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「おじゃましまー」
ガラガラと玄関の引き戸を開けた瞬間、がっ、と白い手が閉戸を阻み、同時に能天気な声が聞こえた。
「……は?」
家の主であるはずのリョウはぽかんとした。扉の隙間からすべりこんできた顔には、見覚えがなかったからだ。
人工的に茶色く染めた、やや長めの髪。手首に銀色のブレスレット、耳には銀色のピアス。おそらく近所のおじいちゃんが見れば、最近の若いのは……とお説教が始まりそうな身なり。しかもこいつは、そんなお説教もそわそわして少しも聞いちゃいないような、ろくでもないような男だろう、とリョウは思った。酷い第一印象である。
あっけにとられる家主をよそに、づかづかと家に我が物顔で上がり込み、
「へぇ、リョウさんって意外とレトロな家に住んでんだなぁ」
と頭の悪そうな口調で感想まで述べている。
「……なんだお前」
リョウは思いをそのまま口にした。礼儀のしめすへんも知らぬような輩に対し本音と建て前を使い分けられるほど、リョウは器用ではない。
「へ?なに、リョウさん、もしかしてオレのことわかんない?」
そう言って彼は、よく見ると可愛らしいとも言えるような、つぶらな瞳でリョウを見上げた。
「オレ、麻生真希ってんだけど……ほら、大学でおんなじサークルにいただろォ、缶蹴りサークル!」
「………あぁ?」
缶蹴りサークル?
聞き返すリョウに、マキと名乗った彼は頷いた。
「えーっと、覚えてない?」
「っつか、自分が缶蹴りサークルにいたこと自体今の今まで忘れてたんだが」
それを聞いたマキは少し困ったような顔をして、
「そっかぁ」
と呟きながらリビングに歩いていった。
「ちょっ、待て待て待て」
「うぉっとぉ」
服のフードを引っ張られたマキは、引っ張った犯人であるリョウを振り返って、
「何すんだよぉ」
と理不尽な文句を言った。まるで自分には一つも非などないとでも言うように。
「あのなぁ、……えっとぉ、マキ……だっけ?」
女みたいな名前だな、と思いつつ、リョウは言った。
「俺は、もう、とっくに、大学を、辞めたんだ。つまりもう缶蹴りサークルとも縁は切れてんの!たとえ缶蹴りサークル時代にお前と何かしらの関係があったとしても、今は」
「え、うそ、リョウさん、オレのこと追い出そうとしてる?」
リョウの言葉を遮って、マキはまるで心外だとでも言うように、自分を指差して尋ねた。わかっているなら話は早い。
「そういうこった」
「やなこった」
………。
だめだこいつ。
べー、と舌を出すマキに、リョウは大仰にため息をついた。こんなに大きなため息をついたのは久々だと、自分でも思うくらいに。
「だいたい、なんで俺んちなんだよ!?缶蹴りサークルのメンバーなら他にいくらでもいんだろ?」
「だって他に行くとこなくなっちゃったんだもん」
「どこからも追い出されてんじゃねぇか!」
「ねぇおねがいリョウさん、ちょっとの間だけでいいんだ、ここにいさせて?オレ帰れないんだよう!」
がしっ、とリョウの手を握って、捨てられた子猫のように瞳をうるませ懇願するマキ。しかしリョウもそれに流されるわけにはいかない。
このご時世に居候など、冗談じゃない。食費なんて、成長期を迎える前の子供ならまだしも、大学生の男となると、一人増えるだけでバカにならない。
「いや……無理、そんな余裕うちには無い!」
「なんでぇ?こんな広くてステキなお家に住んでいらっしゃるのに!」
「そういうヨイショいらねぇから!帰れ!お袋さん心配してんじゃねぇのか!?」
相手の歳を考えると、母親が心配するほど子供でもないか、と思いつつ、リョウはすり寄ってくる茶髪を引き剥がそうとしていたが、マキの予想外の答えに、ふっと手が緩んだ。
「いねぇよ、親父もお袋も」
「………は?」
男にしては無駄につややかな髪を見下ろして、リョウは間の抜けた声を上げた。
「親父もお袋ももうとっくに死んだ」
無駄に広いリビングに、沈黙が広がる。
一瞬で、リョウは返す言葉を失ってしまった。
押しかけてきたこの男は、自分と同じ境遇にいるのだ。そう思うとリョウは、彼を簡単に拒絶することができなかった。
「………わかったよ」
引き剥がそうとしていた手が、突然頭をぽんぽん、と優しく叩いたのに、マキは驚いたようだった。リョウを見上げた丸い目は、あからさまに期待の輝きを孕んでいる。
「い……いいの?」
「ただし、長くても2週間だ!2週間経ったら出てけよ、わかった?」
「うんっ」
頷いたマキは、誰がどうみてもただの子供だった。無邪気な笑みに、隣の家に住む高校生の少年を思い出す。
もちろん可愛さで言えば彼、リョウが“桜ん坊”と呼んでいるあの少年に、このマキが勝るはずもないが、リョウ自身知らなかったとはいえ同じサークルの後輩である。まったくの赤の他人でないのなら。
「ありがとリョウさん、よろしくな!」
にかっと笑ったマキに、リョウは苦笑いで返した。
かくして、広い家に男二人の微妙な同居生活が始まったのだった。