぶ屋敷の主人はきっといい人なのだろう。町は活気づき、雰囲気もいい。陰の気も割と少ないようだ。
妖がいるようには見えないが……。
屋敷の前に着くと、突然もやもやとした気持ち悪さがカイリを襲う。どうやら思い違いをしていたようだ。妖の気配は屋敷の奥からかーー。
「すみません、祓除を専門とする術師です。ご主人のことを町の方から伺い、こちらに参りました。一度お目にかかることはできますか?」
門番が慌てて屋敷の中へ入っていくと、一人の女性が駆け出してきた。
「術師の方ですか!? お願いです! 主人を助けてください!」
夫人は門番から『術師』と聞いてすぐに飛び出してきたのだろう。履物も履かず、とても苦しそうに息を切らしている。一秒でも早く診てほしいと、乱れた呼吸を整えることなくカイリを屋敷の一番奥、主人の眠る部屋へと案内した。
長い縁側の突き当たり。右手側の閉じられた障子から漏れ出る陰の気ーー。
「失礼いたします」
カイリは頭を少し下げると、用心しながら障子を開けた。隙間がわずかに空いた瞬間ひんやりとした空気が頬をかすめる。
間違いない……取り憑かれている。
意識を無くして横たわる屋敷の主人の様子を、カイリは丁寧に確認し始めた。脈、気の巡りの乱れ具合、肌の質感……主人は年齢的にはまだ中年と思われるが、その肌は老人のように艶がない。夫人の話によると、もともと恰幅のよかった彼はたった二週間で驚くほど痩せこけてしまったそうだ。
やはりあれか。
カイリの視線は一点に集中した。
文机の上、絹織物の上に置かれた小さな『琥珀』へと――。
「奥様、あの琥珀は以前からこちらに?」
「いいえ、主人が手にしたのは寝たきりになる直前だったと思います。この町から守竜川に沿って北へ行くと、竜古町というとても大きな町があるのですが、竜神祭に使うための反物を納め、こちらに戻る途中で人助けをしたと……その方からお礼に頂いた物だと話していました」
「お礼に……ですか?」
「はい」
夫人は不安げに頷く。
お礼にだと? カイリの中で怒りが湧き上がる。
屋敷の主人が目を覚まさなくなった原因はおそらくあの琥珀だ。禍々しい妖気を感じる。渡した者は無知? それとも悪意か。後者なら断じて許すことはできない。
「奥様、この町に医術師はいますか?」
「いいえ、この町にはいません。でも主人を診てもらうために、今呼び寄せている最中です。数日のうちにはいらっしゃるかと」
「それは良かった。妖に取り憑かれた者は体内の気の巡りが乱れますので、到着次第すぐに診てもらってください。私は医術を多少使えますが、専門外のため細かな所までは見れません。…………あと一つ、よろしいですか?」