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「私は君と婚約破棄しようかと思っている」
断崖絶壁にある辺境の城に着飾った豪族たちが勢揃いしていた。
彼らは数十年前までは農民や荒くれ者だった。
今では帝都にいる貴族たちの物真似をして着飾っており、顔に笑いの仮面を貼り付けていた。
そして聞き耳を立てていた。
婚約者を迎えた楽しい宴は、婚約者の口からこぼれた言葉に凍てついた。
「それはどうしてですか?」
私は当然の疑問を口にした。
皇位継承権のある婚約者は周りを見渡してから、さらに声を大きくしていった。
婚約者はこの会話を周囲の人達に見せつけようとしていた。
「帝都の各地で農民の反乱が起きたのを覚えているかい」
数ヶ月前の出来事だ。
私は当然覚えている。
「はい、神託を受けた少女を旗頭にした反乱ですね」
「その少女は捕縛されて、現在尋問をされている。いわゆる魔女裁判だ」
魔女裁判――悪しき風習だ。
裁判とは名ばかりの拷問だ。
誰かが怪しいと言えば瞬く間に捕縛して、過剰な尋問を行う。
魔女の口から出た人々も同じく魔女とされる。
それが本当か嘘かは関係なかった。
誰かが犠牲にされる。
次から次へと連なるように人々が殺されていき、死と負の連鎖がどこまで続いていくか分からなかった。
「魔女の口から君の名前が上がったよ」
冷や水をかけられたように寒気がして、汗が溢れてきた。
汗を抑えるために強く締め付けたコルセットが汗を止める役に立たなかった。
喉が渇いた。
罪が無くても恐怖がある。
魔女裁判は裁判ではないからだ。
誰もが犠牲になる可能性がある。
「ご両親の名前も出た」
「そんな、父と母は帝都に行っているのに」
魔女の口から名前が出た。
つまり……。
「捕縛された」
城内の空気が完全に一変していた。
豪雪後の朝のように底冷えする大気に満ちていた。
荒くれ者の豪族が耳を澄まして、私達の会話を聞いている。
凍てつく大気に混じり戦の臭いがする――荒くれ者たちの本能を刺激されているのだろう。
婚約者の服が靡き、メリッサの香りが漂った。
その香りは心地良かった。
私は婚約者の右腕で抱き締められた。
逃げようと抗ってみたが、婚約者の力には勝てなかった。
子供の頃は同年代の男の子とよく遊んでいたけど、力負けすることは無かった。
今日初めて、大人の男性は本当に力強いことを知った。
女性よりも男性の方が腕力がある。
その単純な発見が今の状況よりも恐ろしく感じた。
「全員動くな。彼女は私の腕の中にいる」
父に従ってくれた豪族たちはフォークを強く握り締めていた。
婚約者の手が優しく首に触れると、次々に放して食器に落とした。
途端に首から指が離れた。
「これ以上、手荒なことはしたくはない。下がってくれるか」
豪族達がお互いを見ていた。
「私たちに二心はありません。彼らは私の臣下ですから咄嗟に助けようとしただけです」
「分かっています」
婚約者はゆっくりと後退り、目配せして臣下に合図をした。
「馬を用意してください」
城から数頭の馬が放たれた。
婚約者に抱えられながら乗馬するのは夢だったけど、まさかこんな冷たいものになるとは思わなかった。
冷たくなって涙もでなかった。
「悪かったと思っている」
選帝侯の一人娘として、皇帝の血を授かるのは名誉といわれた。
だけど婚約者には恋愛していた女性がいた。
数ヶ月前まで関係が続いていたようだが、最近では完全に縁を切っていた。
お互いそれ程望んでいた相手ではない、でもこれから良くしていこうと思っていた相手だった。
「領地の境まで来てもらうよ」
「はい……」
「それとも帝都まで来るかい?」
「私を魔女裁判で殺す、と」
「もしかしたら守れるかもしれない」
魔女裁判の結果に納得がいかなかった。
何故、魔女の口から私達の名前があがったのだろうか。
父が反乱を企てていたのだろうか。
それとも帝国の権力者に嵌められたのだろうか。
権力争いなら婚約者も無力ではないだろう。
だが何かしらの関係があったなら、婚約者に私を守る力は無い。
なによりも――。
「私は私を信じてくれている臣下を裏切ることはできません」
「そうだね。その通りだろうね」
無言の疾駆が続き、やがて馬が止った。
婚約者は馬を下りて、私を降ろしてくれた。
「もう少し上手くできたかもしれないね。婚約破棄って言葉を出したら、乙女みたいに気絶してくれないかなと思ったんだ。皆の眼がいる前で気絶とかしてくれれば、君が裏切っていないと絶対に分かるからね」
「気絶なんてしませんよ。それほど弱くはありません」
父の領地は断崖絶壁が多く、農作物の生産が悪かった。
豊かではなかった。
貧しく、慎ましい生活で強さが鍛えられた。
「これからどうする?」
「もしかしたら敵になる方に何も言えません」
「それもそうか」
婚約者は軽やかに笑った。
婚約者の護衛から殺意が伝わってきた。
婚約者は私に危害を加えないが、周りの護衛からは明らかに殺意があった。
「そもそも長生きできるかどうか」
城から追っ手が誰も来ていなかった。
それがどういうことか――分からなかった。
帝国と候国は敵対関係になった。
父と母がいないので、私が候国の代表だ。
だけど誰も助けに来ていなかった。
「ここは本当に寒いです」
「すまないね」
婚約者は毛皮の首巻を私の首に巻いて、懐から刀を取り出した。
護身用の刀だろう。
「これを持って行って」
刀の価値は分からないけど、随分と高価そうな刀だった。
「はい」
私は懐刀を受け取ると、踵を返した。
しばらく歩いてから振り返ると、婚約者の姿はいなかった。
誰もいない山道で、私は本当の孤独を感じた。