魔王、逃げろ
青空の下で、牛や羊たちが草をはんでいる。生命力にあふれる青々とした牧草地は、遠く、山の中腹まで広がっていた。
雪を冠した峻厳なる高山が、豊かな水を土地にもたらしている。
風に揺れる麦穂が、ザワザワと音をたてて、そこに畑仕事をする、女たちの笑い声がまじる。
「ここが、あの方たちの暮らしておられる村か」
王国騎士団に所属する、騎士エドワードは、馬の歩をすすめた。
村の入り口となる木製のアーチをくぐる。
見張り役はもちろん、案内役もいないらしい。
豊かな農村であり、暮らす人々も、住居も多そうだ。
少し進むと、石垣の上から、六、七歳ほどの少年が、エドワードをみていた。
「そこの少年よ。たずねてもよいかな?」
「おじさん、騎士さま?」
少年にとって、口鬚を生やした男はおじさんにちがいない。
二十三歳の若手騎士、エドワードは、動じることなくこたえた。
「ああ、そのとおりだ。ところで少年よ、村長の家はどこだろうか?」
「村長? グレイド兄ちゃんの家じゃないの?」
「グレイド? それはまさか、グライドさまの──」
エドワードは少年から話を聞いたのち、村長の家を訪れた。
まずは村の長に話を通すのが筋である。
村長もまた礼儀を守り、エドワードをあたたかく迎え入れた。
「では、間違いないのだな?」
「はい、グレイドさまこそ、グライドさまのご子息です」
偉大なる守護者の血統は、新たな時代につながっている。
エドワードは強く拳を握っていた。
一抹の不安が消え去り、胸中に喜びが満ちていた。
「では村長よ。すまないが、グライド様の家まで、案内を頼めるだろうか?」
「はい、それでは娘のドロシーに案内をさせますので、少々お待ちください」
騎士エドワードは、村長宅に馬を預け、十八歳になるという村長の娘に導かれて、村内を歩いた。そう遠くない距離に、立派な住居がみえる。
「あれは……!?」
住居前の広い敷地で、ふたりの男が木剣を構えていた。
ひとりは歴戦の風格を漂わせる壮年男性。
もうひとりは、少年というには立派な体格をした、長身の若者。やや女性的な顔つきであり、華のある美しさをもっている。
「グライド様と、グレイド君です」
ドロシーが教える。その声は弾み、客人であるエドワードを見てもいない。視線はグレイドの、裸の上半身に向けられていた。ドロシーだけではなく、多くの若い村娘たちが距離をとり、惜しげもなくさらされた肉体美を堪能していた。
父と子の戦闘訓練は、合図もなく開始された。
動いたのは、息子のグレイド。
ゆらり、わずかに沈み、瞬時に間合いをつめて斬撃を放った。
木剣で止められる。
容赦のない斬撃を次々と放つが、ことごとくを撃ち返された。
一転、今度は父の猛攻がつづく。
世界の守護者、英雄グライド。
生ける伝説である、彼の強さには感歎、敬服する。
しかし、震えが走る。英雄の恐るべき斬撃を、軽やかに避け、鮮やかに受け流し、カウンターまで仕掛ける若者の強さに。
技術と度胸が並ではない。
そしてそれを可能にする、錬磨された細身の肉体。
「なんと強く、しなやかな肉体か」
騎士エドワードは見とれていた。まっとうな騎士として、グレイドの戦闘技術と鍛えあげられた身体能力に驚嘆していたのだ。隣りで肯いている、鼻息の荒い娘さんのことなど、意識から消えていた。
父と子の、一瞬の隙も許されない戦闘訓練は、一時間もつづいた。
恐るべき体力、そして精神力。並の騎士では、たとえ立ちあえるだけの技術があっても、十分ともたないだろう。そんな濃密な訓練が終わったとき、立っていたのは息子であった。
木剣の切っ先が、地に膝をつけた父の、咽喉もとに触れている。
「……やれやれ、俺も歳だな」
「ふっ、言い訳は見苦しいよ、父さん」
父子の訓練に見惚れていたエドワードであったが、案内役のドロシーに腕をバシバシ叩かれて、我にかえった。興奮をおさめつつ、父子のもとに向かう。
ふたりとも、王国騎士エドワードの存在には気づいていた。
伝説の英雄グライドは、すでに立ち上がり、出むかえる構えをとっている。息子のグレイドは、とくに気にすることなく離れてゆき、村娘たちに囲まれながら汗をふいている。
「王都より使者として参りました。騎士エドワードと申します」
膝を折り、最上級の礼をもってして、エドワードは挨拶を述べた。
○
守護者グライド。
悠久の彼方より、世界の守護を任された一族の末裔。
神々より救世の加護を与えられた存在であり、二十年前、仲間とともに魔王を討ち倒した英雄である。
本来ならば、当時のプリンセスと婚姻を結び、玉座に座っていてもおかしくはなかった。しかし、彼は王族の要求を断り、仲間のひとりであった女性と結婚することを選んだ。王都より遠く離れた土地で、のどかな田舎暮らしをつづけている。
「たいしたものではありませんが、どうぞ」
「ありがとうございます。恐縮です」
騎士エドワードは、やや緊張した面持ちで席に座っていた。
目の前には、汗を流してさっぱりとした、英雄グライド。茶を淹れてくれたのは、魔王討伐のメンバーであり、グライドの妻である、魔術師シュレイア。幼いころから憧れていた、生ける伝説たちと空間をともにしている。使命がなければ、握手ぐらいは願っていた。魔王討伐の逸話なども聞かせてほしかった。
すでに挨拶は終えている。
大きな木製のテーブルには、十六歳になる息子、グレイドもいた。
彼の隣りには、十四歳になる娘、シュレルもいた。
シュレルが小さな口を開け、そこにグレイドが菓子を運んでいる。仲の良い兄妹であるらしい。客人がいようと無関係のようだ。母であるシュレイアが注意をしていたが、あまり気にしていない。
案内役であった村長の娘、ドロシーもいる。
シュレイアを手伝い、テーブルに菓子と茶を運んでいる。
「それでは使者殿。そろそろ本題といこうか」
グライドの言葉にうなずき、エドワードは荷の中から箱を取り出した。
キーワードを唱えることで開けることができる。
箱の中に仕舞われていたのは、封書である。
「こちらになります」
エドワードは、王族の印が押された封書を、グライドに渡した。
グライドはためらいなく封を切った。
エドワードは、一読する英雄の表情を観察した。書かれた文章は知らないが、大筋は理解している。エドワードは、英雄の返答を聞かねばならない。当然、良い返答を。
「ようするに、救世の加護を授けられた守護者に、協力を要請しているわけだな」
長々と装飾された文章だったのだろう。グライドは疲れた表情でつぶやくと、妻のシュレイアに手紙をまわした。王族からの手紙なのに、扱いが雑である。
「言ってなかったが、俺は救世の加護を失っている」
「それは、つまり」
「ああ、守護者の役目は、すでに引き継がれている」
神々より救世の加護を授けられる存在は、いつの世も、たったひとり。
守護者の一族から選ばれ、引き継がれていく。
エドワードは、英雄の息子、グレイドに視線を向けた。
美しく、華のある若者であった。
舞台で黄色い歓声を浴びる俳優でも、彼ほど艶のある色気はないだろう。
「いきなり加護が消えたりするから、なにかあるだろうとは思っていたがな」
「ふつうは死んでから引き継がれるって聞いていたものね」
グライドがぼやき、シュレイアが答えながら、息子に手紙をまわした。気軽に回し読みするような手紙ではないはずだが、美しい兄妹が、顔をそろえて文面をながめている。ドロシーも後ろからのぞいている。
「新たな魔王があらわれる? やれやれ、邪神討伐でもないのに、オレを呼び出そうというのかい?」
巫女が神託を授かった。そう遠くない時期に、新たなる魔王が誕生するという。エドワードは、使命を受けた際に聞かされた内容と、衝撃を思い出していた。
グレイドの、豪胆というか傲慢というか、不敬極まりない発言は、エドワードの耳を素通りしていた。誠実な騎士エドワードにとって、理解できる範疇ではなかったのだ。
しかし、次の父と子の会話には、反応せざるをえない。
「まっ、女王さまのご命令とあらば、馳せ参じないわけにもいかないね」
「呼び出しを受けたのは、加護を授かった守護者だがな」
「シュレルに危険な真似をさせるわけにはいかないだろう?」
「えっ?」
エドワードの間の抜けた反応に気づき、グライドが告げる。
「守護者の役目を引き継いだのは、妹のシュレルのほうだ」
「……はい?」
エドワードは困惑した。
兄と妹を交互に見比べて、どちらも美しいなと感じるのみ。
兄だろう。
ここはやはり兄だろう、と、エドワードはグレイドに視線を定めた。
「救世の加護? そんなもの、オレには必要ないからね」
兄のグレイドが言い放った。
妹のシュレルは、小さな口を開けて菓子を催促している。ドロシーが三つほど放りこんだ。もぐもぐしながら、彼女に非難の眼差しを向けている。兄に頭をなでられて、菓子を飲みこみ、また口を開けている。
エドワードは、グライドとシュレイアに目を向けた。
夫妻は顔を見あわせた。
「もう、グレイドでよくないか?」
「雰囲気でうまく誤魔化せるんじゃない?」
堂々と偽装工作を持ちかけてきた夫妻に、騎士エドワードは、おもわず「はい」と応えそうになった。
○
妹のシュレルは、魔術の才に恵まれていた。
神々に授けられた救世の加護もあり、膨大な魔力をそなえた、母を超える魔術師となっている。
世界の守護者となれる存在であった。
「兄さんが行くのなら、わたしも行くね」
使命感はゼロであったが、言いだしたら聞かない、ワガママな娘でもあった。
おかけでエドワードは使命を果たすことができる。
王都に戻り、女王に事の成り行きを伝えるつもりであったが、グレイドたちは待つのが苦手らしい。準備を整えたらすぐに発てるよう、エドワードが村に滞在することになった。
「ドロシーだったね。なぜ、君までついてくるのかな?」
「グレイド君のお手伝いです」
普通の農村ではなかった。若者たちは、英雄夫妻に幼いころから鍛えあげられていた。騎士より強い若者がごろごろいた。簡単な魔術ならば、はじめに出会った少年でさえ使っていた。魔術をあつかえない若者は、たったひとりしかいなかった。
「なぜ魔術を使えないのかって? 精霊たちは、オレが眩しすぎて近づけないのさ」
グレイドは魔術がつかえない。
それが誇りであるかのごとく、まったく気にしていない。
ドロシーは、そんなグレイドの戦闘、および生活を補佐するためについてくるという。回復や支援系の魔術に長けていた彼女は、どうやら、母シュレイアのお気に入りであるらしい。「そうなのかい?」と問うたエドワードに、「シュレイア先生には懸命に尽くしましたからね」と彼女は答えた。「馬が欲しいのなら、まずは乗り手を倒しますよね?」と、いい笑顔で賛同をもとめてきた。
村に一週間ほど滞在して、なにをどう反論していいのかもわからなくなっていたエドワードは、使命を果たせるなら気にしないと決めていた。
エドワードは馬車を操り、グレイド、シュレル、そして村長の娘ドロシーを王都に導いた。
○
王都に嵐が訪れた。グレイドは、女王の前で完璧な礼儀作法をみせつけ、その夜に開かれたパーティーで、貴族の女性を虜にしてまわった。彼は一夜にして、貴族の半分を味方につけたといえる。
「魔王? どんな奴かは知らないが、ようするに、オレの引き立て役だろう?」
神々の加護もなく、魔術も扱えない。そんなことは堂々と本人が打ちあけている。しかし、反感を抱いていた貴族子弟も、王国騎士たちも、彼の実力は否定できなかった。健全な精神をもった者が、グレイドの取り組んでいる鍛錬を知れば、怒りは羞恥へと変わるだろう。
「どうして汗を流すのかって? オレの香りで、世界を浄化するためさ」
彼は鍛錬を欠かさない。
夜会には出席しても、酒は飲まない。
麗しい女性たちをやさしく扱い、魅了はしても、それだけで終わる。
彼は節度を乱さない。
「オレのようになりたい? そう願うのは当然だが、まずは神にでもなればいい」
若者たちが、グレイドの影響を受けはじめた。
鍛錬に励むのはよかったが、言動だけを真似しはじめる輩も多かった。
当初はグレイドに反感を抱いていた大人たちが、愚かな若者を叱りつけ、グレイドを見習えと言い出しはじめた。
裏ではシュレルとドロシーが、貴族女性たちを切り崩して新たな派閥をつくりはじめたが、王都は活気に満ちていた。神殿の巫女がもたらした不吉な影は、グレイドのもたらす光によって消え去ったかのようにおもえた。
騎士エドワードは、激しい訓練を終えた夜、日記をつづった。
「救世の加護を授けられし世界の守護者、シュレルさまの出番はあるのだろうか? このところ、新たなる魔王とやらが気の毒でならない」
エドワードの予感が現実となるまで、そう遠くはなかった。




