つどい亭の朝
9階層【生きる大森林】
この森に群生する木々は自由気ままに成長と移動を行うので、普段は大人しい植物も生き物であることを思い知らされる。そんな性質の植物が覆いつくす森は足を踏み込めば迷うこと必至。生息する魔物の危険度はそれほどではなくても、しっかり準備しなければ遭難してしまう。
冒険者の間では“生きる大森林に行くならコンパスは必須”というのが常識だ。もちろん魔法やレアアイテムがあれば脱出は容易だが、単純なアイテムこそ初心者でも扱いやすく重宝される。
そんな森にダンジョン酒場“つどい亭”が隠されている。
つどい亭は魔物が経営する酒場だが迷い込んだ人間もお客として歓迎してくれる。人間と魔物はお互いに敵対関係ではあるが、そんな関係もお酒を交えればみんな飲み仲間だ。むしろここでしか得られない貴重な情報や、ダンジョン攻略の裏技が得られる隠れ家でもあった。
双方にメリットしかない場所で争いなど起きるはずもない。
従業員は魔物のミミック一匹だけだったのだが、最近になって人間を雇うようになった。この物語の主人公はその人間の従業員である少年ナナのものだ。
※
ナナがつどい亭で働き始めて一月が経過した。
「…」
朝になるとナナは部屋のベッドで目を覚ます。
つどい亭の二階は従業員の宿となっているので、贅沢にも一人部屋で暮らすことが出来る。過去の奴隷時代だったら考えられない待遇だろう。
「…」
まずナナのやるべきことは身だしなみを整えることだ。
洗面所で歯を磨いて顔を洗い、女の子のように長い髪を櫛でとかしてゴムでまとめる。部屋のタンスにしまってあるメイド服に袖を通せば、これで男とは思えないほど可愛らしい看板娘の完成だ。
「…」
次にやることはお店回りの掃除だ。
つどい亭は森と魔法によって隠された洞窟の中に建てられている。なので風に舞った落ち葉や、お客の足に付いた泥が固まって散らかってしまう。
店長はこまめに掃除する必要はないと言っているが、人間時代の習性でナナは欠かさず箒で店回りを綺麗に掃除する。
「…」
そして次の仕事は食材の調達だ。
調達といってもダンジョンへ冒険に出るわけではない。
「こんちわー魔獣運送です」
タイミングよく大きな荷馬車を引き連れたオークが現れた。
「こっちが野菜で、こっちがパン。それと小麦粉と調味料とお酒と~」
逞しいオークは軽々と木箱を持ち上げて店の前に積んだ。
「…!」
ナナはお店の倉庫に荷物を運ぼうとしたが、重くて持ち上げるどころか押して運ぶこともできない。
「おはよう、ナナ」
するとつどい亭の店長、ミミックのツヅラが店から現れた。
「…」
挨拶を返したいがナナは言葉を発せられないので深々と頭を下げた。
「どっこいしょ」
ツヅラは長い髪の毛を触手にして、次々と荷物の詰まった木箱を店の中に運び入れる。
「力仕事は無理してやらなくていいのだぞ」
「…」
ツヅラはそう言ってくれるがナナは焦っていた。
理由は自分が非力で声も出せないからだけではない。価値がなければ捨てられてしまうという、奴隷時代の恐怖が心に根付いているからだ。
「やれやれ、人間の子とは感情表現が豊かだのぅ」
しょんぼりしているナナを見てツヅラは苦笑する。
「ナナがうちで働いてくれて感謝しているのだぞ」
「?」
「従業員が魔物だけだと人間の客足はやはり遠くなってしまう。だからナナが働くようになって、この“つどい亭”が正式に人間と魔物の共存できる場となったのだ」
ツヅラは嬉しそうに自分の店を見上げる。
「わしがこの店を“つどい亭”と名付けたのは、全ての酒飲みが集う店にしたかったからじゃ。ナナのおかげで思惑通りの良い店になったぞ」
「…」
難しいことを言われてもナナは理解することはできないが、自分が必要とされていることだけは何となく分かる。
「むしろこんな環境で働かされて、ナナは辛くないか?」
「…!」
ナナは勢いよく首と横に振る。
「なら良いのだが」
人間を雇うことはツヅラにとっても初めての試みな上、相手はまだ幼い子供なので我慢させていないか不安に思うことがある。
酒場の雰囲気は常に明るくしたいものだ。
「さて、本日も開店じゃ!」
「…!」
こうしてつどい亭の一日が始まる。