過去
中谷歩は母と競技場で紹介もらった近くの病院に向かった。
病室に入り、整形外科の医者に義手を見せ診断をしてもらうと
「私が作った物ではないので、はっきりした事は言えないがもう使えないと思う。これは、いつ作った物ですか。」
「3年前、15歳の時です」
「やはり体が成長していて、合わなくなっている様です。これを作って貰った医師に見てもらった方が良いともいます」と言われて、病院を後にした。
病院の前でタクシーに乗り、少しうつむきながら義手を手にして、母に「どうしよう」と聞くと、
母は笑顔で「大丈夫だから、それよりお腹が空かない。せっかく大阪に来たのだから美味しいお好み焼きを食べに行こうよ。ホテルの近くに美味しいお店があるから」と話してくれて、そこに向かった。
ホテルの近くの小さなお好み焼き屋に入って行くと、中から「歩さん」と言う大きな声が聞こえ、声がした方を見ると山中優が手を振ってこっちを見ていた。
近くに行くと、向かいの席に座っていた女性がこっちを見るなり「春香、やっぱり春香」と、驚いた表情で言ってきて、母も驚いた表情で「陽子」と言い。
少し沈黙があって、山中優さんが「食事終わりかけだけど、一緒にどうですか」と、言ってきた。
私は母と顔を見合わせ、母が「それじゃ」と言い、私は山中優さんの隣の席に、母は陽子と言っていた陽子さんの隣の席に座った。
私が山中優さんに「驚いた。優さんが、ここにいるなんて」と言うと、優さんが「さんは、いらないよ。優で言いから」と言ってきたので、「私も、歩でいいよ」と言い、母の方を向いて「私の母です」と言った。
優も、私の前の席に座っている女性の顔を見ながら「私の母です」と紹介してくれていると、店員さんが注文を聞きに来たので、母のおすすめのモダン焼きを頼んだ。
陽子さんが母に「今まで、どうしていたの」と母の顔を見ながら聞くと、母は私を少し見て、陽子さんの方を見ながら話はじめた。
中谷春香は大阪の堺市で生まれ育ち、小学生の頃から走るのが速く、母の勧めで中学に入学してから陸上を始めた。
山中陽子は愛知県の名古屋市で生まれ育ち、小学5年の時、担任の先生に持久力があると陸上の長距離をすすめられ陸上を始めた。
高校に入学する頃にはお互い力を付けていて、高校では1年の頃からインターハイや国体に出場して、お互いライバル視する様になっていた。
高校3年生になった頃に東京の大日体育大学から推薦入学の話があり、2人はそこで一緒になってアメリカから留学してきたマリアとも出会い3人は良きライバル、そして最高の友として大学生活を過ごした。
3人の陸上での成績は全国でも知られるようになり、駅伝にも出場して何度も優勝をし、3人で区間賞もとった。
大学を卒業した後、中谷春香と山中陽子は別々の実業団に入り本格的にマラソンをはじめ、マリヤはアメリカに帰り、マラソン選手としての道を歩みはじめ、お互い4年後に決まっていたサンフランシスコオリンピックに向けての苦しいトレーニングをはじめていた。
3年後にマリヤはアメリカで、オリンピック出場を決めていて、日本の女子選手は大阪、横浜、名古屋の国際レースでの成績でオリンピック出場を決められる事になっていた。
中谷春香と山中陽子は最有力選手として注目されていて、2人は共に大阪女子国際マラソンに出場する事を決めレースに臨む事になった。
大阪女子国際マラソンでのレース展開は、25キロ地点まで7人の先頭集団で走っていたが、28キロ地点で山中陽子が仕掛け、中谷春香が付いて行き、2人の戦いとなった。
35キロ地点で、中谷春香がスピードを上げ、山中陽子は着いて行けず、100メートル近くの差を着け、中谷春香が日本新記録でゴールした。
この次点で中谷春香のオリンピックの出場がほぼ確定し、山中陽子も日本新記録のタイムでゴールをしていたので共にオリンピック出場は間違いないだろうと言われていたが、翌朝の新聞で
「中谷春香、ドーピングで2年の出場停止、オリンピック出場出来ず。大阪国際女子マラソンでのドーピング検査結果、微量の筋肉増強剤が使われていた事が判明。」と、書かれた記事が大きく載った。
中谷春香は「絶対に使っていない。」と訴えたが、誰にも信用されず、引退することを決意し、牧場を営んでいる母方の叔父が居ている北海道の釧路に、6畳2間に小さな台所がある家を借りて、中学校の体育教師として、第2の人生を歩みはじめた。




