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雨とコーヒーと私

作者: 耀雪メイカ

なかなか悩んでいたのですが、正月にタイトルと内容ふっと思い立ち形にしてみました。ちょっと季節はズレてしまいましたが、私の初挑戦作宜しければ是非。

灰色のアスファルト上に聳える、理路整然とした清閑な街並。

その豊かな色合いを塗り潰すようにして空に暗雲が流れ、突如雨が降りだした。

街ゆく人々は急な雨に驚きながら散り、誰もが雨宿り先を探している。

息を切らせつつ走る私もその一人。


「いけない、このままじゃ本が……」

頬にひと雫落ちた雨粒に焦り、思わず私はそう呟いた。


大学のレポートを作る資料集めの為に赴いた、古書店からの帰り道。

ショルダーバッグの中には資料となる本が複数入っている。

中には苦心して探した貴重な絶版本もあるだけに、濡れる事だけは避けたい。


けれどそんな思いも虚しく、無情にも雨は強くなるばかり。

ボブカットの髪が乱れるのも構わずに、私は一層足を早めた。

駆ける毎に路面を叩くパンプスの甲高い音が、雨音に抗うように鳴り響く。

まるで本を守りたいという願いを代弁するように。


走る度に吐く息は白く、体から徐々に温もりが奪われていく。

季節は秋、この所冷え込みも本格化して来ていた。

加えてロングスカートを主軸とする秋コーデなのも災いし走り辛い。

それでも懸命に走り続ける、雨の憂鬱に沈みゆく気持ちを必死に繋ぎ留めながら。


されど雨粒はより大きくなり本降りを予感させ、容赦なく肌を叩き温もりを奪う。

暗澹となる気持ちを抱きつつ走っていると、暖かい光が窓から漏れる店を見つけた。

それはとても落ち着いた雰囲気の喫茶店。

私はその軒先へと、正に渡りに船という思いで駆け込んだ。


「ふぅ……」

軒先に備わった立派なオーニングの下で、雨宿りしつつ静かに息を整える。

一息吐いてバッグを広げ恐る恐る本を見てみると、幸い一冊も濡れておらず私は深く安堵した。

バッグの口を必死に押さえ、形振り構わず急いだのが功を奏したのだろう。


「良かった、本当に」

本心から出た言葉は、やがて激しくなる雨音にかき消されていく。

いよいよ本降りといった様相で、暫く止みそうな気配は無い。

乾いていた路面は今やすっかり濡れてしまい、風景は徐々に色彩を失い静かに靄に霞む。


今朝の天気予報によると今日は曇り、その為傘を持たずに家を出ていた。

軒先からは降り注ぐ雨露が滝のように流れ、ここから濡れずに動くのは不可能。

最早傘を買いにコンビニに駆け込むのも厳しい。


私はタオルを取り出し軽く服と髪を拭い出す。

思ったよりは濡れてなかったようで、ほっと胸を撫で下ろした。


落ち着いた所で改めて喫茶店の中を窓越しに見ると、お洒落に対する並々ならぬ拘りが一目で分かる。

温かい調光に彩られた白黒モノトーンの清潔な内装、棚に並ぶは趣深いアンティークな小物。


歴史を感じさせる古い看板に相応しい、時代を経てもきっと変わらぬ強い芯を誇るカフェ。

それは見る者を惹きつける強い魅力を湛えていた。


仄かに店から香るは、挽きたてのコーヒーと甘いケーキの良い香り。

正に冷え切って疲れた心と体に良く効く絶好の組み合わせ。

雨上がりを只待つのも退屈だし、何よりこの匂いのハーモニーに大きく心揺さぶられる。


ハイレゾ対応の音質特化スマートフォンを取り出し、時刻を確認すると今は午後2時53分。

折角だしここは気持ちを落ち着かせ、優雅に珈琲と甘味を楽しんで行くのも丁度良いかも知れない。


そう考えた私は、羽織っていたショールから雨露を慣れた所作で払い身嗜みを整える。

更にコンパクトを取り出して化粧崩れを素早くチェック。

ハンカチで優しく肌に触れ汗を拭い、丁寧にメイク直しをして深呼吸。

最後に愛用しているラベンダーの香水を僅かに吹き付ける。


はしたない姿のまま店内に入るのは憚られるという、乙女心からの行動。

これならきっと大丈夫と自分に言い聞かせ、最後にもう一度呼吸を整え私は禁煙マークの付いた店のドアを開けた。


するとドアベルが軽やかな音色で客の来店を告げ、同時に店内の濃厚なコーヒーの香りが飛び込んで来る。

それは極上の珈琲豆だけが発する事が出来る実に見事なもの。


「いらっしゃいませ」

入店早々マスターの落ち着いた声が、爽やかな笑顔と共に私に向けられた。

白シャツに黒エプロン姿の彼はとても若く、私と同世代程に見える。


線が細く優男といった趣の風貌で、サラリとした髪は綺麗で思わず見惚れてしまう程。

けれどこの店同様に強い芯を感じさせる長身の美男子。

その手には拭き掛けのコーヒーカップが握られていて、仕事に手慣れた様子が伺えた。


私は軽く会釈しカウンター席に着座。

立派な木製のテーブルは触り心地が良く、更にテーブル上にはミニ観葉植物も置かれておりとても和む作り。

一息ついて周囲を見ると、予報にない急な雨という事もあってか客は私一人。

初めて入る店だけれど、ここならのんびり過ごせそうという安心感が沸き立つ。


アナログ時計の時を刻む秒針の音が雨音と融和し、まるで時が止まったかのように感じられる空間。

何だか不思議と居心地が良く感じられた。


「ご注文は?」

その言葉と共にマスターがすっとメニューを差し入れる、屈託のない爽やかな笑顔のまま。


「ありがとうございます、そうですね……」

私は感謝の意と共にメニューを受け取り広げると、どれにしようか悩み出す。

所狭しと並んだ写真に映る物はどれも美味しそうで、あれこれ目移りしてしまうからだ。

けれども温かいものと甘いものは外せない。

そう考えた私は、数ある魅力的なメニューの中から思い切って3つ選んで注文する事にした。


「ブラックのコーヒーと、ミントリキュール入りガトーショコラ。それとシフォンケーキ頂けますか?」

「コーヒーのブラックとミントガトーショコラ、シフォンケーキですね。かしこまりました、少々お時間頂く事になりますが宜しいですか?」

「ええ、大丈夫です」

彼は私の注文を受けてきぱきと動き出す。

まずはオーブンに点火し、次いで業務用冷蔵庫を素早く開く。

その中から作り置きの生地と材料の入ったボウルを複数取り出し、冷気が漏れ出す前に迅速に閉めた。


更に硝子のコーヒーサイフォンを出して、挽いた珈琲豆と水を入れてアルコールランプを点火。

灯ったランプを見守りながら彼は冷蔵庫から取り出したボウルの生地に、同じく取り出した材料を適宜混ぜ込む。

素人目に見ても彼の手際と技量の高さは賞賛に値するものだった。


流れるように調理作業を捌いて行く様は、まるで魔法のよう。

そんな彼の姿を見ていたら、ふと遠い昔に読んだ絵本の話を微かに思い出してしまって懐かしさが込み上げる。

とても好きだった絵本、けれど今はもうその行方が分からなくなってしまっていた。


感傷に浸っている間に調理工程は最終段階に入ったようで、清涼なミントの香りと柑橘類の香りが甘く漂う。

仕上がった生地を手早く型に流し込み、温まったオーブンへ。


オーブンのタイマーをセットして、彼は静かに沸騰するサイフォンからコーヒーを取り出す。

そして白いコーヒーカップに波々と注いで、笑顔と共に私の元へ差し出した。

黒い水面から立ち上る湯気が、上質な香りと共に私の顔を撫でていく。


「お待たせしました、先にコーヒーを」

「有難うございます、頂きますね」

私も感謝と共に笑顔でそう答え、軽く息を吹きかけつつ早速一口。

すると極上の風味と共に、瞬く間に熱気が五臓六腑に染み渡り体を芯から暖める。


冷えて疲れた体に芳醇な香りと共に浸透するコーヒーはやっぱり格別。

濃厚でコク深い風味がとっても美味しい、日頃家で飲んでいる物とは別次元の味に満足感を覚えた。


「凄く温まります、本当に素敵なコーヒーですね」

「光栄です」

本心から出た感謝の言葉に、マスターはそう言って照れながら答える。

私はもう一口付けて体をゆっくり温めていく、深く心身を癒やしながら。

猫舌にも関わらずこんなに熱いコーヒーが進むのは、生まれて初めての経験だった。


コーヒーカップに付いた口紅が美味を堪能した余韻を残す中、満足感と共に吐き出す溜息。

それにもう先程の冷たさは欠片も無い。

日々を追われるように生きて擦り切れてる私にとって、何だか今はとても贅沢な一時に感じられる。

そんな思いを抱いているのを見透かされてか、マスターがおずおずと声をかけて来た。


「……本当に素晴らしい美貌をお持ちなのに表情が曇っては実に勿体無い、何かお悩み事でも? 焼き上がりまでもう少しかかりますし、良かったらお聞きしますよ」

「まぁ、そんな……」

突然の世辞に驚き、私は頬を染めながらポツポツと語り出す。


「私、憧れの学部のある大学にかなり背伸びして入ったんです。初めは嬉しかったのですが、講義のレベルが高くて次第に追いつくだけでも精一杯で……」

切々と語る私の言葉を、マスターは真摯に聞いている。


「遅れを取り戻す為に頑張ってはいるのですが、なかなか。焦るばかりでは空回りするって痛い程良く分かっているので、落ち着くようにもしてるのですがどうしても上手く行かなくって」

普段なら躊躇う筈なのにこうも素直になれるのは、きっとこの空間の暖かさのお陰。

私は切迫しつつある現状と苦悩、何より心身を駆り立てる焦りをどうにか言語化して語る。

これは日頃自分の内に溜め込んでいて、人に話すのは初めての事。


「なるほど、その気持ち凄く解ります……俺も体験してますから。この店って祖父の店なんですけど、ホントに味に煩くって俺の自信作メニューに載せるの認めて貰うまでに大分掛かりました」

「あ、このお店はお祖父様の店なんですね」

「そうなんです、今も現役で。因みにご注文頂いたガトーショコラが俺の自信作なんですよ、気が遠くなる程試行錯誤を繰り返して本当に苦労の連続でした。実は今日メニューに載せたばかりで貴女が初のオーダーなんです」

「何だか不思議な縁感じますね、完成がとっても楽しみです」

彼の発する共感の言葉にはその節々から苦労が滲むもの、けれどそれでも前向きな姿が私にはとても眩しい。

そして弾む会話からこの店の由来や、マスターの秘める確かな情熱を知った。

もっと知りたいと思った私は、知的欲求に駆られるままに会話を続ける。


苦労話とか、その苦労を乗り越えていった話。

それからとりとめのない話とかを、私達はまるで海辺の漣のように繰り返した。


ごくごくありふれた何処にでもある話でも、マスターが語ると不思議と面白く感じられる。

何より会話の中に私を励ます気持ちと言葉をさり気なく入れてくれて、その心遣いが何より嬉しい。

マスターと会話を交わす度にこの心が軽く、そして暖かくなる。


やがてオーブンのタイマーが時間となり、彼はオーブンへと向かった。

そして無事焼き上がったケーキを取り出して、粗熱を取り冷ましつつ最後の仕上げをしていく。


「はい、ミントガトーショコラとシフォンケーキ完成です。どうぞご遠慮無く」

「凄く美味しそうです、早速頂きますね」

マスターが皿に盛りつけて差し出したガトーショコラとシフォンケーキ。

香りも良くミントの葉や薄切り蜜柑等飾り付けも申し分ない、何れも見事で目を瞠る程素晴らしい仕上がり。

私はフォークを手に、早速初オーダーというガトーショコラを一口頂く。


その瞬間口に広がるのは、ミントの清涼感と甘いチョコレートの絶妙なハーモニー。

元よりチョコミントを好む私にとって、正に最高の組み合わせ。

しっとりとしていて、それでいて決して甘過ぎない極めて優れたバランスが映える。

私が今までの人生で食べて来たガトーショコラの中で、一番だと断言出来る会心の出来。

マスターの自信作は、幾多の苦労に洗練されて今確かな輝きを放っていた。


「見目麗しくて、香りも良くて。何より美味しいです、私が今まで食べて来たどのガトーショコラよりも」

「お口に合ったようで本当に良かった、そして最初の感想そう言って貰えて凄く光栄です」

忌憚無き私の心からの賛辞に、マスターはそう答えて満面の笑みを零す。

見ている私まで思わずつられて笑顔になってしまう程に。


余りの美味しさに瞬く間に完食したガトーショコラ、続いて私はシフォンケーキに手を付ける。

こちらは打って変わって柔らかな風味と、隠し味の蜜柑特有の優しい甘さが融和した素晴らしい味。

柔らかさと甘さがそっと舌を包み込む感覚は、未だ経験した事が無い程絶妙。

二口三口とフォークが進み、あっという間に完食してしまう。


マスターの話によると、このシフォンケーキは祖父の作との事。

私はシフォンケーキとコーヒーの賛辞を改めて贈ると、彼は照れつつ喜んでくれた。


そうこうして盛り上がった会話が不意に途絶え、マスターと私はふと喫茶店のウィンドウを眺める。

外は未だに雨、ウィンドウに付いた水滴の数がその降雨量を物語っていた。


「ちょっとラジオ聴いてみましょうか、流石にもうそろそろ上がるだろうし」

そう言うと彼は見慣れぬアンティーク木箱の摘みを弄りだす。

するとそれはオレンジの光を灯し、数拍置いてノイズ混じりの音を出して思わず私は驚いてしまう。


「……ラジオ!?」

「珍しいでしょう? これ、真空管ラジオっていうんですよ。祖父がデジタル機器苦手でアナログ機械マニアだから、店にあるの全部骨董品級のアナログ機械ばかりなんです。今日の天気は……っと」

ついつい出してしまった驚きの声に、彼はそう説明した。

真空管ラジオと呼ばれた機械は、ノイズの後に暖かく明瞭な音声放送を流し出す。


ラジオ番組のアナウンサーが述べる所によると、本日午後の天気は雨のち晴れ。

降りは激しかったもののこれはごく一時的なもので、もう直に雨は上がるとのこと。


「雨上がるんですね、傘持って来てないので安心しました。それにしても真空管ラジオ聴いたの初めてです、凄く優しい音で驚きました。私いつもテレビやネットとかメインで、デジタル機器に囲まれて暮らしてて」

安堵と共に私は思ったままの気持ちを伝える。

生来デジタル機器に囲まれて育った生粋のデジタルネイティヴ、そんな私にとってこのアナログ機器という物は余りにも衝撃的だった。


「今時珍しいですから、これは。そうだ、珍しいついでに……」

マスターはふと何かを思い立ち、そう言いながら木棚から鮮やかなデザインの紙ジャケットを取り出す。

ジャケットの中から半透明の袋と共に出て来たのは、艷やかで不思議な黒い円盤。

彼は更に幾つもの機械のスイッチを入れ、稼働した機器の計器類に力強い明かりが灯っていく。


「これは確かレコード盤でしたっけ、以前教科書で見た事があります」

「当たりです、実は最近これがちょっとしたブームになってて。綺麗な音鳴りますし、凄く良いんですよ」

彼はそう言うとレコード盤をレコードプレイヤーのテーブルに置いてスイッチを入れた。

そして回る盤面へと、レコード針付きアームをゆっくりと落とす。

するとパチパチという微かなノイズの後に、驚く程透き通った音色と潤い湛える柔らかな歌声が店内に鳴り響く。

それは雨の憂鬱をも優しく拭い去る、とても清らかで綺麗な歌。


「とても不思議な感じ、例えるならばメロンソーダみたいな音ですね。……ってごめんなさい、私ったらうっかり」

聴き惚れる余り、つい思った事をペラペラと喋ってしまった私は恥じらう仕草と共に詫びを入れる。

唐突に例えとして飲み物の名を出したのも、余りに突拍子もなくて何だか恥ずかしい。


「いやいやお気になさらず、確かにそんな感じですよね。最初にちょっと泡みたいにノイズが弾けて、その後は甘美な音色が響く辺りがそっくりで」

それを聞いたマスターは、朗らかに笑いながら答えた。

何だかフォローして貰った感じで気恥ずかしさは残るものの、それでも意図が上手く伝わって嬉しい。


私達はレコード盤について語り出す、美しい音色を贅沢なBGMにしながら。

その会話の過程で、マスターが他の盤面を色々紹介してくれた。


棚に無数に飾られているジャケットはお洒落なR&Bだけではなくて、ドラムンベースやダブステップ・トランスにユーロビートの名盤。

海外アーティストの名曲や有名なクラシック、更にモノクロジャケットで大昔の歌謡曲と思われる物や名演奏者による独奏まで多種多彩。

一方でつい最近のドラマ主題歌や近年ヒットを飛ばし有名なアニメ映画の伴奏曲にゲーム音楽等、かなり新しい楽曲のレコードもあって改めて驚く。


何でも祖父だけでなくマスター自らもレコード盤集めが趣味で、流行りの新譜は大体彼の物だそう。

最近はレコードやカセットテープ等、アナログ時代の媒体がブームになっていて意外と新曲が出る場合があるとか。

弾む会話のままに、私にとってワクワクする話題を厳選して彼は色々語ってくれた。


店内に響かせるスピーカーを駆動するアンプにも真空管が使われていて、いい音だけどオーディオ用の真空管は手入れや交換が大変だとも。

更にアナログ機器に興味津々な私に、彼は不思議な物を出す。


「今となってはこれもかなり珍しいかも、何に使うか分かります?」

「んー……見た事ない形ですけれど、まさか電話機ですか?」

マスターが出したのは、可愛い三毛猫シールが貼られた重しのようなもの。

見るからに年季が入ってそうだけれど、艷やかな黒いボディはとても綺麗。

黒いカールしたコードが生えてる受話器らしき物と、数字の入った盤面があった為私は電話と見て回答した。


「正解、もう近所じゃ使ってるのうちだけなんですよこれ。50年前の物が今も現役なんです」

「本当に驚きました、タッチパネルやボタンが無くても繋がるんですね」

彼が出したのは、黒電話と呼ばれる古い電話機で今も尚現役。

しかも今までただの一度も壊れた事がないという。

マスターが受話器を取ってダイヤルを回すと、ジーという軽快な音が鳴る。

通話のみに特化して、質実剛健な電話機。

現代のデジタル複合機能機しか知らない私にとって、それは凄く新鮮に感じられる機械だった。


盛り上がる会話の背景には、艷やかで潤いを持った音色。

それは普段聴いてる便利なデジタル音源とはまた違う趣を持つもの。

私は便利なデジタル機械をこよなく愛し、趣味としてる身。

しかし不便だけれど、何処か暖かさを感じられるアナログ機器も良いなと強い憧れを抱く。


盛り上がっている内に、雨は上がり外が徐々に明るくなってくる。

そろそろ時間と思い席を立ち会計を済ませた私に、マスターは庭先を指して笑顔でこう言った。


「良かったらうちのテラス見て行きませんか? きっと今なら丁度見える筈です、今の貴女にとって大切なものが」

「大切なもの?」

彼の言う通りに、私は店のウッドデッキテラスへと出た。


すると眼前にまず広がるのは、暗雲裂いて射す光。

そしてその暖かな光が、触れるものの輪郭をなぞる度に瑞々しい色合いを発現させていく。

例えれば色を失った街並を徐々に優しく彩っていく光景。

まるで世界が再誕するかのような神秘的景色に、私は思わず言葉を失う。


喫茶店の庭には豊かな緑と木々があって、小鳥達は囀り蝶が舞い踊る。

一陣のそよ風が吹けば、咲き誇る花の香りと共に私の髪を優しく撫で梳かす。

気がつけば私の頬に一筋の涙が走っていた。


更に眼前に大きく広がる池は、空模様をまるで鏡のように映し出し見事青一色。

純粋な青色にハッとして私は大空を久しぶりに見上げる。


そこに広がるのは、暗雲が去り果てしなく透き通った穢れ無き青空。

それはただ見ているだけで心を何処までも遠くへと誘う。

かつて言葉さえ知らなかった遥か遠いあの日に見て、憧れていた空の姿そのものだった。


日頃意識する事さえ忘れていた、大自然の圧倒的な美しさ。

壮大な光景を目の当たりにし、この身と心で向き合う事。

それは途方もなく広大なこの世界で、等身大で有りの侭の私を感じられる瞬間との出会い。


きっと無意識に私が渇望していたものが、こうして眼前に広がっている。

涙は止めどなく流れ、けれど不思議と温かい。

これは物心つく頃にきっと誰もが抱いていた感情。

長らく忘れていたそれが再び芽吹き、私の疲弊した心を満たしていくからもう迷いは無い。


「この世界にはなかなか上手く行かない事とか、どうにもならない不条理や理不尽に溢れてます。けれどそれさえも包み込むこの世界の美しさと包容力を、決して忘れないでいて欲しいんです」

そう言ってマスターは私の隣に並び立つ、爽やかな笑顔のままに。


「貴女を応援している人間は確かにここに居ます、信じて真っ直ぐ進めばきっと大丈夫」

彼からの真心の篭ったエールを受けて、私は涙をそのままに向き直る。

ありったけの気持ちを伝える為に。


「本当に有難うございます、今日このお店とマスターに巡り会えた事は欠して忘れません。マスターから頂いたエールと勇気で、私が信じた道を直向きに進んでみせます」

飾り気の無い本心からの感謝の言葉。

そして私はマスターへ手を差し伸べる、迷い無き笑顔と共に。


「また来ます、その時は友達と一緒に」

その言葉を聞いたマスターは笑顔のままに頷いて、固く握手を交わす。

心から清々しい気持ちと共に。

久々に誰かと結んだ約束、必ず成就させると私は固く心に誓った。



喫茶店からの帰り道、秋の爽やかな風が私の背中と気持ちを大いに後押しする。

大切なものを取り戻した充足感と共に。

見上げた空の色は徐々に温かい夕暮れ色に染まって来ていた。

その色合いを愛でながら私は進む、水たまりを避けつつ意気揚々と。

マスターとの約束を果たし、望みをこの手で叶える為に。


今まで思えば登場人物は居るのに名前が無い、けど成立している物語を書いた事ないなと思い立ち秋と雨をテーマとしたしっとりとした話書いてみました。またSF・ファンタジー要素無しで純粋な現代物で、昨今のレコードブームと絡めて初挑戦。私自身デジタルネイティヴなのでアナログ機器に対する憧れが強く、その気持ちも籠めての一作。魅力が上手く伝われば幸いです。春夏秋と来ましたし、次は冬の夜で何か書けたらなと漠然と考えています。

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