つくものむすめ
彼女は、置物のような、人形のような、美しい少女だった。
烏の濡れ羽色の髪は真っ直ぐ腰まで伸び、象牙色の肌は透き通るよう。潤む紅色の唇は常に閉ざされいるが、しかし黒檀の目は内面の強さを雄弁に表している。
彼女は、とある華族の長女だった。
上にも下にも男児はおらず、彼女の婿になる者との間に産まれた男児が次代の当主であると決められていた。
そう。婚約が結ばれた際に、そう取り決められていた。
彼女は、その黒檀の目で前を見据える。そこにいるのは、婚約者の男と、その隣で彼にしなだれかかる後妻の娘。
婚約者はまるで親の敵でも見るような目で彼女を睨んでいる。後妻の娘は悲しげに目を伏せているように見せて、胸を男の腕に押し付け、上手く隠した口許を歪ませ嘲笑っている。
「ああ気持ち悪い! お前は本当に作り物のような女だ! やはりお前とは別れて、彼女と新たに結ばれよう!」
「そんな。いけません、お義兄様……お姉様が可哀想だわ……。だって、お義兄様との婚約を破棄されたら、この家を出ていかなければならないんだもの……」
「ああ……君はなんて優しいんだ……あの女にいつも酷い目にあわされていたというのに……」
「そんな……。でも、思えば仕方のないことです……。二ヶ月しか差がない腹違いの姉妹だなんて、先妻がお姉様を身籠っている間に不貞行為をしたと言っているようなもの。なのにお父様は、お母様と私をこの家に入れて、可愛がってくださった……。
ただでさえお姉様にとっては私が目障りでしょうに……、お姉様が大切にしていると全く知らなかったとはいえ、私がお姉様の物を頂いてしまっていたんですもの……。怒るのも当然です……」
「だからといって怒りに任せて大階段から君を落とすだなんて、まともではない……!」
芝居のような大袈裟な台詞が終わると、婚約者の男は彼女を指差す。
「さあ! 婚約は破棄されたのだから、とっととこの家から出ていけ! これは次代の当主である俺の命令だ!」
彼女は、黙って静かに頭を下げ、踵を返す。
が、不意に振り返り、手を取り合おうとしていた二人を驚かせた。
「な、なんだ!」
「一つだけ」
久方ぶりに聞く鈴を転がしたような美しい声に、元婚約者の男の心臓が跳ねる。
そう。確かに始めはこの美しい少女を好ましく思っていた。自分の隣に立たせるのに良い、と。
彼女はまだ自分を好ましく思っているに違いないと、男は鼻を膨らめる。
「なんだ、愛人にして欲しいとでも言うのか? ならば条件付きで聞いてやらなくもないぞ」
「いいえ」
そう言って首を横に振り、元婚約者の男の言葉に目を吊り上げた後妻の娘に向き直る。
「私の元から持っていった物、この家にある物、決してぞんざいにせず、大切に」
「はあ?」
怪訝そうな娘の声に返事もせず、彼女は改めて踵を返すと、そのまま家を出てしまいどこかへ消え去った。
「と、いうわけです」
彼女は話し終えると、出された玉露で喉を潤す。
ある屋敷の客間。彼女は家を出たその足でここに向かい、家主の青年に保護を求めた。
ほう、とようやく安心したように小さく息を吐く彼女の様子に、向かいに座る青年は苦虫を噛み潰したような顔をする。
「常々大馬鹿どもだと思っていたが、本当に救いようの無い大馬鹿どもだったか……。君を決して軽んじるなと、あれほど先代当主から言われていたというのに……」
「ええ。確かにお父様は、私を軽んじてはいません」
「愛人の家に入り浸って半年以上もまともに帰らないせいで、後妻ごときを家で好き放題にさせていたのにか? 当主代理とはいえ問題しかないぞ」
「ええ。貴方の言う通り、半年以上まともにお会いしてないんですもの。どことも知らない場所から、自宅にいる私に、どうやって、なにをするのでしょう?」
ころころと軽やかに彼女は笑う。置物、人形、そう揶揄されるような印象な全く無い。
生き生きとした年頃の少女の笑みだ。
ずっと怒っていた青年は、ようやく表情穏やかにし、冷めてしまった玉露を一口含む。
「それは、屁理屈だな……」
青年は知っていた。
彼女の父親が、あの家での彼女がどう扱われいるか全て知りながら、なにもしなかったことを。
周囲を諌めることも。
彼女に関わることも。
なに一つ。
だが、どんなに彼女を心配しても、青年は部外者故に、手を出すことはできなかった。
それも今日までのことになるが。
「しかし、よく彼らが君から離れたな」
「あの子が私の代わりを務めると言うなら、と。さて、これからどうなるやら」
「ろくな目にあわない、と分かって言ってるだろう、君。
なにせ彼らは、君を愛する付喪神だ。その君をぞんざいに扱ったのだから……」
彼女は、神が宿った九十九の古物を管理し、彼らの加護を得て繁栄していた家の、長子だった。
古物を愛した先代当主の祖父、そして祖父母の唯一の実子であり同じく彼らを愛した今は亡き母親の背を見て育った彼女は、幼い頃から古物に宿った彼らを愛し、そして彼らも彼女を愛した。
祖父も母親も、彼らに愛される彼女を見て、大層喜んだ。彼女が愛されている限りは、彼らの加護で守られたこの家は安泰だと決まったようなもの。
だから彼女を大事にすることは、加護をもって家を守るため必要なことだった。
しかし、入り婿だった父親は、祖父と母親、彼女、そして彼らを気味悪がり、恐れた。
そして父親は、祖父と母親が亡くなると、彼女が懸念していた通り、彼らを売り飛ばそうと古物商と手を組んだ。その古物商の次男が、元婚約者の男である。
古物を売る手間代として向こうが婚約を望み、父親が頷いたために結ばれたもので、そこに両者の感情はなに一つなかった。
とはいえ、家族になる者に対する愛情は、最初はあった。親しくすれば、もしかしたら彼らを手放さずに済むかもしれないという打算も、実はあった。
だから彼女は、元婚約者の男が着物の彼女を気遣うことなく自分の歩幅で歩いていっても、黙ってその後ろを足早に付いていった。男のどんな言葉にも、否定せず、口を挟まず、静かに耳を傾けた。季節毎に手紙もしたためた。
だがしかし、十五の少女の健気な行動に、男から返ってきたものは、一つも無い。
距離は縮まることはなく、逆に大きな亀裂ができていった。
彼女は、早々に諦めた。
近代化していく時代の流れなのだろう、と。
しばらくは冷めた夫婦でいなければいけないが、いずれあちらの有責で離縁してやろう、と。
だけどせめて彼らは、彼らを大切にしてくれる者の元へやりたくて、彼らをどうにか説得して、父親に初めて頭を下げて乞うた。
父親は、そんな娘の様子を見て、増長した。
実の娘とはいえ、こんな小娘にも劣ると言われているような当主代理という立場で燻っていたが、しかし、その娘が自分に頭を下げている。
今だけは、己の立場が上なのだ、と。
父親はそれを期に彼女に隠して通っていた愛人を後妻に据えて、後妻との間にできた彼女と二ヶ月違いの娘を表立って可愛がるようになった。
周囲は、もちろん勘繰る。
あの当主代理は先妻との子ではなく、後妻との子に跡継ぎを産ませるのだろうか、と。
聡い者は遠巻きに様子を伺うが、鈍い者は当主代理に倣って彼女を侮るようになった。
父親はそのうち老いていく後妻に飽きると、新しく作った若い愛人の元に通うようになり、溜まっていく一方の後妻の鬱憤は、やはり彼女を虐げることで晴らされるようになった。
その姿を見た後妻の娘も、彼女は侮っていい存在だと認識し、部屋も、服も、小物も、彼女が持っていたもの全て奪い、彼女を物置に押し込んだ。
雇っていた女中たちも、気味が悪いと忌避していた彼女ではなく、自分達と近い後妻と娘に従うようになった。
それに怒りを露にしたのが、付喪神たちだった。
彼女をとにかく愛していた彼らは、後妻の娘に仕返しをし始めた。
ある櫛はその歯で娘の皮膚ごと髪を梳った。
ある鏡はその鏡面を歪ませ、娘の姿を醜く写した。
ある短刀は、丑三つ時になる度に鞘から滑り出ては戻りを繰り返し、娘を怯えさせた。
しかしその全てを、自分への嫌がらせだと言って彼女のせいだと決めつけた後妻の娘は、大階段の上で一方的に詰め寄った。
無表情で、まるで能面のようね。気持ち悪い。
喋りもせず、いつもだんまり。自分の考えがないのかしら。まるでお人形ね。
お父様の言いなりになるしかない『道具』だものね。
当主のお父様が気持ち悪いからそのうち家から追い出すって言ってたわ。可哀想に。
嘲笑いながら彼女を罵った娘は大階段の上に敷かれていた古い敷物の怒りをかい、その上から弾き落とされる。
娘の体が放り出された先は、階段の下。
幸い通りかかった複数の女中に受け止められたため怪我は無かったが、突き落とされたと娘が騒ぎ立て、それを偶々来ていた元婚約者が聞き付けて、婚約破棄を突き付けられたのだった。
彼女は、それでも、もし父親も後妻も娘も元婚約者も、あの家の者たちが彼らを大切に扱うのならば、と試した。これが最後、と。
「私の元から持っていった物、この家にある物、決してぞんざいにせず、大切に」と、わざわざ言い残して。
結果。
神の宿った古物全て、彼女が家を出た後に、まるで以前から準備が整っていたかのように、売りに出されることになる。
だが、二人はそれを先読みして、売りに出される古物全てを買い取る手配をとっくに済ませてある。
青年は、目の前の少女に、目をやる。
「これからどうする」
「どうにも。彼らの加護を無くした家など、次の季節も待たずに衰退するでしょうから」
「もし愚かにも君に許しを乞うてきたら?」
「彼らが許さないのなら、私だけが許すことはできません。なにせ神の怒り。あの娘への報復ですら、私は諌められずにいたのですから」
そう言って小首を傾げながら小さな笑みを浮かべる彼女は、どこか残念そうに見えたが、それが何に対してなのか。
無害にも見える美しい彼女の内側に苛烈さを秘めていることを知る青年は、考えないことにして、無言で笑みを返した。
家を追い出された彼女は、そのまま保護を求めた先、同じ華族である幼馴染みの青年に嫁いだ。
物は長く扱うと、魂が、心が宿るという。
物のように扱われていた彼女は、青年に大切にされ、愛され、置物や人形と揶揄された『物』から、美しい少女へ変わった。
そして青年の家は付喪神の新たな加護を得て、現代まで繁栄し続けた。
反対に、加護を失った彼女の生家は、彼女が言ったように次の季節を待たずに急速に衰退していった。
多額の借金の返済を迫られ、父親は遠くへ出稼ぎにやられ、後妻と娘は花街に売られた。
娘と婚約していた男は、借用書の連帯責任に記名してしまったために、面倒を厭う実家から勘当され、逃げるように彼女に復縁を迫った。
しかし彼女は、とても美しい笑顔で、切り捨てたという。
その後肉親がどうなったのか、元婚約者がどうなったのか。彼女はなにも知らない。
君がつくも髪になるまで共に、と誓いあった青年の暖かな愛に囲まれた彼女にとって、過去のしがらみの顛末など、興味の無い、些末なことだった。