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これは何かの間違いだ、とリョウは思った。だって、おかしい。マキに限ってそんなこと、するはずがない。このマキが。
期日より早くにこの家を出るなんて。
「んじゃ、ありがとね、リョウさん」
そう言ったマキの顔はわざとらしいくらいに爽やかで、リョウは眉をひそめた。何か裏があるのではないかと考えるが、どうにも思いあたらない。
「そんなに寂しそうなカオしないでよリョウさんっ!」
「してねぇ。それよりお前、次のアテはあんのか?」
「無かったら出て行かないよ。ほんとは約束踏み倒してここに永住するつもりだったんだから」
永住するつもりだったのか!?
リョウの開いた口は塞がらず、マキはぷっ、とふきだした。
「冗談。ま、いいでしょ?何にせよ、もう出てくんだから」
ずいぶんあっさりと、マキはリョウに言った。別れの時はもっとごねられると思っていたので、リョウは拍子抜けして、
「ん……まぁ、そうか」
と曖昧に頷いた。
「じゃ、ばいばい、リョウさん」
にこ、と笑って手を振ったマキの本心を、リョウは汲み取ることができなかった。
何か裏があるに違いないというのに。
「………あ」
思い当たったリョウはすぐさま階段を駆け上がり、上がってすぐのマキが使っていた部屋を、ばん、と乱暴に開け放った。
元々母親が使っていたそこは、ベッドやタンスなどが揃い、そのままでも十分暮らせるような、白を基調とした静かな部屋だ。出て行った居候の、今までの態度からは想像もつかないほど丁寧な掃除によって、かつての落ち着いた雰囲気を取り戻している。
そんな部屋の片隅に添えられたタンスの上には、いかにもUFOキャッチャーで注目を集めてきましたというような大小様々なゆるキャラのぬいぐるみが、
無かった。
「あれ?」
絶対に置いて行くに違いないと思っていた。その後ろめたさから、期限より少し早く家を出たのかと。
けれど違ったのだ。マキはリョウが思っているほど、自己中な男ではなかった。持って帰れと言われた大量のぬいぐるみも、床に散乱していたゴミも全て、マキと共に消えてしまっていた。まるでマキという居候など、最初から居なかったかのように。
その部屋は元通りの静かすぎる部屋に、この家は元通りの広すぎる家に、戻ってしまったのだった。
「……あーあ」
この日をリョウは、指折り数えて待っていたはずだった。けれどいざその日が来ると、この喪失感である。
「情がうつった」
だから嫌だったんだ、居候なんて。
リョウは独りごちて、ふと床に視線を落とした。
かものはしかも。
「……ん?」
そのキャラクターの名前がとっさに出てきたこともびっくりだったが、それよりもリョウは、今まで自分がその決して小さくも保護色でもないぬいぐるみの存在に気付かなかったことに、心底驚いた。
だがその数瞬後、リョウはその何倍もの喫驚に、動きを止められることとなる。
そのかものはしかもぬいぐるみの黄色いしっぽにくっついた白いもの、否、くっついているのではなく、ぬいぐるみをつついているのだ、その白い、
……動物の、手?
「……はい?」
実際にこんな間近で見たのは、学生時代、大学の敷地内にひっそりと住み着いていたそれに、気まぐれで昼食のパンをやったとき以来だ。
そいつはリョウが離れるまで決して動こうとはしなかったが、二、三歩遠ざかると、ちょいちょい、とその薄茶色の手でちぎられたパンをつついていた。
そう、ちょうどそのときと同じようにリョウは、様子を窺う猫の手先を、今も見つめているのだった。
「……はは……あはは」
リョウの口からは無意識のうちに乾いた笑いがこぼれていた。
おもむろに近づいてかものはしかもをひっぱると、それに釣られた、白い布に泥水をかけられたような黒いぶち柄のでぶねこが、どすどすとベッドの下から這い出てきた。
お世辞にも可愛いとは言い難いでぶねこは、いとも簡単にリョウに捕まってしまった。そんなどんくさい、5キロはゆうにあろう猫を抱き上げて、リョウは呟いた。
「マキ……あいつ、ぜってぇ殺す」
不細工なでぶねこをベッドの上に放って、リョウは猫を置き去りにした居候を追った。