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「早く、はやく」
ラウルの手を引っ張って走り、人の隙間を縫い、空気のように集団を抜けて、空いている場所まで逃げた。
「これからどうするのですか?」
憎悪の視線が恐ろしかった。
蔦のように膚に巻きつき、時間をかけて絞殺してくる、邪悪な蛇のような威圧感があった。
すうっ、息を吸い、吐いた。
体内に溜まった悪い気を吐き、清浄な空気を体内に入れる、想像しながら深呼吸を繰り返して気を落ち着かせた。
「帝国を脱出して亡命します」
候国から西に行けば帝都へと近づくが、東へ行けば帝国の領域外だ。
ノーヴィザンチ。
広大な領地を有する帝国と、小さいながら貿易で富をなすノーヴィザンチ、両国を天秤にかけて、私の候国は何度も帝国に裏切りと恭順を繰り返してきた。
貧しい土地を持ちながら力ある候国となったのは、自国主義の結果かも知れない、力あるものに付き、最善手の一撃で自国を守ってきた。
歴史家の意見を聞けば狡猾な政治手法に嫌味の一つや二つ出るだろう。
たがそれでどれだけの命が救われたか、誰にも算出することはできないし、それを考えようともしなかった。
「行き先はノーヴィザンチですね」
ラウルの指摘は正しかった。
それはつまり誰にでも予想がつくことだった。
まだバルコニーにいた『私』に姿を見られなかったら活路は見出せたかも知れない。
見に来たことが悪かったのだろうか。
いやそれは違う。
それは後悔する事ではない。
私は『私』を見なければならなかった。
遅かれ早かれ対峙しなければならない運命だった。
「行こう。時は戻らないのだから、あとは最善を尽くすだけよ」
「せめて剣があれば自信を持ってお供ができるのですが」
ラウルの諦めた表情は精悍だった。
騎士として鍛えられた日々が、窮地において輝きを増しているようだ。
まだ恋らしい恋もしていないから分からないけど、女性は力に惹かれやすいと聞いたことがある。
今のラウルはカッコいいのかも知れない。
「そうだ」
渡す前に躊躇したが、懐から刀を出した。
皇太子から唯一貰った物だけど、私が持っていても重荷だ。
持っていても辱めを受ける前に自害するところの映像しか思い浮かばなかった。
「豪華な宝飾ですね」
ラウルは刀を持つと、抜いて刀身を確かめた。
「星の文様が鏤刻されていますね。これは美しい、祭儀用の剣ですか?」
「知らない、皇太子から貰ったものだから」
ラウルはお辞儀して懐刀を返した。
「これは受け取れません」
「私が持っているより、ラウルが持っていた方が役に立つよ」
「お止めください。それを受け取ったら、男が廃ります」
「そんな大袈裟な」
尚のこと固辞した。
「お嬢様は男の気持ちが分からないのですね」
ラウルが朗らかに笑った。
私たちは城下町の小路を駆け、人目を避けながら東へと向かった。
途中何度も警戒している兵士にあったが、ラウルの機転で隠れてやり過ごすことができた。
「ずいぶんと道に詳しいのね」
「ええ、ここら辺は子供の頃よく遊んだので」
騎士階級なのに庶民に混じって遊んでいたらしい、それは羨ましいことだ。
「私の親友を頼ろうかと思います」
「どういう人?」
「商人です。まだ見習いなのですが、今度諸国を遍歴して修行をすると聞いてました」
「その旅に同行すると」
「はい、早目の出立になるかも知れませんが、事がことなので聞いてくれ」
小路に硝子が割れる音が響いた。
「今度と言う今度は我慢できない!」
色黒の若者が足音大きくして、建物から出てきた。
「ああ、出て行け。夕飯までには帰って来いよ!」
家の中から親方らしき人が顔を出した。
「誰が帰るか!」
「おい、サウロ」
ラウルが言うと、サウロの顔に笑みが広がった。
「ラウル、どうした突然」
「いや、頼みたいことがあってな。どうした親方とまた喧嘩か?」
「いや、何でもないさ。上がれよ」
サウロが家の中に戻ると、
「早かったな」
「おう、ただいま!」
サウロが言うと、ラウルが声に出さずに笑った。