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誰も知らない昔話②

 三年の月日は、久遠(くおん)紫花(しか)をより一層大人にさせた。久遠にも少しずつ変化が起き始め、彼はある事を心に秘めていた。


『自分から彼女に触れてみよう』と――。



 二人は相変わらず各地を転々とし続け、その日は森の中で暖をとっていた。久遠と並んで丸太に腰かける紫花の瞳は、今見えている星空よりも遥か遠くを眺めているようだ。



「久遠様、輪廻の輪に入りさえすれば、すべての魂が生まれ変われるのですか?」


「すべてじゃない。輪廻の輪からつまみ出される魂もいれば、永遠に輪を回り続ける魂もいる。どの魂を再び戻すのかは別のモノが決めているから、その先の詳しいことはわからない。それに、たとえ生まれ変わったとしても前世の記憶は失われているし、その時には会いたかった者もこの世を去っているだろう……」



「では、私はとても幸運ですね」


 久遠は紫花がなぜ『幸運』なのかわからずに首を傾げる。


「……なぜ?」


「それは……この先私が死んだとして、もう一度会いたいと思うお方が、永遠に不滅だからです。その上、命を司る力の持ち主ですから、久遠様は私の魂を決して忘れはしないでしょう? どれだけ時が経ったとしても、必ずまた会えますよね」


 ――紫花の死。


 今まで考えたことがなかった彼女の死。

 久遠は思わず紫花の頬に手を伸ばしたが、触れる寸前でその手を止めてしまった。


 自分から触れてみようと決めていたものの、実際に触れることで、彼女を怖がらせてしまうのではないかと急に臆病になったのである。

 しかし、少し寂しそうに俯いた久遠の気持ちを、紫花は見逃さなかった。止まったままの手に自分の手を添えると、ほんのり赤く染まった頬にふわりと当てたのだ。



「君は、私に触られても怖くないの?」

「怖くありません。久遠様、私の頬は温かいですか?」


「うん……温かい」


 久遠は、どんな時も優しく自分を見つめる紫花に、どうしても伝えたい言葉が心の底から湧き上がってきた。




「君が好き」


 彼は無情な顔に初めて笑みを浮かべてみせた。そして、紫花が涙を流しながら返した言葉。それは――



「久遠様、私と家族になりませんか」だった。




 ◇◇◇


 彼らは夫婦になり、やがて紫花のお腹には新しい命が宿った。

 つわりで何度も吐く紫花の背中をさすり、平だったお腹がだんだんと膨らんだ頃、紫花に促されるまま久遠は恐る恐るお腹に触れてみた。


「い、今、動いた……」

 その驚いた顔が新鮮で紫花は「ふふっ」と微笑む。

「久遠様、この子に会える日が楽しみですね」

「うん」

 久遠はお腹の中で元気に動く命を手のひらに感じ、命の誕生を待ち侘びた。そしてついに――。


 大きな産声が響く。

 彼女は母となり、彼は父となったのだ。


「久遠様、見てください。あなたと私が紡いだ命です」

「君と私の……命」


 初めて抱く小さな我が子。温もりが命の重さを久遠に教える。命を奪うと皆から嫌われていた彼は、まさか自分にこんな日が訪れるとは想像もしていなかった。産まれたばかりの赤ん坊を目にして、嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。

 

『好き』という感情の更に上に、『愛』という感情があることを、久遠は知ったのだった。




 しかし、その幸せは長くは続かなかった……。


 三人目の娘が産まれ、幸せを噛みしめるなかで、紫花が原因不明の病で倒れたのだ。容体は坂道を転がるように悪くなり、自らの死期が近いと悟った紫花は、久遠に様々なことを伝え約束させた。



 今は素直な娘たちも、年頃になれば父親とうまくいかなくなる日が訪れること。

 それは特別なことではなくて、どの親子にでも起こることであり、初めは戸惑うが心配しなくても大丈夫だと。


「そっと見守っていれば、いつの間にかまた笑顔で話せる日がやってきます。口を出したくてもじっと我慢していてください」



 それから、日の光が苦手な彼に紫花はお願いをした。


「日の光を見たら、私を思い出してください」と。それは朝日、夕日、どちらでも構わないが――。


「できれば、朝日がいいです……朝からあなたの心の中にいられるという簡単な理由です。死んだあともあなたを繋ぎ止めようとするなんて、図々しい人間だと思いましたか? それほど……あなたを愛しているのです。……どうか、子どもたちを守ってください。あなたと私の宝物です」


 紫花は消えそうな声でゆっくり話すと、細く痩せてしまった腕を伸ばして、久遠の頬に触れた。



「…………泣いて……いるのですか? あなたが私のために……嬉しい……嬉しすぎて未練が残ってしまいそうです。妖になってしまったら、再び戻ってくることができなくなってしまうのでしょう? 輪廻の輪に辿り着けたら、どれだけ時が流れようとも、必ず生まれ変わってあなたに会いに戻ってきます。ずっとここで……私を待っていてください」


 紫花の目から涙が流れ落ちる。

 久遠は頬に触れる彼女の手に片手を添えて、もう片方の手で優しく頭をなでた。


「子どもたちだけでなく、その子孫が命を繋いでいけるように永遠に守り続けると約束する。ここでずっと君を待ち続けるから、安心して眠るといい……」


「ありがと……ございます……くお……様、あなたを、愛しています……」


 微笑んだ紫花は、そのまま目を開けることなく息を引き取った。



 この日、彼は初めて涙を流した。

 そして紫花の魂が体から抜け出た時、久遠は急に冷静さを失った。だらりと力が抜け、もう動かないその体を懸命に揺する。何度体に戻そうとしてもその手をすり抜けてしまう魂を必死に掴み、どこにも行かせまいと胸に抱きしめた。


「紫花……死んではダメだ……死ぬな、死ぬな! 死ぬな……」


 紫花と出会い彼女が息を引き取ったこの瞬間までの思い出が色鮮やかに蘇る。


 紫花の目がもう一度開くことも、閉じた口が『久遠様』とその名を呼ぶこともない。目の前にいるのは確かに紫花なのに、もうこの世に優しく笑いかけてくれる彼女はいない。温もりを失っていく体が、『死』を彼に突きつけた。



「君を(そら)に還すなんてできない……これが……愛する者の死……」


 寂しさ、悲しみと苦しみ、胸を裂く痛み、心が空になってしまった虚無感……。


 久遠は、初めて紫花と出会った時にはまったくわからなかったその感情を、彼女を亡くしたその瞬間に知ることになったのだった――。




 ◇◇◇


「――話はこれでおしまい」


「じゅ、術師さまぁぁ……こんな……こんなに悲しい終わり方、やだぁ……」


 幼い小花(こはる)はボロボロ涙を流しながら、膝の上で丸まっていた黒猫をぎゅぅぅぅっと力一杯抱きしめた。


 驚いた黒猫が「ニャァアア!!」と叫び声を上げて尻尾でバシバシと小花を叩いても、構わず抱きしめたまま「あんまりです!!」と泣きじゃくる。


「小花、そんなに泣かないで。彼女は彼に愛を教えてくれたんだ。決して悲しい物語ではないよ」

 しかし、小花は柔らかな頬を目一杯膨らませ、到底納得できないと大きく首を左右に振る。


「術師様! 二人はもう一度会えますよね? 早く会わないと久遠様がおじいちゃんになっちゃう……『僕は久遠だ』って言ったって紫花様にわかってもらえません! ……あれ? 紫花様の記憶は消えちゃうから言ってもわからないんだっけ? ううん、難しくてよくわかりません」


 術師は、昔話の二人を本気で心配する小花の姿に面布の下でクスッと笑うと、

「大丈夫。彼は、彼女が見た最後の姿のままずっと待ち続けているから。それに、紫花の記憶が消えてしまっても、魂に刻まれた記憶は決して消えないと信じている。だからもう泣かないで。夜も更けてきた、そろそろ眠りなさい」


 そう言って小花の頭を優しくなでた。


 昔話を語り終えた満月の日以降、術師がその話をすることはなくなった。その次の満月の夜からは、昔話ではなく浄化能力の訓練が少しずつ行われるようになったのである。


 そして、その力を人のために使うのか、それとも封印するのか、いつか選ぶようにと術師は小花に告げたのだった――。




 ◇◇◇


 昔話を話し終えた小花は、心なしかスッキリしているように見えた。


「能力を封印する時……それが十五歳の儀式だとは思わなかった。柊兄(しゅうにい)は十五歳の時、自分に妖の血が流れてるって言われてどう思ったんだろう。みんな普通に見えてたけど、事実を受け入れるのに苦しんでたのかな……」


「柊殿はお前を心配して、ずっと扉の前で待ってる」

 小花はまだ会いたくないようで、黙って首を横に振る。


「この話をしたのはカイリが初めてだよ。おかげで少し落ち着いたみたい。もう大丈夫、ありがとう」


 それが小花の本心なのかはわからなかったが、カイリは頷くと寝台から腰を上げ扉の前へと歩き始めた。扉までの短い距離を一歩、また一歩と進みながら、頭の中で心の声が訴えてくる。


 もう一声……あともう一声だけでいいから、小花を元気づける言葉をかけたい……。


 カイリは扉にかけた手を見つめて、足を止めた――。



「もう泣くな……お前の良さは……わ、笑った顔だから」


「…………うん!」


 小花の声は少し震えているが、どんな顔をしているのかわかる。カイリは顔をほんの少しほころばすと振り向かずに部屋を出た。

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