ドッペルゲンガー。
「ドッペルゲンガー?」
俺の目の前でコーラを啜りながら、友人が俺の言葉をそのまま反芻した。
ドッペルゲンガー。つまりは俺のそっくりさんだ。それが数日前から俺の視界に現れるようになった。向こうからは何もしてこない。俺をじっと、見つめているだけだ。見つめると言っても睨むような敵意はない。ただじっと、見てくるだけだ。それが俺にはどうにも居心地が悪い。だから友人に話してしまったのだ。
「やば、お前死んだりして」
「止めろよそういうの」
「でもドッペルゲンガーを見たら死ぬって良く言うじゃん」
コーラに飽きたのか、次は期間限定のLサイズのポテトをつまみながら友人がそう言う。確かにドッペルゲンガーを見ると死ぬって、聞いたことはある。実際はどうなのか分からないけど。でも本当にあれはドッペルゲンガーなんだろうか。ふとそう考える。けれど見た目は俺そっくりだったから、たぶんそうなんだろう。
「幽霊とかそういう系?お前霊感あったっけ」
「残念ながらー」
幽霊なんて生まれてこの方一回も見たことないし、おそらく霊感なんてものも持っていない。幽霊はいるか、と聞かれたらまあ信じる…くらいには考えているけど。
「でもさ、そっくりさんが出てきたってことはさ、これから何か起こるとかあるんじゃね?」
「そうなのかなあ」
「そうでなきゃ、ドッペルゲンガーが出て来る理由なんて無いじゃん」
からからとポテトの箱を鳴らしながら、友人がそう語る。幽霊みたいな存在に出て来る理由なんてあるんだろうか。でもまあ幽霊って、だいたい何かの理由があって、この世界に留まっているって言うし、あのドッペルゲンガーも、そういうヤツなのかもしれない。
食べる物も飲み物も無くなってしまったので、俺たちは解散することにした。人通りの多い中に、ぽつりともうひとりの俺が立っている。何も言わずに、じっと俺だけを見つめて。言いたいことがあるならさっさと言ってほしい。
まだ死にたくない。その一心で、俺はドッペルゲンガーのことを調べることにした。自己像幻視。そうとも呼ばれていることを初めて知った。脳の機能の一部がきちんと働かない影響で、幻覚のようなものを見るんだそうだ。でも脳に異常は無いはずだし、大きな病気にかかったこともない。小さい頃…幼稚園に通う前くらいに小さい頃、あわや大事故、ってのには遭遇したけど。あのときはかすり傷で済んだし、それぐらいだ。だからドッペルゲンガーが突然現れた理由が、本当に分からなかった。
■
ドッペルゲンガーが現れて、一週間が経った。俺の周りは何も変わらない。俺自身も特に変化はない。最初はいつ死ぬのかビクビクしたけれど、少しずつではあるが、視界にあの不可思議な存在がいることに、俺は慣れていった。
学校の帰り道、俺はいつもの道を歩いていた。信号待ちをしていると、視界の先にドッペルゲンガーがいた。また来た。そう思っていると、ドッペルゲンガーが俺を見てにこりと笑った。そして、その直後、ドッペルゲンガーは消えてしまった。
俺はその笑顔を、何故か懐かしいと思ってしまった。でも俺そっくりの顔をしたヤツを見て、どうして、懐かしいと思ったんだろう。分からない。でも、あの笑顔がトリガーになって、何か忘れていることがある気がした。だからあのドッペルゲンガーが現れた理由を探し出さなきゃいけない。探せるかも分からないけれど。
その夜、俺は自分の部屋であれこれアルバムを漁って開いていた。懐かしいと感じたということは、俺の過去に何か関係があるのかもしれない。だから学校の卒業アルバムから、家族が撮ってくれた写真のアルバム、スマートフォンのデータ。それを調べていて俺は、ひとつの事実を知った。物心つく前の、小さい頃の俺の写真がほとんど無い。あまりにも古いから別の場所に仕舞ってあるのかと思ったけれど、部屋のどこを探しても見つからなかった。そしてその頃の俺の記憶も、どこか曖昧でぼやけていた。幼稚園に通って、みんなと遊んで。そういう記憶はあるけれど、その記憶の中には、穴が空いているように、ところどころ抜け落ちている部分があった。
突然現れたドッペルゲンガー。そして思い出せない子供の頃の記憶。俺の両親に、子供の頃何かあったのか、聞くべきか迷った。でもちょっとだけ反抗期に足を突っ込んでいた俺は、素直に両親に過去のことを聞けなかった。俺そっくりの、ドッペルゲンガーがいることも。結局この問題は、宙ぶらりんのままになってしまった。
■
今日は雨だった。雨脚が激しくて視界が悪く、しかも雨音がうるさい。こんな日は何もかもが億劫になる。早く帰りたいなとぼやきながら、俺は信号が赤から青に変わったことを確認してから、俺は横断歩道を渡ろうとした。そのときだった。俺の目の前に、ドッペルゲンガーが現れた。そしてその手で、俺の身体を歩道側へ突き飛ばしたのだ。何をする。傘が飛んで制服がびしょ濡れになったじゃないか。そう文句を言いたくて、俺はドッペルゲンガーを見上げた。
『お兄ちゃんは、まだこっちに来ちゃ駄目だよ』
ドッペルゲンガーがそう言った気がした。そして倒れて座り込んだ俺の目の前を、物凄い速さのトラックが走り抜けて行き、そして耳障りな音を立てて、建物に突っ込んでいた。事故だ。もしあのまま歩いていたら。そう思うとぞっとする。
お兄ちゃん。その単語を聞いて、俺の幼い頃の記憶が甦った。俺には双子の兄弟…弟がいて、そして、俺の目の前で、交通事故で死んでしまったんだ。俺は弟のおかげでかすり傷だけで済んだ。でも大切な弟を失ったショックで、俺は弟という存在に蓋をして、記憶の片隅に仕舞い込んでしまったんだ。だから弟の記録が、ひとつも無かったのか。ようやく思い出した。目の前にいるドッペルゲンガーは、ドッペルゲンガーじゃない。
「また、俺を…守ってくれたのか?」
そう聞いてみると、目の前の弟は、にこりと笑って、そして光となって消えてしまった。待って。まだありがとうも、何も言えていないのに。それなのに。それなのに。俺を守ってくれた喜びと、もう会えない悔しさと悲しさがぐちゃぐちゃになって、俺は声を殺して、ただただ泣いた。
■
俺の目の前には、ひとつの墓石がある。弟が眠っている墓だ。あの後俺は両親に弟のことを話し、そして墓参りをしたいから、その場所を教えて欲しいと願った。両親は泣きながら、俺にその場所を教えてくれた。家からは少し離れた場所だったけれど、見晴らしの良い、とても綺麗な墓地に、弟は眠っていた。
どんな花が好きなのか分からなかったので、俺が好きなものを選ばせてもらった。それを供えて、線香を焚き、墓石に水をかけて、そして俺は両手を合わせて目を閉じる。またいつか、弟は俺の前に現れるだろうか。それは分からない。あれはただの偶然だったのかもしれない。でも。
「…俺を助けてくれて、ありがとう」
ようやくお礼が言えた。この空の上のどこかで、弟は聞いてくれているだろうか。晴れやかな気分で、俺はどこまでも続く青空を見上げた。