その弟美少年につき
東京の私立の名門である杉野森学園高等部は、別の意味でも「名門」である。
矢田通。今世紀最強と言っても過言ではない、チビッ子高校生だ。
街でいきがっているワル共も、通の名を聞けば借りて来た猫より大人しくなり、その声を聞けば、隣の芝生よりも青くなる。それくらい、矢田通の強さは、その筋では有名だった。しかもそれに加えて、妹の久美子、彼女の美津子も半端ではない強さだと噂されている。久美子に関しては、間違ってはいないのだが、美津子は別に強くはない。但し、気の強さだけなら久美子以上だ。
「私は彼女じゃないから!」
美津子はワル共が泣きながら許しを請う時も、そこだけは強調して説明する。でもワル達の耳には届かない。美津子は矢田通が唯一頭が上がらない存在と思われている。すなわち、「矢田通<美津子」という絶対公式が、連中の間に浸透しているのだ。
その美津子の「伝説」の恩恵を一番受けているのは、彼女の弟である晶である。彼は成績優秀なのは姉と同じだが、気の弱さは誰に似たのかというくらい大人しい男だ。しかも悪い事に晶は久美子と幼馴染で、杉野森学園中等部の同級生でもある。更に、久美子の兄である通が唯一久美子との交際を認めている男だ。多分結婚したいと言っても、通は許すだろう。
晶と美津子が並んで歩くと、晶の方が女の子に見えてしまう。だから美津子は晶に、
「もっと男らしくなりなさい!」
と毎日言っている。
「あんたがなよなよしてると、私がいじめてると思われるから、嫌なのよ!」
その言動がすでに晶にとっては「いじめ」に等しい。
普通ここまで弱いと、学校でいじめの対象になりそうだが、彼はあの大田美津子の弟で、しかも彼女は矢田通の妹の久美子という最強形態なので、誰も晶をいじめたりしない。下校時に、晶が他の中学のワルに絡まれたりしても、同級生のワル共が身体を張って晶を守ってくれる。彼らは誰かに頼まれたわけでもなく、自主的にしているのだから凄い。
そんな事があったのは入学したばかりの頃だけで、しばらくすると晶の立場はその付近一帯に知れ渡り、誰も彼に絡んだりしなくなった。むしろ妙な愛想を振りまく不気味な連中すらいるほどだ。
「晶君、帰りましょ」
久美子が笑顔で声をかける。
「う、うん」
晶は何故かオロオロして答える。完全に尻に敷かれる組合せだ。久美子はそんなつもりはないだろうが。
「どうしたの、具合悪いの?」
久美子が心配そうに彼の顔を覗き込む。
「べ、別にどこも悪くないよ」
晶は慌てて答える。
「そう。良かった」
久美子ちゃんの笑顔は癒される。晶はそう思う。
「久美子さん」
そこへ現れる、胃が痛くなる存在。同級生の大山。身長は二メートルを超え、体重も百キロを超える。久美子を慕っているようだが、決してそれを表に出さない。でも、晶には大山の思いがよくわかる。
「あら、大山君。どうしたの?」
大山は久美子に笑顔で尋ねられて、嬉しそうだ。
「いえ、その、またおかしな連中がうろついているらしいので」
「大丈夫よ。いざとなったら、お兄ちゃんに助けてもらうから」
久美子は一応晶には自分が格闘技を習っている事を隠している。二人の関係は、むしろ久美子が晶に「LOVE」なのである。もちろん、晶も久美子の事が好きなのだが、どこか恐れている節があるのだ。
「そ、そうですか」
自分を頼って欲しいと思う大山だが、それは決して口に出さない。それが男だと彼は思っている。
「今日は注文していた参考書が届く日なんだ」
「そうなの」
二人は楽しそうに歩き出す。大山は少し距離を置いて歩いて行く。
「ここね」
久美子と晶は駅前の大型書店に入る。大山は中には入らず、表で周囲を監視する。
「ありがとうございました」
晶は参考書を受け取り、レジから離れた。その時、後ろにいたその筋の方の足を踏んでしまった。
「あいってててて!」
大袈裟に騒ぐその筋の人。今時珍しい弾けっぷりである。
「ああ、ご、ごめんなさい!」
慌てて謝る晶。その声に気づき、レジに近づく久美子。
「骨が折れたかも知れん。ちょっと外で話そうか、兄ちゃん」
「は、はい」
素直について行く晶を、久美子が引き止める。
「久美子ちゃん」
「どうしたの、晶君?」
二人のやり取りに気づき、その筋の人が振り返る。
「おい、姉ちゃん、あんたはこの兄ちゃんの関係者か?」
「そうですけど」
「じゃあ、一緒に来てもらおうか」
「はいはい」
陽気に答える久美子に、晶は呆然としてしまった。
(まずいよ、久美子ちゃん。相手は絶対ヤクザだよ)
早く姉か通に連絡をと思ったが、外に大山がいる事を思い出す。
「ああ!」
運の悪い事に、大山は横断歩道で困っていたおばあさんを背負って道路の反対側に行ってしまっている。
(ど、どうしよう?)
晶がソワソワしている間にも、久美子はどんどんヤクザと歩いて行ってしまう。
「晶君、早く」
「う、うん」
晶は漏らしそうなくらいビビッていたが、久美子は全く動じていない。
(さすが、矢田さんの妹だなあ)
晶は感心してしまった。
「どこまで行くの、おじさん?」
久美子が尋ねる。
「そこに見えるだろ、ウチの事務所の看板が」
「ああ、何だ、よっちゃんのとこなの?」
「ああ?」
ヤクザは、自分の組の組長がちゃんづけで呼ばれたので、久美子を睨みつけた。
「あ、よっちゃんだ!」
久美子は事務所の二階の窓から下を見ている強面の男に手を振った。その男も久美子に気づき、
「ああ、久美子さん。どうしたんですか、そんなところで?」
嫌な汗を全身から掻いているヤクザが一人。彼の寿命が縮んだのは間違いない。
「今日はありがとう、久美子ちゃん」
家の前で晶は言った。
「別にお礼なんて言われる事してないよ、晶君」
久美子はニコッとして答える。
「そ、そうだね」
世の中には触れてはいけない事がある。そう思った晶だった。