第三十五話『No Escape』(2)
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AD三二七五年七月二二日午後一〇時一五分
情報は、逐次流れてきた。
ベクトーアとフェンリルが本格的な武力衝突を始めて、そろそろ二四時間を越える。
夜戦を仕掛けるという愚は、流石にベクトーアもやらなかった。相手がいくら減ったと言え二万八千機もいるのだ。
それに突っ込むのは愚か以外でも何者でもないことは、かつて戦場にいたザウアーは身を持って知っている。
かつてそれが原因で壊滅した友軍を、何度も見たからだ。
何年も前、まだ自分達が若かった頃、スパーテイン達は止めたのに、無謀にも大量の敵がいる所に夜戦に行って、そのまま帰ってこなかった上官がいたのを、今になって思い出す。
暫く膠着するだろう。だが、どうもこの戦の目的が掴めない。
それに、あのハイドラが何処に行ったのか、それも分からない。
ハイドラもフレイアも、それぞれに何か別の目的がある。しかも、それはフェンリルという国のためではない、利己的な何かだ。
何故か、ザウアーにはそう思えた。
江淋が来たと知らせが入ったのは、そう考えた後に、テーブルに置かれていた茶を飲み干した直後だった。
入ってきた江淋の顔に、少し汗が出ていた。
それに、皺に隠れている目の奥底に、少し、驚愕の表情が覗き出ている。
珍しいと、ザウアーには思えた。
「江淋、何か、新しい動きがあったか?」
「会長、かつて、私に依頼されました血のローレシアとコンダクターの件、覚えておりますかな?」
そういえば、一ヶ月ほど前にそういうことを出していた。
今はそれほど必要な情報とも思えなかったが、江淋がそんなことでわざわざ直接来るとは思えない。
何かつかんだのだろうと思った直後、江淋が茶封筒を渡した。
「会長、例の先天性コンダクターの名前、知っておりましょう」
「ルナ・ホーヒュニング、だったか。血のローレシアの生き残り、だったな。今はフレーズヴェルグと名乗る、ルーン・ブレイドの若き長、それに、やたらスパルが成長を楽しみにしていたな」
「その者なのですが、一つ、奇妙な点がありました。私の子飼いの情報屋から仕入れた話で、まだ裏取りも出来てはおりませぬが、何か、引っかかるのです」
茶封筒の中身を見てみろと、暗に江淋が言っていたので開けると、診断記録が入っていた。
一番上には、ルナ・ラナフィスと書かれている。まだホーヒュニング家に養子に入る前の診断記録だ。
日付も、今から二十年前のものだった。
本人の出生記録である。
なんでこんなものがと思って見てみると、なるほど、江淋が疑問を抱くはずだと、唸らざるを得なくなった。
出産時に、母親が死んでいる。今は数が減っているとはいえ、これはごくたまにある出来事だ。
だが、その事項の下に、ただ一文、『本来胎児は肉塊同然で死んでいるはずなのに、何故再生したのか分からない』という、奇妙な文言があった。
「どういうことだ?」
「肉塊同然の状態であった赤子が、生まれる直前で生き返ったという話がありました。人体ではおおよそ不可能な話です」
「まさか、それが先天性コンダクターの誕生に関わっていると?」
「可能性は、十分にあるかと。これ自体、相当ラナフィス元外務長官が口止めなさっていたようですが」
なるほど、確かにこれは何かきなくさい。
だが、口止めしたくなる理由も分からなくはない。自分がディールだったとしても、恐らく同じ行動に出るだろう。
「やはりあの外務長官も、人の親か」
「今思えば、敵ながら惜しい男でした。人の親ではありましたが、それでも一歩も譲らぬ剛胆さもありました。今思いますと、あの者は外交という戦場で戦う、ある種の武人だったのでしょう」
「俺は、結局会うことはなかったな。生きていれば、今頃この戦も、ここまでぐたぐたにはならなかったか」
「ワシもそう思います。あの者が生きておれば、或いは」
江淋が、少し遠くを見る。
確かに、考えてもみれば、上手く行きかけていた和平交渉も、ディールが死んだことで瓦解した。
そしてフェンリルがその後出てきた。
これ自体、なんとなく前から考えていたが、何か一本の線で繋がっている気がする。
フェンリルが何か関わっているのではないか。ずっと、その疑念だけは抱き続けていた。
しかし、調査に送っても、まるで結果が帰ってこなかった。
奥に行けば行くほど、深い闇がある魔窟。フェンリルはそういう組織だと、ザウアーには思えた。
一度、フェンリルと共同戦線を張ってベクトーアを潰すという考えが出たこともあった。
だが、飲み込まれる。一度会っただけだったが、フレイアというあのフェンリルの会長には、そういう印象しか持てなかった。
おおよそ人間らしくない。こいつに関わるべきではないと、直感が告げた。それに従ったのは正しかったと、今でもザウアーは思っている。
フェンリルに、もう少し探りを入れるべきであろう。だがそれは、今のベクトーアの戦が終わってからでも遅くはない。
それより、今はこれだ。
泰阿。かつて、楚王が持ったとされる、伝説の剣と同じ名前のコードネームを授かった、夜叉第二の剣。
今はスパーテインが、極秘裏に工廠で作成に取りかかっていると言うが、出来るまでどれ程掛かるかは分からない。
あの男の頑固さ加減は、身に染みてよく分かっている。二日経った今でも、殴られた頬が痛むくらいだ。
だが、出来ればベクトーアとフェンリルとの戦が終わるより前に、作り終えて欲しい。
そうでなければ、何か、まずいことが起きる。そう、勘が囁くのだ。
どちらにせよ、こちらもフェンリルに出兵して痛手を被り、ベクトーアに派兵することも厳しいこの状況は、逆にこちらの方も戦力や内政を整えるにはいい機会だろう。
それに、自分を見つめ直すという意味でも、いい機会なのかも知れない。
俺は、まだ青いな。
頬が痛むと、そう思った。




