第二十三話『引けぬ故に戦って』(3)-1
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AD三二七五年七月二〇日午後七時四六分
ただ、駆けていた。
二七までは屠った敵を数えたが、それ以上は覚えていない。何せ死を恐れていないのか、どんどん増強されてくるからだ。数えるのが億劫になった。自分の体は、既に返り血で真っ赤に染まっている。
だが、まだ足りない。まだまだこれからだと、ルナには思えた。
あれから距離を進めた。今は階段を駆け上って地下から一階の廊下へとさしかかっている。
浅傷を少し負ったが、気にするほどの物でもない。
まだ戦える。自分はまだ負けていない。
負ける時は、死ぬ時だとルナは思っていた。
だが、敵が急に引いた。自分との距離が遠ざかっていく。
前に間者が知らせてきた地図が正しければ、確かこの後には入口が待っているはずだ。
迎撃の罠でもあるのだろうかと思ったが、例え罠があったとしても、行くしかない。
一気に廊下を駆けた。その間に邪魔をする敵を二、三人殴り殺した。
爪が割れた。しかし、不思議と痛みはない。
靴に仕込んでいたナイフは、一五人目を屠った時に折れた。思ったよりも強度がなかったのは、少し予想外と言えば予想外であった。
進路のシャッターが閉じられたのは、そんな時だった。敵兵も、呆然としている。
味方もお構いなしか! 舌打ちしていた自分に、ルナは気付いた。
反転するしかないかと思ったが、退路のシャッターも閉じられた。
ガスが、降り注いできた。
臭いを微かにかぐ。毒ではない。だが、催涙ガスでもない。
ペイント系の物かとも感じたが、そうでもない。
ただ、急に右腕の召喚印が熱くなったのを感じた。
レヴィナスが、呼応しているのか。感じた時、急に、視界が変わった。いつの間にか、天井が目の前にあった。
倒れたのか。そんなことを考えるのも、面倒になった。
何故か、この状況で笑っている自分が、見えた気がした。
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急な目覚めだった。そう言ってもいい。
二五〇年ぶりに目覚めてから、ざっと二ヶ月半ほどが経ったのか。これ程の頻度で目覚めたのは、この家系に封印されて初めてのことになる。
急に、ルナの意識がなくなった。かといって、手ひどい傷を負っているわけでもない。精神が摩耗した、というわけでもない。
何故か、自分が目覚めている。
奇妙な感覚だと、イドには思えた。
何かの干渉があったのかも知れないが、そんなことはどうでもいい。
ただ、無性に暴れたくなってきた。体の感覚は、徐々に戻ってきている。
元々自分は、単なる意識体でしかない。昔は、いろんな人間に寄生してはその人間が死ぬまで暴れ続けた物だった。
だが、いつの間にか封印された。何故そうなったのか、何故この家系の人間の中に封印されたのかは、よくわからない。
体の感覚が、自分の魂と固着し始めた。脳、内臓、五感、腕、足。
後は自分に適合する様に、形を変える。ルナという小娘の肉体は、恐ろしいほど自分と適合していた。変える必要がある部分がほとんど無い。
ただ、火傷とルナが思いこんでいる部分から人間にとっては異形な三本指の腕に変貌させるだけだ。
視界が、闇から光へと変わっていく。
臭いをかぐと、ガスの臭いがした。しかし、微かに気化したレヴィナスの香りがする。
それにやられたのだろうと、イドは思った。大量のレヴィナスは人間にとって毒以外の何者でもない。
それで意識が遮断されたのだ。ただ、恐らく割と早くに目覚めるだろう。それだけは、不満だった。
自分にはルナの意識を抑えるだけの力はない。あくまでも、自分はルナの意識が回復するまでの予備人格でしかない様に設定されているからだ。主人格に勝てない様に設定されているのである。
まぁ、目覚めたことは目覚めたのだ。暴れるだけ、暴れるとしようと、イドは思った。
まずは隔壁を破壊するべきだ。手を翳して、黒い炎を出す。焼き切るには、そう時間は食わなかった。
焼き切ると同時に、疾駆していた。
見える。後何秒後に弾丸が来るのか。角度はどう飛んでくるのか、どいつが撃つのか。
だから先読みして全て避けた。
敵兵が呆然としていることが、よく分かった。
「脆弱な人類が」
呟いてから、一人の腹を左腕で貫き、そのまま体を裂いた。
感傷など、持とうはずがない。まだ、六五億も駆除する対象がいるのだ。その中の一匹が消えただけだと思うと、億劫になってくる。
だから、まだまだ駆除する必要があった。
黒い炎を、腕に巻き付けた。目の前の敵は、視認できただけで一七。どうということはないと、イドは感じた。
そのまま、視認した相手にめがけて、黒い炎を投げつける。
せめて一瞬で逝かせてやる。いや、一瞬で逝かせないと、間に合わない。だから余計に感傷が沸かないのかも知れない。
駆除対象が、多すぎるからだ。最後の一匹になった時、初めて自分は人を殺したという快感を得られるのだろうと、何も残らず炎に焼かれた人類を見て思った。
不意に、頭痛を覚えた。
何か、覚えのある感覚。
剣劇。思わず、左手で防いだ。左手が甲殻化していなければ、持って行かれていただろう。
相手が、一度だけ舌打ちしてから、自分と対峙した。
「また邪魔をするか、セラフィム」
前にも、この女が邪魔をした。確か、レミニセンス・c・ホーヒュニングとか言ったか。セラフィムを飼っている人間だ。こうなった人間を後天性コンダクターなどと呼ばれているらしい。
しかし、セラフィムが人間に飼われている。
アイオーンの面汚しがと、何度思ったか。
双剣を、目の前の少女は再び構えた。
またやりあおうということか。目には、殺気が浮かんでいる。
そうだ。その目が、憎い。揃いも揃って、人間はそう言う目を、自分に向けた。
左手に、炎を巻き付けた直後だった。
不意に、眠くなった。何かが、魂の底からわき上がってくる。
この感覚は、主人格か!
五感が、手足が、内蔵が、脳が、魂と離れていく。
また、殺し損ねた。眠る寸前に、そう思った。




