《5》魔公サヴァランの護符もとい呪符
コーカル市の中心部であれば、ネロが名門リンミー家の子息で、あの市長の双子の弟であると誰もが知っていることだ。
だが少し郊外に入ると、ロキ市長の顔は知っているが、その弟のことなど知らない。
もっと郊外になると、ロキの名前は知ってるが、顔は知らない。
そうなってくると、ネロは本当にファッション冒険者に成り下がる。
夜も更けてきた。
それでもネロは焦らず急がず、てくてくと歩いていた。
早く移動するのならば、魔法師団へ一度戻り、魔法陣を使ってワープするのが一番手っ取り早い。もしくは自ら移動魔法を使ったっていい。
けれどもネロは急ぐことはしなかった。
ハルリア村の現状が不明なのだ。
ワープした先が火の海でないという保証はない。リテリアの森も同じこと。
そう考え、ゾッとした。
昼間、ネロたちは魔法陣を使って様々な場所にワープしていたのだ。
転送先が無事だったから良かったものの、もしもそこが炎の海だったら。
ネロはつい、ため息を吐いた。
カンバリアの平和に慣れきってしまっている。危機感は感じていたつもりだったが、甘かったようだ。
今歩いている街道は、ネロが頻繁に使う道だ。
緩やかに曲がりくねり、いくつもの街を経由して、最終的にはハルリアの港にたどり着く。
遠くに集落の光がちらほら見えてきた。
今夜は野営するよりは、集落で宿をとったほうが良いだろう。
この辺りは魔物も野生動物も出ないが、林の中をつっきっている部分の道は、夜盗注意の看板が出ている程度には危険だ。
集落につくと、ネロはすぐに酒場を探した。
この集落には昼に立ち寄ることが多く、夜に訪れるのは初めてだ。確か、たびたび食事で利用した食堂兼酒場は宿屋も営んでいるはずだ。
その店はすぐに見つかった。
繁盛しているようで、賑やかな声が通りに響いている。
「こんばんは。食事と宿をお願いしたいんですが、空いてますか」
カウンターの向こうでフライパンを振る女主人に声をかけると、彼女は笑顔で振り返った。
「はいこんばんは。宿ね。部屋はあるけど、高いとこしかないよ。最近は冒険者が多くてね、安い部屋はすぐ埋まっちまうんだ」
「……そうですか」
「なんなら、相部屋相手を酒場で探したらどうだい。三人で泊まれば、一番安い部屋よりもちょっとだけお得に使えるよ」
「いいんですか、そんな裏技教えちゃって」
ネロはつい笑った。
「客を逃すよりもずっといいね。食事はなんでも出せる、酒もたんまりある。これでも味には自信があるよ。そこのテーブルでいいなら座りなよ。酒場の立ち飲みテーブルでもいいけどね」
「こっちのテーブルでいいですよ。数日は歩きだから、体力は温存しておきたいんで」
「へえ。なんだい、ギルドの冒険者かい? 一人? 仲間は?」
「一人です」
ネロは苦笑いを作って見せる。
「それなら尚更旅の仲間をつかまえないと。そんなひょろっこいなりをして一人で冒険だなんて。勇敢と無謀は別物なんだよ」
そう言って女店主は、ネロをなかば強制的に酒場の席へと連れていった。
いや、仲間とかいらないんだけど。出かかった言葉を飲み込む。下手に断って不審がられれば極秘任務に支障が出る。
「なあ、あんたら、ギルドの冒険者かい?」
見るからに戦士という男の集団が振り向いた。
「なんだい女将。そうだが?」
手前にいた一人が答えた。
手入れの行き届いたアーマーで固めていて、小物の防具もしっかりとしている。初心者ならば手を抜きそうなものだ。
しぐさから背中の筋肉の屈強さが分かった。腰もいい。左足に古傷があるかもしれない。
実力はそこそこありそうだ。
「このひょろっこい男を仲間にしてやってくんないかい? 一人旅だって言うんだよ」
女主人のその言葉に、酒場は一瞬静かになり、その次には爆笑に包まれた。
「あーっはっはっはっは、なんだ兄ちゃん。そのかわいい顔で、女主人に甘えたのかい? 仲間がいないんだよ、さみしいよーってか?」
「かわいい面だがそれなりにいい年だろ? 自分で仲間位探しなよ。じゃなきゃさっさとお家に帰って仕事を探しな。冒険者は夢だけじゃやってけないんだぜ?」
「女将。おおかたこいつ、仕事が辛くて辞めちまって、小さい頃からの夢だとか言って旅に出ちまったんだろうよ。心配なら仲間なんかよりもこの酒場でバーテンにでもなってもらったらどうだ? 女に人気でるぜ?」
再び爆笑。
「じゃああたし、通っちゃおうかなー」
と酔っぱらった女の声もする。
見れば、大きなロッドを壁に立てかけた魔法使いだった。
まだ若い。十代だろう。
同じ魔術をなりわいにしているためか、ネロはその少女の持つロッドが妙に気になった。
まだ笑っている戦士集団を無視して、少女のそばによった。
「なに? お酒付き合ってくれるの? うれしーな、あははは」
まさか。ネロはそう思いながらも、口角を一瞬だけ上げて見せた。
「残念ながらお酒は一緒に飲めないな。それよりもそのロッド、どうした?」
「えー?」
「思うに、高そうだが」
「そうよ? わかる? あげないんだからね」
「もらったりしないよ。けれど、……それ、……」
「えー? 気になるんだぁ。見る目あるじゃーん。これね、おねーちゃんのおさがりなの。おねーちゃんは凄腕の賢者なのよ? 新しい杖を見つけたからって、こっちをあたしにくれたわけー」
「そうか。姉君は賢者か」
であれば、なんだかいっそう気になる。
「そのロッド、どこかで落としたり、一度壊れたりしたか?」
「……え?」
「いつもらった?」
「もらったのは三年位前かなー。一年前にギルドに入ったんだけど、その前からずっと使っててぇ。これを使うと、簡単な火属性の魔法でも威力が全然違うのよ。やってみせたげよっか?」
「やめとくれ! 店の中だよ! 火の魔法だなんて、とんでもないね!」
女将の一声で、酔っ払い魔法使いの大参事は回避された。
「そのロッド、ちゃんと手入れはしているのか?」
「んもー、してるよう。うるさいなぁ。それよりお酒飲も? おかみさーん、おかわりー!」
「あんたねぇ、まだ子供のくせに飲みすぎだよ」
「もうお酒飲める年ですぅうう。それに勇者の仲間なのよ? お酒くらいで倒れるわけないじゃない。ねー?」
勇者の仲間。急に鼻白んだ。
この国の勇者など、たかが知れている。
ロッドが気になるものの、なんちゃって勇者の関係者とは、距離を置くに限る。
「女将さん、やっぱりあっちのテーブルで食事をお願いするよ。部屋も……金はまだ余裕があるから、一人部屋をお願いしたい」
「いいのかい?」
「ああ。いいんだ」
まだ余裕があるというより、金にはよっぽどのことがない限り困らないのだ。
ネロは静かに食事をはじめた。食堂側のいる人々から憐みのまなざしを向けられている。
居心地が悪い。
女主人が、申し訳なさそうにコップに水を注いでくれた。
「でも悪いことは言わないよ、一人での旅はやめな。最初の戦士の男なんて頼りがいがありそうじゃないか」
「たしかに、あの男性は実力者でしょうね。でも大丈夫、俺の旅はそんな危険なものではないから」
「そうかい?」
ネロは微笑みを返した。
食事後、食事代を払い、宿代を前払いで渡しておく。
夜中に盗まれて金を払えませんでしたとは言えない。
「朝食はどうする?」
「一番早い時間は何時?」
「朝の五時だね。それよりも早いなら、携帯食をいくつかみつくろっておくから、部屋で食べると良い」
「朝の五時でお願いします。出来立てが食べたいんで」
「あんた、良いとこのお坊ちゃんだろ」
「……分かります?」
「最初はナンパな男が来たかと思ったんだけどね。言うこと全てが甘ちゃんだよ。苦労を知らない家で育ったんだろう?」
「あー、よく言われるんですよ、それ」
「痛い目見る前に、家に戻ったほうがいいよ? 朝食は五時だね。ゆっくり休みな」
「どうも。おやすみなさい」
部屋に入ったネロはマントを壁にかけた。魔法剣と杖は空間魔法でしまい込む。
小さなひずみを作って物を押しこむくらいなら、ベルトを外すのと同じくらいの面倒くささですむ。
それから上着を脱ぎ、靴も脱いで底の泥を削る。
顔を洗い、歯を磨き、眠りやすい服に着替えてベッドにもぐった。
目をつむる。じわりと疲労が眼球の奥からしみだしてきた。今日は本当に疲れた。すぐにでも深い眠りにつけそうだった。
しかし、気になる。あのロッド。
ネロは目をあけた。
ロッドには大きな宝石がはめ込まれていた。しかも質の良い古木で作られていて、よく磨かれている。
宝石にも、古木にも、どちらにも精霊が宿っていてもよさそうなものだ。
しかしその精霊がいない。
そればかりか、杖にかけられている魔法が失敗している。
あれではまともな魔法が使えないだろう。
食堂のスプーンを使ったほうがまだましかもしれない。
だがあの魔法使いの少女は、ロッドを使ったほうが魔法の威力が増すと言った。
だとしたら、あえての『失敗』なのだろうか。
それとも一度壊すかなにかして、修理をほどこしたさいに、間違えたのか。
後者のほうが可能性が高い気がする。壊した際に精霊がいなくなったのかもしれない。
「あ、そうだ。魔公サヴァランのタリスマン」
ネロは急に思い出した。
空間魔法を発動させて、わずかにできた空間のゆがみに腕を突っ込む。手探りで魔道具の入ったカバンを引っ張りだした。
取り出すと、わずかに光っている。
手に乗せれば吸いつくような感触。
これは魔力を吸われているのだろう。
「本当にタリスマンか? これ。守護符じゃなくて呪いのアイテムなんじゃねーの?」
サヴァランには呪術のほうが似合っている。
守護とか結界とかではない、あの人は。
あの人の先祖だぞ。
手のひらで転がしながら、魔力で探った。
魔力を吸われる感覚があるためか、ネロの魔力の触手はするすると石の中に潜ってゆくことができた。
これは。
「……」
全然わからない。
ネロは一瞬だけ考えを放棄した。
いや、分かるのだ。
複雑な魔法が重ね掛けされているのが分かる。
分厚い地層の崖を見上げている気分、いや、底の見えない海底へゆっくり沈んでゆく気分になる。
息苦しく、じっとりと冷や汗がにじんでくる。
調べる気持ちがごっそりと削がれてゆく。まともに調べようものなら頭の情報処理能力がパンクするだろう。そして体中の魔力がぐちゃぐちゃにかき回される。
一瞬で、廃人だ。
「やーめた」
タリスマンをベッドに放り投げた。
が。
「………………」
即座にタリスマンをつかみ直す。
ベッドの上で胡坐をかくように足を組み、タリスマンを柔らかく握る。
その手を、組んだ足首の上にそっとおろした。
背筋を伸ばしてゆっくり息を吐いた。
そして、視力を忘れる。瞼から力を抜き、視力はもちろん、聴力などの五感を鈍らせる。
第六感にだけ集中するのだ。
タリスマンただそれのみに、意識と魔力と法力を集結させる。
脳裏にサヴァランの姿が浮かんだ。
浮かんだというよりも、その映像が光の津波のように押し寄せてきて、脳みそを押しつぶそうとしている。
溺れる。肺に水が入ってくる錯覚。サヴァランの手が伸びて、頭をつかむんだ。
だがこれはサヴァランではない。先輩ではない。
似ているが、別人。魔公だ。
魔公サヴァラン。
魔公サヴァランが唱える呪文が、ネロのなかに注ぎ込まれる。
サヴァランの指から、手のひらから、脳みそに魔力が注ぎ込まれる。
錯覚だ。錯覚だ。錯覚。
でも頭がどうかしそうだ。
脳みそがドロドロに溶けて、沸騰して、蒸発してしまいそうだ。
息ができない。息ができない!
涙が熱い。溢れだす涙で眼球が火傷する! 痛い、熱い、痛い!
これは錯覚!
タリスマンを放せばこの苦しみから解放されるのに、ネロにはそれができなかった。
魔公サヴァランが目の前にいるのだ。頭の中にいる。
その紡ぐ呪文。
ネロは、それが知りたかった。
だって、分かるのだ。
魔公のかけている呪文が一言一言、一字一句、その意味が分かるのだ。
魔公サヴァランの研究のすべてが、頭の中に収まる。
痛い、熱い、頭が蒸発しそうだ。
蒸発、してしまいそうだ。
ああ……
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「起きてるかい? もう、五時半だよ? 朝食、どうする?」
はっ!
ネロは我に返った。
木の扉が何度もノックされている。
「あ……」
かすれた声が出た。
「ああ、すみません……少し、寝坊してしまったみたいで、すぐ行くんで……」
「起きたのかい。わかった、急がなくていいから、準備ができたら降りてきな」
女主人の足音が遠のいてゆく。
生きている。
全身がこわばっていて、指先にはかすかな震え。
顔にはいくつもの涙の跡があり、口はカラカラに乾いていた。
代わりに着ている服が肌に張り付くくらい湿っている。
ああ。
生きている。
そして、頭の中に、あの呪文が残っている。口角が上がった。
タリスマンが、ころりと手から転がり落ちた。
かすかに光っている。
魔公サヴァランのタリスマン。
魔王のために作られたタリスマンだった。
続く