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朝霧が漂い、露が草むらを濡らしていた。
露が輝いた。
星の輝きが地に落ちたように錯覚した。
陽がまた昇った。
闇空に白い霧のような陽の光が流れ込み、星影と溶け合った。
溶明――空が灰色になった。
切り立った山脈の奥から日が昇ってきて、灰色を押しやるように赤らんだ。
「誰も迎えに来ないのね」
瞬く間に明るくなっていく、陽の光は本当に暖かだった。
「もぉーっ! 誰か迎えに来てよー!」
「お嬢ちゃん、朝から元気だね」
陽と共に起きる羊飼いが、会釈をして歩いていた。
絵に描いたような笑顔だった。
「あっ、ごめんなさい」
「良いんだよ。元気なことは良い事だ」
モコモコとした羊の群れが続いて横切った。
めー、めーと鳴きながら、私の顔を覗き込んだ。
「めー」
迫真の演技で鳴くと、三頭ほどこちらを振り返った。
「なんで誰も来てくれないんだろうね?」
めー、めーと羊は鳴いた。
聞き方によっては違うかもしれないけど、私にはメーと聞こえた。
「めー」
五頭ほどこちらを振り向いた。
ふ、
ふ、
ふ、なかなか物まねが上手いみたいだ。
誰にも必要とされない貴族から女優にでもなろうかしら?
そんな簡単な道ではないか……。
しばらくのあいだ羊と戯れた。
羊の姿が見えなくなるまで見送り、意を決して再び歩き始めた。
「早く戻らないと」
帝都の貴族の真似をしたドレスは夜露に濡れ、刺すような冷気を抑えきれなかった。
身体の芯まで冷えた。
誰かを魅了するためのドレスは、今では実用性の無い服と化してしまった。
道すがら家屋が見えた。
家屋の隣には小屋があり、老いた驢馬が寝ていた。
体はしっかりしていて力強そうだった。
家屋を訪ねると、初老の農夫が出てきた。
「すみません。驢馬とこの指輪を交換してくれませんか」
「んー」農夫は指輪を見て首を傾げた。「そんなものの価値なんて分からないよ」
「そこをどうにか」
両手を合わせてお願いすると、農夫は困ってしまった。
「分かったよ。ただしこれは預かることにするよ、うちの驢馬も用が終わったら返しておくれ」
そういう事になった。
驢馬の毛を撫で、適度に休み、食べ物をこまめにあげていると、最初はよそよそしかったのに懐いてくれた。
住み慣れた小屋を離れ、知らない人と一緒に行く旅が不安だったのかも知れない。
ドレスも乾きつつあり、驢馬に乗りながらの道中は快適だった。
「お嬢様ー」
やっと迎えが来た。
今まで正直寂しかった。
城から領地の境まで行ったけど、いくら何でも遅すぎるよ。
騎士のラウルが鎧も帯刀もせずに走ってきた。
ラウルは私と同い年ながら皇帝の御前試合で二勝して、その後体力尽きて不戦敗した騎士だ。
実力は確かだけど、あと一歩届かないところがある。
そんな青年だ。
「遅いよ。ラウル」
「お逃げください」
ラウルは膝をつき、私を仰ぐようにした。
「……城で何か起こったの?」
「お嬢様がいます」
何を言っているのだろうか。
「すでにお嬢様が戻っているのです」
「どういうこと?」
「私も最初は騙されました。皇太子様がお嬢様を攫ってからすぐに私たちは追いかけました。そして独りで逃げてくるお嬢様を見つけたのです」
偽者がいるということか……だから誰も迎えに来なかったのね。
昨夜の婚約者の一件から何か作為的なものを感じる。
私の知らないところで私の人生が操作されている――そんな不穏な気配がする。
「暗闇では分かりませんでしたが、朝を迎えた時にお顔を見て別人だと分かりました」
「他の者は?」
「気づいていません。ですが今朝方、お嬢様の侍女たちが次々に幽閉されました。そして」ラウルは息を飲み「帝都を攻め込むと宣言されました」
宣戦布告?
状況から考えたら無理のない選択だけど、私だったらとりあえず対話を試みる。
負けん気はあるけど、喧嘩っ早くはないつもりなんだけど。
「皇太子が逃げた道を辿り、一か八かここまで来てみたんですが、当たりでした」
馬とか持ってきてくれたら嬉しかったな……。
「馬とか剣とかどうしたの?」
「城の内部の警備が強化されていて、持ってくることができなかったんですよ」
完全に反乱じゃない。
「顔はそんなに似ているの?」
「見慣れた人にはすぐに判別つくと思うのですが」
私、ラウルと面と向かって顔を合わせたこと数回しか無いんだけど。
……何か怖い。
「ふーん、もしかして魔女かな。顔を変える魔法みたいなのを使っているとか」
「創作の世界ですね」
「その発言、異端っぽいわよ」
教会が魔女をいることを認定している。
存在しないと思っていても、言葉ではいると言うのが火の粉を振り払う術だ。
「まさか信じているので?」
「皇太子が魔女の名前を出していたからね。なんとなくそんな気がしたのよ。あと、ラウル。教義に関わるようなことは、軽々しく話さないで。誰が聞いているか分からないのよ」
「分かりました」
私は驢馬を城の方向へ向けると、ラウルは驢馬の頭を抑えた。
「どこへ」
「城よ」
「いけません。現状、あの城には信用できるものが誰もいません。死にに行くようなものです」驢馬がラウルの手甲を噛み付いた。「痛っ」
「悪いけど、ラウル。誰も信用がならないならラウルだって信用できないのよ」
「そんな」
「近くまで行ってみるだけだから、ねっ?」
「危ないと思うのですが」
それでも私は行くことにした。
逃げるにしても帝都には行けない、もしも逃げる活路があるとしたら、城の近くを通らなければならないからだ。