第二章 通初めての敗北?
通とエンジェルの「熱い口づけ」を目撃し、フリーズしてしまった美津子を、香と信一が抱えるようにして家に運んだ。
「お姉ちゃん!」
知らせを受けていた弟の晶が玄関で出迎えた。
「どうしちゃったんですか、姉は?」
晶は瞬き一つしない美津子を見て香に尋ねた。
「えーとね、ちょっとお答えできかねます」
香はそう言って苦笑いする。信一が、
「まあ、話は美津子さんを休ませてからにしようか、晶君」
「は、はい」
香の代わりに晶が美津子を支え、信一と二人で部屋まで運んだ。
「一体どうしたの?」
晶は小声で久美子に尋ねた。久美子は何故か赤くなって、
「わ、私に訊かないでよ、晶君」
「え?」
晶は久美子が赤くなったのを見て、余計訳がわからなくなってしまった。
その頃、お騒がせの張本人である通は、アスタロトに指定された五次元の座標に向かって飛んでいた。座標の位置に正確にテレポートできればいいのだが、行った事がない位置にいきなり飛ぶ事は至難の技なのだ。
『あとどれくらいかかりそうだ、天使女?』
通は心の中でエンジェルに話しかけた。
『天使女じゃなくてエンジェル! あと地球時間で三十分てとこかな』
『もっと早く着けねえのかよ?』
『無理よ。これでも相当ギリギリのスピードなのよ。私の身体が壊れそうなの!』
『そうか。わかった』
エンジェルも、通と同化しているので、彼の感情がよくわかる。だから、焦る気持ちも理解できた。しかし、飛翔に体力を使い過ぎると、アスタロトと対峙した時に勝てる見込みが薄くなる。
『瞳ちゃんてさ、通の事が好きなの?』
『そんなんじゃないさ。あいつは昔から、人のものが欲しくなる奴なんだ』
『そうなの?』
エンジェルは通の心の中を覗いてはいけないと思いながらも、つい見てしまった。
通がまだ保育園入園前の頃。瞳はすぐ近くに住む仲の良い従妹だった。まるで本当の兄妹のように遊んでいた。
それが少し変化したのは、久美子が生まれてからだ。通が可愛がる久美子に嫉妬した瞳が、通がいない時に久美子に意地悪をしていた。久美子はまだ泣く事しかできなかったので、瞳の意地悪はエスカレートし、久美子の服を破ったり、手をつねったりした。
ある日、瞳を見ると泣き出す久美子を見て不審に思った通が、とうとう瞳の「犯行」を目撃し、彼女に怒った。瞳は逆ギレし、
「通兄ちゃんがアタシと遊んでくれないからだ!」
と泣き出した。その頃の通は、今とは違って喧嘩バカではなかったので、自分が悪い事に気づき、素直に瞳に詫びた。そして二人の仲は元通りになった。
久美子に対する嫉妬がなくなったのも束の間、次に通が小学校で出会った美津子に、瞳の矛先は向いて行く。
通が一年生の時は、瞳も美津子を敵視していなかったのだが、瞳が小学校に入学すると、美津子を異常なほどライバル視し、二人が一緒にいると必ず割って入っていた。
美津子も瞳が可愛いので、彼女が割り込んで来るのを不快に思わず、一緒に遊んでいた。幼い頃はそれですんでいたが、小学校高学年になると、「仲がいい」では気がすまなくなった瞳が、通に告白した。
「兄ちゃん、アタシと付き合って」
「俺達、まだ小学生だぜ。それに俺とお前は従兄妹同士じゃないか」
通のその不用意な発言が、また瞳を切れさせた。
「従兄妹同士は結婚だってできるのよ! ネットで調べたんだから!」
「おい……」
通は瞳がそこまで思いつめているとは考えていなかったので、面食らってしまった。
困り果てた通は、しばらく悩み、美津子となるべく遊ばないようにした。美津子も瞳の通に対する感情に気づいたらしく、
「瞳ちゃんを大事にしなさいよ」
と通に忠告し、通と距離を置くようになった。
ところが、瞳は父親の仕事の都合で、海外に行く事になり、騒動に突然幕が引かれた。
瞳からは頻繁に手紙が届いていたが、やがてそれも通が高校に入学する頃には途絶えた。通の両親の事故死で、瞳の家族と疎遠になっていたからだ。だから今日の瞳の出現は、まさに突然だったのである。
エンジェルは辛くなった。通の瞳に対する思いは、相当複雑だ。瞳もそうだろう。もし、アスタロトがその事を知った上で、瞳を利用しているのなら、絶対に許せない。そう思った。
「あれか」
五次元空間に浮遊する城。アスタロトが独自に築いたもののようだ。自分の家の紋が縫い込まれた旗が掲げられている。
「待ってろ、カマヤロウ。ギッタギタにしてやるぞ!」
久しぶりに本気の「喧嘩」ができるので、通は瞳の事も忘れてワクワクしていた。
『はあ。心配して損しちゃった』
エンジェルは通の呑気さ加減に呆れてしまった。
「どりゃあああああ!」
通の正拳突きが城門の吹き飛ばした。
「待っていたぞ、地球人」
城門の向こうの庭園にアスタロトと瞳が立っている。通は着地して、
「瞳を返してもらうぜ、カマヤロウ」
するとアスタロトはニッとして、
「瞳、お前あいつのところに戻りたいか?」
「いいえ、アスタロト様、私はここに残りたいです」
瞳のその発言に通は仰天した。
「瞳、何言ってるんだ!? そいつはな……」
「通兄ちゃんと違って、アスタロト様はとてもお優しいのよ」
瞳はアスタロトに寄り添って言った。
「瞳……」
通は唖然とした。アスタロトは通の動揺を笑い、
「情けないな、地球人。助けに来たはずが、拒否されるとはな」
「く……」
通は歯軋りした。そして更に通に追い討ちをかける事を瞳が言い出した。
「アスタロト様、私、通兄ちゃんを殺したいんですけど、かまいませんか?」
通は打ちのめされていた。
(こ、殺すだと? あの瞳が、そんな……)
「かまわんさ。存分にお礼をしてから、殺してやれ」
「はい!」
風を巻いて瞳が通に迫った。
「うわ!」
完全に虚を突かれた通は全く防御する事なく、瞳の正拳を顔面に食らった。
「やりい!」
瞳は大喜びしている。
「うう……」
通は口から血を流し、瞳を見た。
『通、相手はあんたと条件が一緒なんだ。気を抜くと本当に殺されるよ』
エンジェルの声が忠告する。
「わかってるよ。わかってるけど……」
通は星の数ほど喧嘩をして来たが、一度も女を殴った事はない。いや、暴力を一切振るった事がないのだ。それは彼の中の絶対的な掟だ。それだけは、例え地球を賭けられても破れない。
「何ボサッとしてんのよ、兄ちゃん!」
瞳のハイキックが後頭部を襲う。
「ぐう!」
通はそのまま前のめりに倒れた。
「まだ早いわよ。全然楽しめてないわ!」
瞳は顔面血だらけの通を髪を掴んで引き起こし、
「おらあ!」
と膝で腹を蹴った。
「うぐ……」
また崩れ落ちそうになる通を瞳が引き起こす。
「まだまだよ!」
連続の膝蹴りが、通の腹に突き刺さる。
「ゲヘエ……」
通は口から血を吐いた。
「つまんないわ、兄ちゃん。反撃しなさいよ」
瞳は全く抵抗しない通を嘲り、蹴り倒した。
「私も気分悪いのよ。こんな一方的なやり方はね」
「そう、じゃあこっちも行くわよ!」
エンジェルは通の意識を閉じ込め、自分の身体を動かした。
「ええい!」
キックが瞳の顔にヒットした。
「キャッ!」
不意を突かれ、瞳は後ろに倒れた。
「あんた、通が女に手を挙げないのを知っていてこんな事をするのなら、アタシが相手だよ!」
エンジェルは、本当は自分の顔がこれ以上ボコボコになるのが我慢できなかったのだ。
「いいわよ、別に。死ぬのはあんた達なのに変わりはないから」
瞳は狡猾な笑みを浮かべて言い返した。
「バカにするなあ!」
エンジェルの反撃が始まった。瞳は今度は逆に一方的に殴られた。
「言ってわからない奴には、時には鉄拳制裁も必要なのよ、通!」
エンジェルはそう叫びながら瞳を殴りつけた。
「やめて、やめてよ。兄ちゃん、痛いよ。どうしてこんな事をするの?」
瞳は泣きながらエンジェルを見つめた。
『やめろ、天使女!』
閉じ込めたはずの通の意識が出て来て、エンジェルの支配を排除してしまった。
『通!』
『瞳とのケリは俺がつける』
再び通が表に出て来たのを察知した瞳は、
「兄ちゃん!」
と突進し、その顔面を蹴り上げた。
「ぐおう!」
通はもんどり打って仰向けに倒れた。
『通、これ以上やられたら、本当に……』
エンジェルが心の中で叫んだ。通は立ち上がった。
「止めよ、兄ちゃん!」
瞳のジャンプしての踵落としが頭頂部に炸裂し、通はまた倒れた。今度は白目を剥いて。
「やった! 勝ったわ、兄ちゃんに!」
瞳は嬉しそうにアスタロトを見た。アスタロトはニヤリとし、
「つまらんぞ、地球人。今のお前は、私を虚空の彼方まで飛ばした時より遥かに弱い。失望したよ」
瞳はアスタロトに駆け寄った。
「私はこれから地球に降り、地球人を殲滅する。お前はここからその様子を見ているがいい。そしてそれが完了したら、改めて息の根を止めてやるよ」
アスタロトはそういい残すと、瞳と共にテレポートした。
『通!』
エンジェルは呼びかけても答えない通に驚き、転移を解いた。
「通!」
通は肉体も精神もボロボロだった。エンジェルはその通の様子に涙した。
「どうしたらいいの?」
彼女は通を抱きかかえ、ミカエルの城にテレポートした。