別れ
1か月後、父は仕事を休み放射線治療をするため入院する事に為った。
父が入院して3日後、日曜日だったので私は朝から病院に行き病室に入ると父は暇を持て余していた様で、私を見るなり話しかけてきた。
「大変だったよ。入院する事になって仕事も休む事になってしまい、お母さんには『生命保険に入っているから個室にしろ』と言われて、ゆっくりとさせてもらっているけど、暇だし」と、元気そうに言ってきた。
私は「まだ入院して3日目でしょう。今回の入院は2週間であと10日位あるけど大丈夫」と、笑いながら言った。
父は直に「退屈で死にそうだよ。あ、それから優に入院前に渡したトレーニング表のトレーニングをきちんとやってるか。クラブには入ってないのだからちゃんとやらないと駄目だぞ。オリンピックで優勝するために作ったトレーニング表だからな。」と、言ってきたので、私は大きな声で「やってるよ。絶対に優勝するからね」と、笑いながら言いかえした。
それから20日がたち、父が退院した。
1週間遅れの退院だったが「癌をやっつけて来た。」と言って、元気に帰ってきた。
父はその後、2週間通院をして3か月ごとに定期検査に行く事になっていた。
2週間の通院後すぐに仕事にもどり、家では私のトレーニング表をときどき頭をかかえながら作ってくれていたのだが、私は学校のクラブには入っていなかったので中学校で主催している大会には出場出来ず、口癖のように「大会に出たい。大会に出たい。」と言っていた。
そんな私に父は「今は我慢、我慢。学校の部活と違って、42・195キロを走れるマラソン選手になるための練習をしているのだから、マラソン選手になってオリンピックで優勝するのだろう」と、いつも優しく、微笑みながら言ってくれていた。
一年後、他の所に癌が移転していないかの検査があり、検査の結果、骨と肝臓に癌が見つかった。
父は今まで通院していた東極大学病院から関東病院に移る事になり、私は昔テレビドラマで、助からない患者を見はなし、助かる患者のためにベットを開ける事で大きな病院から小さな病院に移されるとゆう物語を見たことがあって、父はもう助からないかもしれないと思い、それを感じていたが、父や母にその事を聞く事が出来なかった。
父が関東病院に通院し始めて5日目の夜、食事を終えた後、その私の姿を察してか父が真面目な顔をして話かけてきた
「病院で、余命1年と言われた。優には本当の事を言っておくね。でも、きっと大丈夫だよ、きっと奇跡がおきるから。」と言って、笑顔で頷いていた。
それから父の闘病生活が始まり、入院と退院を繰り返していた。仕事はいままでの功績が認められて辞めなくても良かったみたいだったが、退院している時には選手1人1人の練習メニューを作り、母がそれを学校まで持って行き忙しそうにしていたが、私の練習メニューも作ってくれていた。
12月19日に、2か月間の長期入院していた父が家に帰って来た。放射線治療をしていた父は、以前よりかなり痩せていて髪の毛も無くなっていた。
帰って来た父に、私が元気よく「おかえり。」と言うと、父は「治療の副作用のおかげで、髪が無くなったよ。でも、これで当分、入院生活は終わりだ」と、笑いながら言ってくれた。
クリスマスにはケーキとチキンを、お正月には母の作ったおせち料理を3人で食べ、楽しく過ごした。
1月5日に父の体調が悪くなり、また入院する事になった。
冬休みが終わり、学校の事業がはじまって5日たった日の3時間目の国語の事業中、突然、担任の小林先生が教室のドアを開け「山中、すぐに病院に行きなさい。」と言われ、私は急いで教科書を鞄に入れ、先生の後に着いて行った。
上履きから靴に履き替え外に出ると小雨が降っていて、しばらくしてタクシーが来ると小林先生から1万円札をわたされタクシーに乗った。
私は何も考えられずに、本降りになってきた雨の音を聞きながら左右に揺れるワイパーを見つめていた。
病院に着きタクシーを降りると、雨が雪に変わり、ゆっくりと白い雪が地面に落ちて地面を濡らしていた。
病室に入ると、母は父の手を両手で強く握りしめて何かを話していた。母が私に気付き、立ち上がってゆっくりと私に近づき、私の手を取り、父の手に近づけた。私が両手で父の手を取り、強く握りしめると、父は、ほほ笑み小さな声で「優がオリンピックで優勝する姿が見えるよ。」と言い、ゆっくり目をとじた。