第四十三話『Hydrangea-無情の果て』(4)-4
水が、流れる音がしていた。
あの渓流に来たのかと、思うだけだ。
何故急に来たのかは分からない。
だが、呼ばれた気がした。だからいるのだと、なんとなく思うだけだ。
相変わらず、村正が片手で釣りをしている風景にも、もう慣れた。
「あれが、ハイドラ兄だったんだな」
「てめぇも、ある程度は予測出来たんだろうが」
「まぁ、お前と同じ気分だったよ。あそこまで似すぎな人間なんざいやしないし、ハイドラ兄が人間でないことは、俺と父上は知っていたからな」
釣り竿を、村正が上げた。少し、大きな魚が捕れている。
よし、とだけ言ってから、横に置いてあったクーラーボックスに、魚を入れた後、立ち上がってゼロの方を向いた。
「お前、まだ迷ってるのか、あの実験の話」
「てめぇは、いいのか?」
「いいも何も無い。俺は、既に死んでいる人間だ。その魂の残滓が、お前の中に居座っているだけに過ぎない。俺は、レヴィナスで固められた、半端な魂でしかないからな。だが、俺自身が、お前の新しい力の糊になれるなら、それはそれで悪くない」
あっさりと言い切った。
刃らしい、いや、村正らしいと、心底思えるほどに、あっさりとしていた。
「結局、てめぇに助けられた。そんな気しかしねぇ」
「だが、仲間なら、家族なら、助け合う物だ。そう、俺は父上から学んだよ。お前は、この半年で孤独を感じすぎた。そして、孤独に、耐えられなくなっている。今のお前は傭兵時代のように、一人で気ままにやっていけるような精神状態じゃないと、俺が分かっていないとでも思ったか?」
肩を落として、苦笑した。
寂しさ、というものがこれだったのだろう。それを死人から教わるのは、皮肉と言えた。
「俺の中を、読んだのか?」
「俺とお前は今一心同体だ。全て分かる。だが、お前の中にある気持ちだけは、変わらないだろ。諦めない、ってことだけは」
「だな。俺は、全てに諦めたくはねぇ」
「なら、俺を使えや。死人は死人らしく眠らせてくれ。そして、俺を刃にしろ、いいな。ついでに、俺の紫電も、知ってると思うがくれてやる。だから使え。より強い力を得るために、な」
「分かったよ、クソ兄貴」
また、苦笑してから、ゆっくりと、目が覚めていく。
もう一回だけ、会う機会がある。
レヴィナスの融合時。これが、本当に最後に会う機会なのだと、ゼロの魂が告げていた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
風が、吹いている。
周囲は既に破壊された跡だ。
残った人員はごく少数。そして、自分は生き残ってしまった。
マークは、呆然としながら朝焼けになる空を見ていた。
「もう、二人ともいねぇんだよな」
一度、煙草を吸う。
モルも、ラフィも、もういない。
いたのは、モルの姿をした、化け物だけ。
無理矢理、そう言い聞かせ続けている。
更に、格納庫にあった竜王まで、突然姿を消した。
生き残った目撃者によれば、強奪されたのではなく、コクピットが空いたまま、徐々に身体が変貌していったという。
ラインの叫びにも似たような声が、その時にこだましたと言うが、ただの幻聴だと思いたかった。
そして変貌したそれは、モルが消えるのとほぼ同時に、姿を消したそうだ。
何が現実で、何処までが夢なのか、もう分からなくなってしまっている。
現実を受け入れろと、あの時モルは言った。
血涙を流しながら、そう言ったのだ。
ため息を吐くと、横で寝ていたゼロが起きた。
赤い眼が、自分と同じ色の眼が、すぅと開いた。
殺気は感じられない。だが、聞いてみようと、心底思わせる、不思議な眼をしていると、マークは今になって思う。
「ゼロ、俺は、怖くて聞けなかった。お前の世界は、どうなってるんだ。アイオーンは、いるのか?」
ゼロは一つ、頷くだけだ。
「ついでに言う。アイオーンになった、てめぇとも戦った。そして、俺が殺した。だが、てめぇはあの時俺の記憶を失っていた。俺の名前を聞いても、反応すらしなかった」
「つまり、アイオーンになったら、記憶は抜ける、ってことか。モルも、そうなのか」
「知らねぇよ。だが、あいつがおめぇの記憶を忘れたとは、全く思えねぇ。そうでなけりゃ、救いがねぇ」
救いなど、この世にない。
それだけは、この戦闘で十分に分かった。
そして、自分がアイオーンになることも、よく分かった。
人間の欲望、憎悪、その他ありとあらゆる負の感情が集まった果てに出来るのが、アイオーンなのだろう。
だとすれば、モルはラフィを殺されたことで、アイオーンになった。いや、アイオーンの力を手に入れた。
だとすれば、あいつはまだ、人間的な要素を残しているかも知れない。
それを確かめることは、ゼロに託すしかないのだろう。
「ゼロ、あの実験、受けるのか」
「可能性があるなら、俺はそれに賭ける。いや、それしか手が、ねぇんだろうが」
マークは一つだけ、頷いた。
「魂は、あるのか? あれは、別の魂を使う必要があるが」
「あるんだよ、それが。俺には、兄貴の魂がある。元々イーグだった兄貴の魂が、俺の中に今残ってンだ。だから、そいつを使うしかねぇ。兄貴の方は、あっさりと了解した。それに、ついでに言うなら、半壊情態だが紫電のレヴィナスもある。これも使えば、なおのこと強い力が発生出来る、そんな気がする」
「お前の兄貴も、お前に似ているな」
「あ?」
「決めるのが早い。そういう風に、さっぱり決められるのが、正直、俺は羨ましい」
朝日が昇った。嫌な朝日だと、これほど思ったことはなかった。
旧ニューヨークで実験を行うと決めたのは、その日のうちだった。その三日後には、準備が出来た。半径一キロ、何も入れていない。
自分もまた、遠くからモニター越しにゼロを見るだけだ。
体のいい厄介払いと、人体実験。
あれだけやってくれた人間を、策士を、こんな形で追い出すことは、正直不服だが、上がそう判断してしまった。自分には、今の自分には、それに逆らう気力すら起きなかった。
それに、アイオーンの戦には、あの男の力が必要だ。
千年後もアイオーンがいるなら、それを託すのもまた、今いる自分達の仕事だ。そうやって、マークは割り切った。
ゼロが、瞳を閉じる。同時に、紅神のレヴィナスと、羅針のRL、紫電のレヴィナスが混じり合い、周囲に雷を迸らせる。
ゼロは集中し続けているのか、額には汗も出てこない。
光が迸ったのは、そのすぐ後だ。
ゼロを中心に、いや、混じり合ったレヴィナス達を中心にして、その光が広がり、どんんどん大きくなっていく。
「じゃあな」
ただ、その声が響いた後、急に光が消えた。
ゼロは、既に消えていた。跡形も、残っていない。
きっと、元の時代に戻ったのだ。
そう、思わない限り、やってられなかった。
空を見る。
雨が、降ってきた。
その雨に少し濡れよう。そうすりゃ、涙も分からねぇ。
力なく、笑った。
上海戦線への異動が決まったのは、それから三日後のことだった。今回の事件の隠蔽工作の一貫であることは、想像に難くなかった。ただでさえ不信感を募らせているこの多国籍軍だ。こんなことが公表されようものなら、対アイオーンではなく、また血みどろの人間同士の争いが起こる。
それは、アイオーンとの戦にも、負けると言う事だった。
だから今回は『北米大陸防衛戦』として処理され、アフマド、ライン、モルは戦死扱いされた。
同時に、モルにもう一つの名が付けられた。
エビル。たった一人で何十人も殺したため、そういうコードネームが裏で付けられた。
その二年後、竜王によく似た姿をした、それでいて五十mを超えるアイオーンがヨハネを名乗り国連軍北米基地を急襲、灰燼にした。
そして、二二七五年。
ラグナロク発生。
上海戦線にいたマーク・ガストークは、この時、命を落とした。享年三五歳。