第三十一話『Chain reaction』(3)
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AD三二七五年七月二一日午前一二時三分
問いかけても、反応がなかった。
気配はある。沈み込んでいる、そんな気配だ。扉越しにその気配はあるものの、何度かノックをするが、一向に反応がないのだ。
困ったことになったと、エミリア・エトーンマントは、ルナの個室前で唸っていた。
レムが記憶喪失になったショックで壁を殴り続けた末に手に怪我をし、それの治療だけ軽くやった後、そのまま部屋に籠もってしまった。
もう二時間近く籠もっているから出してきてくれと、ロニキスから直々に命令された。
それで説得役に赴いたまでは良かったが、一向に出てくる気配はない。語りがけようにも、鋼鉄製の扉はそういうことをやるにはあまりにも不適当だし、ルナの心は、深く沈みきっている。そのままいつものように語りかけても、下手に傷つけかねない。
昔から、ルナは繊細すぎるところがあった。先天性コンダクターというその能力保持故に蔑まれていたことも要因の一つだが、本人の心自体が、まるでガラス細工のように脆い。
もう十分は扉の前で悩んでいることだろう。こういう時、少し優柔不断な自分が情けない。
「まだ出てくる気配あらへんのか?」
少し風変わりな訛りがした。横を見てみると、大柄の男が一人、自分の方へゆっくりと歩いてきた。
確か、ブラスカ・ライズリーという名前だったはずだ。全身の火傷痕がだいぶ痛々しいが、それを気にする素振りもない。
一方、ルナは左上腕の火傷痕をだいぶ気にしているように、エミリアには思えた。帰ってきた後、少し左上腕を抑えていたことが、そういう印象を与えたのかもしれない。
「そうですね。まだ、説得しようにも、どう説得すればいいのか……」
「ロック、掛かったまんまなんか?」
「え? ええ、ノックしても、反応なくて」
「せやかて、これだけ堅い扉や。無理にこじ開けることも出来へん。ま、一個だけ部屋に潜入出来る方法あるんやけど……やってええもんなんか……」
「方法があるなら、やってみます。あの子をどうにかしてあげたいのは、私も同じですから」
ブラスカが、一度だけため息を吐いた後、上を指さした。
その方向に視線を移すと、空調のためのダクトがある。
「つまり、ここから部屋には入るしかないわけですね」
「せや。せやけど、結構汚れてまうで?」
「いいですよ、慣れてますから」
実際、ハイドラの元にいた頃、軍と同じ、いや、下手したらそれ以上にきつい訓練は散々受けてきた。
特にフェンリルはあの自然環境が厳しいアフリカだ、野外での調練は当たり前だった。多少汚れようが、別に気にはしない。
納得したのかどうかはよく分からないが、ブラスカが脚立をもってきてくれた。それに昇って、ダクトの口を開けてから、中に入る。
空中戦艦のダクト内は、想像以上に快適な気温だった。だが、やはり狭い。自分がギリギリ通ることの出来る幅しかなく、その中を這っていくと、なんというか、ネズミになったような気分になる。
フェンリルの粗悪な空中戦艦よりは余程快適だが、それでも汚れると言ったブラスカの言葉は本当だった。気付けば自分の髪の毛には埃が大量に付いている。
そのダクト内を匍匐前進していくと、ルナの私室が出口越しに見えた。
あっさり着いたと思ったが、一瞬でその考えは消し飛んだ。
部屋から酒の臭いがかなり漂っている。
ダクト内にまで漂っていることを考えると、相当量飲んでいると思ってほぼ間違いないだろう。
そのまま、ダクトの口を拳でぶち破った。甲高い金属音をならして、固定していた金具が床に落ちる。
それと同時に、自分もまた部屋に飛び込んだ。
やはりというべきか、部屋の中は酒のにおいで満ちあふれていた。机の上も、空いたビールと日本酒の瓶で満ちあふれている。
呆然と、自分を見ているルナが目に入った。酒の力だけではなく、何処かうつろな、なんというか、昔ソフィアという人格を受け付けられていた頃の自分を見ているような感覚に、エミリアは襲われた。
目が、真っ赤に腫れ上がっている。相当泣いたのだろう。それに、手に巻かれた包帯も、また血だらけになっていた。
「ノックしても出てこなかったからね。少し強引だったけど、来させてもらったわ。艦長から、いい加減出してきてくれって、頼まれてね」
ベッドの上に、一度座った。ルナは、缶ビールを手に持ったまま、微動だにしなかった。
ただ、相変わらず目は、ぼうとしている。自分はただ、それを見返すだけだ。
瞳からは、色んな感情が見て取れた。哀しみであり、戸惑いであり、喪失感であり、そうした負の感情が、多く集まっている。
「昔、そういう目で泣いていたの、覚えてる? もう、あれから十何年も経った。あなたも、いつまでも小さい子供でいられる訳じゃない。酒に逃げたところで、それは変わらないわよ」
昔と、変わらないなぁと、なんとなくエミリアは思った。
よく、ルナは子供の時から泣いていた。何度も、愚痴に付き合ったのを思い出し、少し苦笑した。
その一方で自分は、あまりにも変わりすぎた。空白の十年間、いや、そういうのとはまた違う。
人体実験の末に手に入れた、通常の人間とは比べものにならない力を持ってしまった。おかげで、薬も欠かせない。
だが、考えてみればここに来てから一粒飲んだだけだったことを、今更に思い出した。
「分からない……」
ルナが、小さく呟いた。
初めて、反応を示した。そんな気がした。
「ん?」
「あたしは、レムに、何もしてやれなかった。自分の妹を、護ってやることすら出来なかった。明るい表情の裏にある感情を、読み取ってやることが出来なかったのが、悔しいのよ……。それに、きっとレムも辛かったろうにって思うと、余計に何も出来なかったのが、悔しい」
泣きながら、ルナが言った。目が、余計に真っ赤になった。
こうしてボロボロ泣くのも、昔から変わらなかった。
だから、昔と同じように、そっと抱いた。
「人のために、泣いてあげられる人になったのね」
正直、泣いている理由がそれだったのは、一定の成長だと、エミリアには思えた。
昔のルナは、自分のことで泣いていた。一人だと、常に嘆いていた。
「そうやって泣けるって事はね、昔と違って、あなたは一人じゃないって言う証拠。それに、護ってやれなかったって言うけど、あの子はまだ死んでいない。生きている限り、絶対に希望を捨てちゃダメ。それにね、やっぱり、レムには、あなたが必要だと思うの。だからこそ、今レムが傷ついていて、自分にその責があると思うなら、それを償う方法を考えなさい」
「償う、方法?」
「そう、償う方法。私も、この戦争で何人も殺したもの。その人達に償う方法を、私は今でも探してる。人はね、多分、そういう償い方や、謝り方や、間違いの正し方を、常に探してるんだと、私は思うの。だからこそ、間違ったら、正せばいい。償えるなら、償えばいい。レムを真に立たせることが出来るのは、ずっと一緒にいた、あなただけだと思うから、だからこそ、お酒に逃げている場合じゃない。そうでしょ?」
うん、うん、と、何度もルナが頷く。その度に、涙が溢れているのがよく分かった。
自分の胸にルナが顔を深く埋めた。
「エミリア姉ちゃん、暫く、付き合ってもらって、いい?」
「いくらでも、付き合ってあげる。だから、思いっきり泣きなさい。泣きたいときは、一人で抱え込まないで、人に頼ってもいいの。泣いたって、いいのよ」
ルナが、大声で泣いた。
こんなに泣いたのは、いつ以来だったのか。
それだけ、レムがルナにとって大切な存在だったのだろう。
正直、ルナが羨ましく思えた。
大切な人間のために、これだけ泣けるようになった。そして、これだけ泣くことの出来る、大切な人間を見つけたのだ。
それが、エミリアには羨ましかった。
ならば、自分が今度はルナを、そして、ルナが大切に思う仲間を護ろう。それが、自分の勤めだと、エミリアはルナの泣きじゃくる姿を見ながら、そう思った。




