第三十一話『Chain reaction』(4)
4
AD三二七五年七月二一日午前一二時二一分
生地は、少し太めに切るようにした。太麺にした後、少し冷やした物を、めんつゆと一緒にして食べる。
そのメニューの反応はそこまで悪い物ではなかったが、わさびの分量をもう少し調整するといいぞと、事務職員から言われた。
割とフィリム第二駐屯地は、グルメな連中が多いらしいと言うのが、イントレッセがこの三週間で抱いた感想だった。
ここに出店しているうどん屋である『附鵜痲唖』の親方の元に養子として預けられ、片手間に化学部第六課のアイオーン研究に協力するということを、既に三週間近くにわたって繰り広げている。
ルナにレムというコンダクター二人組がいないのは至極退屈だったが、不思議と、このうどんやそばをこねるという動作が、楽しくなっている自分がいたのは、イントレッセには新鮮な驚きだった。
生きて千年近くになる。その間、よく好んで食事処をバイト先に選んだ。人間を観察するのが趣味だったから、人間の状態を一番よく見ることが出来る場所を見いだしたかった。そこが食事処だと、何となく思い、頻繁に飯を作った。
それに、自分には戸籍などと言う大それた代物はないし、だいたい人間ではないのだからいつ『接収』されてもおかしくはない。
食事処だと、だいたいは経歴不詳でも雇ってもらえた。作る側になって人間の観察を行い、逆に食べる側にもなり見知らぬ人間と共に食べることで、更なる観察を行う。
そんなことを繰り返していたが、毎度同じ人間はいないと、イントレッセは常々思った。
だからこそ、自分は全ての人間と極端な関わりを持つことを避けた。一期一会を繰り返し続けたのも、自分の経歴もさることながら、何か、踏み込みすぎると、大事な物を失ってしまう。そんな気がしたのだ。
だが、ここに三週間もとどまり続けたことで、今まであまり見えてこなかった人間性もまた見えてきた。
別の地域へ異動が決まった常連が一人いたとき、不意に、心にぽっかりと、何か穴が空いたのを感じた。
『それが「寂しい」ということだ』と、親方はその時教えてくれた。
寂しいという感情を抱いたこと自体、思えばなかったかもしれない。『寂しい』という概念は何となく感じていたし、旅をしているときも、きっとこれがそういう感情なのだろうとなんとなく思ってはいたが、いざ指摘されると、意外に心の中に空く穴が大きいことに気付かされた。
さっき、意見をくれた事務職員とて、それは同じだった。意見をもらうことで「なるほど、こうしてみよう」と思える、何か、気が満ちてくるのだ。
人間はそれを『楽しい』と、表現することもあるようだ。多分、自分は今楽しいのだろう。
自分という存在が曖昧だからこう思うのだと、今更にイントレッセは思った。
まかない食を、親方と食べた。残ったうどんに、昨日の夕食で食べたナメコを少し付け足した、シンプルな物だった。
それを屋根の上で、一人静かに食べるのが、最近のイントレッセの至福のひとときだった。
先程まで降っていた雨も止んだ。今は、ちょうど晴れ間が覗いている。
しかし、今日に限っては、自分の心はまったくと言っていいほど晴れない。
先程、親方に言われたのだ。
『もうじきここが戦場になる。お前は生きなきゃならねぇ。俺が国外行きの旅券は手配してやるから逃げろ』
確かに、大戦にベクトーアは負けた。もうじき間違いなく、ここは戦場になるだろう。
だが、逃げるわけにはいかなかった。
親方に言ってはいないが、昨日から、妙な気配を感じる。
油断していると、辺り構わず破壊する、あの暴走状態になりかねないほどの『干渉』がある。
『ジン』に、何か起きようとしている。イントレッセにはそうとしか思えなかった。
ラグナロクと人間が呼んでいる、世界の崩壊から、今年でちょうど千年になる。何が起きても不思議ではないのだ。
もっとも、そのジンの暴走を監視するのもまた、自分の役目でもある。
十中八九、ジンはコンダクターか、自分か、或いはアイオーンを宿す人類の中でも極めて異端な『ハイドラ・フェイケル』の誰かを狙う。
そして、下手したら二度目のラグナロクを引き起こす。
自分は、もう十分に生きたのだ。だからこそ、生き残るべきは親方の方だろう。
そして、自分に課せられた真の役目のためにも、逃げるわけにはいかなかった。
「おう、イント、ちょっと来い」
下から、親方の声がしたので、返事をした後、屋根から飛び降りた。
着地したその足で、親方の元へと向かう。
休業状態にして、席の一角で、親方と正面から向き合った。
真剣なまなざしを、親方が注いでいる。恐らく、自分を説得する気なのかもしれない。
「どうするんだ、イント」
「逃げんよ、わらわは。いや、逃げることが出来ぬ、というべきかの。そういう命運なのじゃ。わらわは、少し変わっておるからのぅ」
実際、自分は人形アイオーンの中でも、かなり特殊な部類に属する。
普通のアイオーンは、動植物の死した魂が某かの形で宿っている。
だが、自分にはそんな物は存在しない。
言い方が悪いが、空っぽなのだ。だから、人間に興味を持ったのかもしれない。
「旅券は、あるにはあるぜ?」
「それは、親方が使って欲しいのじゃ。わらわには、親方の方に生きててほしい。今までのことは、本当に感謝してもしきれぬ。わらわにとって、貴重な体験だったし、それに、親方がわらわを、年上だけど、子供として見てくれたのが、正直嬉しかった。だから、だから、親父殿、わらわは」
「バカを言うな、イント」
親方が、自分の頭を、不意に撫でた。
何故か、親方が涙を流していた。
「お前一人だけここに残ろうって腹づもりなのは、ずっと感じてた。それで逝くならそん時はそん時とも思ってるのも、ずっと分かっていた。だがよ、生きなきゃダメだろ、お前。例え出自がどうあろうが、存在がどうであろうが、俺には関係ねぇ。お前は、俺の娘だ。子供はな、親より早く逝くのは、絶対に許されねぇんだ」
「何故、そこまで言ってくれるのじゃ?」
「親が子供を気遣うのに、理由なんかいらねぇよ。それに、俺は最初っからここを逃げるつもりはねぇぞ。最後までここにいるつもりだ。何が起ころうとな」
涙を流しながら、親方が笑った。自分もまた、泣いていた。
だが、不思議と心は暖かだし、嬉しいとも思った。なんていう感情か分からず、少し戸惑っている自分がいた。
「不思議と心が温かいのじゃ。これは、なんていえばいいのかのぅ?」
「それが、『喜び』って奴なのかもしれねぇぞ、イント。それにな、俺は、お前さんが今さっき、親父殿って呼んでくれたのが、地味に嬉しいんだよ。そして、お前のことだ、何かいなきゃならねぇ事情があるんだろ」
親方の目から、涙が消え、じっと自分を見つめてきた。
真剣な目だった。だからこそ、自分も涙をぬぐい、見つめ返した。
「そうじゃ。親父殿、下手したら千年前の再現もあり得るかもしれぬ」
「ラグナロク、か。あれから確かに千年だな。重要な局面、と言う奴に差し掛かっている、つーわけか」
無言で、イントレッセが頷いた。
親方が、少し考えるように、顎を手に置いた。
今までに見ないような姿だった。怜悧な刃物を思わせるまなざしが、少し深い皺の中に潜んでいる。
それに、先程旅券と言ったが、今の状況下でそう簡単に旅券が手に入るとも思えない。
「親父殿、あなたは、何者なのじゃ?」
三週間経って、ようやく本当の姿を見た。そんな気がした。だからこそ、聞いてみる価値はあるだろう。
それに、どういう手段で旅券を手に入れたのかも気になる。
「黙ってて悪かったが、犬神竜三っていたの、覚えてるだろ?」
確か、第四M.W.S.大隊に今傭兵としている、和服着た男だった。若いクセに時代劇の役者がそのまま出てきたような風流な男だったが、何処か気品のある男だったのを、よく覚えている。
「あぁ、あの和服着た傭兵か。それがどうしたのじゃ?」
「俺は、あの方直属の情報屋でな。ベクトーアの連中とも少し付き合ってる。ま、言うなら情報の中継基地みてぇなもんさ」
そう言われると、少し納得出来る。
いくら民族が色々と入り乱れるベクトーアとて、最重要拠点の一つであるこの基地に異国の地の料理人があっさりといるのは何か違和感があったが、そういうことだったのかと思うと、なんだか納得がいった。
旅券も、恐らく竜三が手配したのだろう。あの男はああ見えて金持ちらしいというのはよく聞いていた。
「では、ここに残るのもその情報屋と竜三の使命故、かえ?」
「いや、これは俺の職人魂でもある。俺はなイント、単純に、この店が気に入ってるのさ。俺の店だ。ここを閉めたら誰が切り盛りすんだ? 俺は最後の最後まで、ここの連中を相手に客商売を続ける。それだけだ」
呵々と、親方が笑った。
職人魂というのは、昔本で読んだことがあるが、なるほどこういうのをいうらしい。
一箇所にとどまるとまた、人間の別の側面がよく見えてくるのは本当だった。昔は発見の感覚が鈍るのではないかと恐れていたが、こういった一面を見ることが出来るのもまた、一興という物であるように、イントレッセには思えた。
それに、親方には、返しても返しきれない、いくつもの借りがある。ならば、それに付き合うのもまた、『娘』の役割だ。そう思うと、義理とは言え、親方の娘であることが、誇りに思えてきた。
「なら、どうせわらわも残らねばならぬからのぅ。親父殿、準備するか?」
「おうよ。イント、午後の準備、さっさと始めるぞ。のれん出しとけ。休業は終わりだ」
「おう!」
立つとき、不意に親方がにっと笑った。だから自分も同じように笑い返した。
親父殿とこの店をわらわが護りきるのが、親父殿への礼じゃろう。それが、娘として育ててくれている親父殿に対し、やらねばならぬことじゃ。
割烹着を着直して、外に出てのれんを再度掲げる。深い青地に附鵜痲唖と白く書かれた、自分の家ののれんだ。
いつもよりそののれんが、誇らしくイントレッセには見えた。




