第三十三話『ゴールデンタイムラバー』(1)-1
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AD三二七五年七月二一日午後六時三分
汗が、止まらなくなった。
広域レーダーにも敵の反応しかない。味方の反応を示す青いドットはレーダー上には僅かにしか覗かず、それ以外を一面が敵の表示である赤いドットが埋め尽くしている。
最初は敵からのクラッキングかと思ったが、人工衛星でも大量のスコーピオンがいることを捉えたので、事実なのだとすぐ分かった。
やはり、ロキは前から上層部の連中が睨んでいた通り、フェンリルの秘密基地だったらしい。
ざっと確認出来ただけでも、スコーピオン三万機。今ベクトーアにいる全M.W.S.を導入しても、一機に付き最低でも二機以上破壊しない限り物量と言う名の暴力によって蹂躙される。
ただし、それはあくまで全部隊を投入出来て初めて成立する。国境付近の防衛線を全て破棄することなど出来る訳がない。
今投入出来る全戦力を考慮すると、戦力比はざっと見積もって一対八。
普通五倍の戦力があれば、だいたいの制圧戦は完了する。それを考えると、シャレにならない戦力比と言えた。
防衛戦の経験は何度かあるが、それにしたって、ここまできついのはなかったと、今になってザックスは思う。
「これが、フェンリルの切り札かよ」
唇を、ぎゅっと結んでいた。恐らくこのつぶやきも、今この施設の中で飛び交うオペレーターの怒号の中では、まったく聞こえなかったであろう。
ここから先は、寸分のミスがあれば一気に壊滅する。
フェンリルがろくな航空戦力を持っていないことだけが唯一の幸いだ。前に報告に上がっていたハイドラの部隊が使っていたという青い空飛ぶスコーピオンも確認されていない。
だが、それを第二陣に持って来る可能性も否定はできない。
想定されていた部隊の数倍をフェンリルは一気に出してきたのだ。フェンリルの国力から考えてもこれ以上はないと信じたいが、そんな物こちらの希望に過ぎない。
戦場では何が起きるか分からないのは、もう何回も学んだ。死んだ連中が、仲間が、そう教えてくれた。
『絶対』などという甘い言葉は、戦場のどこにも存在しない。
だがそれでも、こちらが負けることだけは、絶対に許されはしないのだ。
『ザックス少佐、何の冗談だ。この、三万機という数は』
ハインツからの通信だった。携帯端末のディスプレイに、ハインツの曇った表情が浮かび上がる。
「俺もこれがただの虚報であればと、何度も思いました。しかし、そちらでも確認したでしょうが、人工衛星からの光学カメラでも、間違いなく三万機以上のスコーピオンが、こちらに向かってきています」
『しかし、これだけの物資、どこから用意したのだ、フェンリルは?』
「情報分析は後の方が良いのでは?」
『いや、どうもその点なら気に掛かることがある』
ガーフィが、通信に割り込んできた。モニターが半分に別れ、ガーフィのまた渋い顔が表示されている。
上の方も相当焦っているのだろうと、それだけで分かった。今頃この二人もまた、策を考えているのだろう。
「というと?」
『昨日の話だが、ラングリッサからの撤退途上で、フェンリルと華狼が戦闘したのは知っているな』
「はい。確か、それで華狼の狭霧が変貌してフェンリルに降ったとか」
『その戦闘の最中なんだが、フェンリルが用意したスコーピオンが、突如アイオーンに変形したという情報も入っている』
心臓が、一つ跳ね上がる音が聞こえた。
あの三万機のスコーピオンが、実体を持っているのはごく一部で、実際にはアイオーンだとすれば、対応を間違えれば、こちらが負ける。
「つまり、場合によっては、これが全て偽装したアイオーンだと?」
『その可能性もある。奴らが対岸に到着するまで三時間だ。その間に作戦を練るぞ。航空戦力は出来る限りこいつらの足止めを頼む。それで少しでも時間を延ばしたい』
航空戦力には、自分の教え子が何人かいる。アッシュ以外にも、何人もだ。
そいつらに死ねと命じるのは、正直辛い。
「死ねと、命じるしかない、ですか」
『いや、出来る限りでいい。今ここで航空戦力をあまり失いたくない』
「なんとか、やってみせます」
『頼む。なんとかこちらの方でも、策はないか検討する。情報は出来るだけリアルタイムでそちらに伝えるようにしよう』
そうなってくればこちらの腕の見せ所だ。後は撤退のタイミングを計ればいい。
いつやるか。そのことを、何度も頭で計算したが、悉く教え子の連中は死んでいく計算しか出来なかった。
一つだけ、ため息を吐く。汗が出ていることを、今になって気付いた。ぬるい汗が、頬を伝う。
『ザックス、気負いすぎるなよ。お前一人で戦っているわけではないのだぞ。そのことだけは忘れるな』
ガーフィの声で、ようやく周辺の声が聞こえるようになった。
オペレーターの喧噪。今飛び出している空戦部隊の連中に指示を送り続ける、オペレーターの声。そして、それに対して応える、熱気に溢れたパイロットの声が、ザックスの耳に届いてきた。
なんだか、ずっと忘れていたような、そんな気がする。
空戦部隊を生かすも殺すも、自分次第であることは間違いない。自分だけでは殺してしまうかもしれないが、ここには選りすぐりのオペレーターや作戦参謀が二百人近くいるのだ。
そいつらの力も結集して、意地でも救い出す。それが俺なりの戦い方だ。
そう思い、一度両頬を叩いて気合いを入れた。
「恩に着ます。ガーフィ准将」
『吹っ切れたならそれでいい』
それで、通信は切れた。
端末を横に控えていた部下に渡した後、状況を再度見る。
いくつかやられた機体はあるが、まだ大打撃を受けたと言うほどではない。だが、全軍の弾薬及び推進剤はかなり減ってきている。
「後どのくらい敵を減らせると思う?」
「正直申しますと、後全軍で百もつぶせれば上等です」
横にいた副官が、抑揚のない声で答えた。
空戦型機最大の弱点は、陸戦が主体となっている本来のM.W.S.とは違い、推進剤にも相当神経を尖らせなければならないことだ。
戦闘機にはなかった汎用性を手に入れた一方で、軒並み歩行など一切考えていない形にしてしまった、ある種の実験体として空戦型機は生まれた。
他の国ではコスト難や操縦のしづらさであまり研究が熱心に行われなかったが、この国はやたらこれに執着した。
研究費用は莫大な金額を消耗したが、結果としてこれが自分達の軍勢の強みになった一方、推進剤を莫大に消費するという、この国の国民が持つ浪費癖を物の見事に反映したような弱点まで付いてきた。
そして確かに、軒並み機体の推進剤は減っている。周辺で待機させている輸送機や、すぐに回収出来る空中戦艦などに辿り着くまでの量を鑑みても、確かに全部の施設で百機破壊出来れば上等だ。
「よし、後二分だけ暴れさせろ。それが終わり次第、順次退却を始めさせる。デッドウェイトになる不要な武装は投棄して構わん。出来る限り早くに母艦に辿り着かせるよう指示を出せ」
後は時間との勝負だ。
まだ緒戦だというのに、ぬるい汗がドッと出ている。それは、見るとオペレーター達も同じだった。怒号が飛ぶ度に、汗が空間を舞っている。
拭っている暇なんかあるか。そう思い、モニターをまたじっと見る。
それで、何かが見えるはずだ。そう自分に言い聞かせた。




