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日曜のこの時間にもかかわらず、今日はヤツがいない。これはどうしたことかとリョウは思ったが、あまり深くは考えなかった。
歩いて数分の場所にある、普通の家を改装して作ったようなパン屋の帰り。手にはいつもの2倍、4人分の朝食のパンを入れたビニール袋がある。
弟のように可愛い隣人の少年(通称桜ん坊)とその友人が、昨夜リョウの家に泊まった。彼らがリョウの酒を飲んでしまい酔っていたため、このままでは帰せないと判断したリョウが泊まらせたのだ。
未成年なのだから、当然二人とも酒に慣れていなかった。適当に水で割っていたとはいえ焼酎、それなりに強いアルコールだ。そうとは知らずにがぶ飲みした彼らがふらふらになってしまったのは、すべて自分の責任だ、とリョウは思っていた。
元々桜ん坊をきちんと家に送りとどけるためについていったというのに、情けないことだ。
しかも断片的な記憶の中で色々とすごいものを見てしまったような気がするので、罪悪感にひねりつぶされそうである。
というのも、桜ん坊の友人、名は吉原といったか。彼は素面だと真面目な二枚目なのだが、酔うと、すごかった。あそこまで人格が変わるのも珍しい。あれは酒で人生が変わるかもしれないなぁ、と吉原の将来を憂いながら、リョウは玄関の引き戸を引いた。
「リョウさんっ」
「お、起きたか桜ん坊」
まん丸で大きな瞳と、長いまつげの影が落ちる桃色の頬がバランスよくのった顔が奥から出てきて、にぱっと笑った。わざわざ玄関まで出迎えてくれた桜ん坊に、リョウはつい頬をゆるませる。マキもこれぐらい可愛げがあればいいのに。
「吉原くんも」
リビングに入ると、顔色の悪い吉原がお辞儀した。予想はしていたが、酷い二日酔いらしい。
「朝メシ食うか?」
「いただきます!」
二人に言うと、よほど腹が減っていたのか、桜ん坊が即答した。そか、と桜ん坊に笑いかけながら、袋の中からたくさんのパンとジュースを取り出す。
「あの、リョウさん」
「ん?」
吉原が遠慮がちに口を開いた。酔いのさめた彼のことだから、きっと謝罪の言葉が出てくるのだろう、というリョウの予想通り、吉原は頭を下げた。
「すみません、泊まってしまって」
「あぁ、いいよ、別に。それよりあんた大丈夫かぁ?」
酒弱そうなのに結構飲んでたけど、と吉原を気遣いながら、マキのために買ってきたいちご牛乳と蒸しパンを手にする。
甘いもの同士の組み合わせに、最初は吐き気を覚えたものだが、もうすっかり慣れてしまった。
「いや、大丈夫じゃないんですけど……」
吉原の返答に、そりゃそうだ、と思った。案外、強がるタイプではないらしい。
「動けるようになるまで居ていいからな。あ、それとももう帰んないといけないとか?」
「そうなんですっ」
吉原に言ったつもりだった言葉に、桜ん坊が後ろから答えた。あぁ、とリョウは思い出す。
「………そっか、すまんな桜ん坊。あ、ちゃんと俺が言い訳してやっから」
「あ、や、そういうんじゃ……ええと、なんか、一晩泊めさせてもらった上にご飯まで食べさせてもらった上にそんなアフターケアまで気にしてくれて、その、何から何までどうも」
一宿一飯にそこまで礼を言われると、逆になんだか申し訳ない気持ちになる。この二人の爪の垢を、マキに煎じて飲ませてやりたいと、リョウはしみじみと感じた。
「言いながらちゃっかりパンかじってるし……」
深々と頭を下げる桜ん坊の手に握られた食べかけのメロンパンを、吉原が指差して苦笑した。
「いーよ、それ桜ん坊の分だし。他に食うヤツいねぇから」
「あ、やっぱり?ぁいたッ」
リョウの言葉に対する桜ん坊の答えに、吉原は桜ん坊の頭を軽く叩いた。吉原に文句を言う桜ん坊の姿が微笑ましい。
「夫婦漫才かお前ら」
同じ男二人でも、俺とマキではこう仲良さげには見えないだろうなぁ、と考えながら、マキを呼ぶため廊下に出る。
「おいマキぃ!朝メシぃ」
………。
……………。
返事が無い。
マキのことだから、どうせまだ寝ているのだろう。
「置いとくぞー!」
聞いていないとは思うが一応叫んでから、パンといちご牛乳をしまった。マキが気づかなくても、リョウは伝えたのだから非はない。
「ねぇリョウさん、マキさんって、リョウさんの弟さん?」
リビングに戻ると、桜ん坊が無邪気に尋ねてきた。この少年が弟だったらなぁ、と思いながら、
「マキが?まさか、ただの迷惑な居候だよ」
と正直に思っていることを言った。あれと血が繋がっていたら、人生は180度違っていただろう。
「……っと、桜ん坊と吉原くんは、別に迷惑じゃないかんな?気ィ遣うんじゃねぇぞー」
二人もこの家に一泊したことを思い出し、慌てて付け加えた。察したように吉原は、
「あ、はい、ありがとうございます」
とにっこり笑った。やはり素面の吉原は大人びている。桜ん坊の隣にいるから、余計にそう見えるのかもしれないが。
いや、酒に酔った彼を見たことがあるからか?
「……どうした、桜ん坊?」
あんパンを手にとってふと振り返ると、桜ん坊が挙動不審になっていた。まぁ、いつものことだとは思ったが。
彼は昔から良い子だったし、学校でもなかなか成績優秀のようだが、幼いころから時々、勃然と叫びだしたり、意味なく走り出したり、かと思うとぴたりと止まって虫のように動かなくなったりという奇行に走る癖があった。何を考えているのかはさっぱりわからないが、これにはリョウも慣れている。
「あ、一つじゃ足りねぇだろ、それちっさいもんなー。もいっこ買ってあるから食っていいぞ」
「あっ、ありがとうリョウさん」
大抵こんなときは何か与えると現実に戻ってくるのだが、今回はそうでもなく、ふたつめのメロンパンを手にしても、相変わらずうろうろしたり、ソファーの下を覗き込んだり、その場でぐるぐる回ったりしている。
「ど……どうしたんだ、神波?」
「あっ、アイヤー」
「……何なんちゃって中国人みたいになってんだよ」
「特に理由は無いぜ!」
まぁ、こんな日は何もしないにこしたことはない、とリョウは思った。今の桜ん坊はテンションがおかしい。
「そ……そうか?」
「うっ、うん……」
自分自身のハイな声に驚いたのか、急に困ったように吉原から目をそらし、桜ん坊はカーテンをめくった。彼の家の和室の小窓が、丁度正面に見える位置のはずだ。
「あ」
「……どうかしたか?」
めくった途端、桜ん坊はカーテンをさっと閉めて、吉原とリョウを振り返った。なんだか、青ざめた顔で作り笑いをしている。
「べべべべつになんにもみてないよお?」
「何か見たのか?」
………見た?
桜ん坊と吉原の会話を聞いていたリョウがすぐに思い出したのは、前日のマキの言葉だ。
『幽霊見ちゃったんだもん』
いや、まさか……でも。
リョウはいつもとは明らかに違う笑顔を見せる桜ん坊を見つめた。………見たのだろうか、“小さな可愛い女の子”を。
「リョウさん色々ありがとう迷惑かけましたおれもう帰るねさよなら吉原もまた明日な!!」
「おぉ?」
桜ん坊の口から突然自分の名前が出たので、リョウは驚いて、玄関へ急ぐ桜ん坊を目で追った。
「親さんへの言い訳は……」
「ヘーキですっ」
「そうか?じゃあ、何か困ったことあったらいつでも来いよ、桜ん坊」
彼は平気だと言うが、おそらく全然平気ではないだろう。いざとなったら両親に土下座さえする覚悟はできている。母親の放任主義のわりに、桜ん坊が門限を破るのを恐れていたということは、きっと父親が相当厳しいのだとリョウは思っている。
桜ん坊に手を降ると、彼は両手に持ったメロンパンの袋をがさがさと振って、逃げるようにその場を後にした。
背後にはぽかんと突っ立っている吉原がいた。リョウは吉原に笑いかけて、
「気にすんなよ、桜ん坊にはよくあることだ」
と言うと、吉原は
「それは……知ってます」
と答えた。思い当たる節はたくさんあるようだった。