《26》月明かりの下 蛇の躯
ネロの体が消えた。
マーガレットはぽかんとして宙を見ていた。
「え……?」
目の前にあるのは、暗がりしかない。
ざわざわと風の音がして、時折たき火から小さく爆ぜる音が耳に届くくらいだった。
そもそもマーガレットにはネロの一連の行動がさっぱり理解できていなかった。
何者かと戦いをしていることは分かるのだが、まるでネロの一人芝居に見えていた。
頭上は仄かに光っている。光は蠢いているようにも見える。水の塊が浮いているのだが、マーガレットには不思議でならない。なぜあの水は消えないのだろう。
同じ魔法を使うものとして、本当に不思議だった。
術者がいないのに、どうしてその場に魔法がとどまっているのだろうか。
魔法の使えない人たちが時折無茶な要求をしてくるときがある。
例えば、魔法で出した炎を街燈としてずっと外に灯しておいてくれないかという依頼。
無理だ。術者から一度でも術が離れてしまったら魔法は消えてしまう。術者がずっとその魔法を使い続けているのならまだしもだ。
永遠、半永久的に魔法を持続させることなど不可能なのだ。
しかし、マーガレットの頭上にある巨大な水の塊は、その不可能にとても近いモノに思えた。
「ネロさん……一体、何者……」
ただ物ではないことはわかっているけれど、底がしれなくて少しだけ怖くなった。
杖を見る。
綺麗に磨き上げられた棒だ。たき火の光が当たって、表面にはっきりと美しい艶が出ていた。少し重いけれど、愛用のロッドに比べればずっと軽い。
マーガレットにとって、このタイプの杖は初めてだ。
魔法の杖とは大きなものだと思っていたし、指揮棒のような杖はだいぶ古めかしく思える。
短い杖は、科学研究が盛んだった頃に流行った。魔法歴史学の教科書の挿絵で見たことがある。その絵についてはまるで習わなかったし、魔法史の授業では科学研究の項目など三行で終わる。時代遅れな杖。マーガレットは素直にそう思った。
けれど高そうだ。
貴族が使うのだから、きっと樫の木の杖が百本くらい買えてしまうだろう。
ため息を吐き、辺りを見渡せば、ぬかるみ。
「これを乾かせって……言われても……」
火の魔法が得意だからと言われても。
マーガレットにはどうすればいいのか分からない。
確かに火では水を乾かすことはできるけれど、そんな使い方をしたことはないし、炎を出して服を乾かせというのなら分かるが、大地を乾かせなどと言われても、困る。
天才には凡才の気持ちは分からない。
そんな言葉がマーガレットの頭をよぎった。
天才の常識と凡才の常識は違うし、高学歴者と一般学歴者の常識も違う。
マーガレットは肩や背中にずっしりとした重みを感じた。疲れともいう。
「……、ううん! ともかくやってみよう!」
暗い気持ちを振り払い、マーガレットは大きな声を出した。
駄目でもいいからやってみる、今は失敗してもいつかは成功するはず、やらないよりはだいぶまし、そんな様々な座右の銘がいくつも頭の中を通り過ぎ、重たい気分を隅に追いやった。
小さな炎をたくさん出して、地面近くに浮かべればきっと水も乾くはず。
周りの木に燃え移らないように注意して、最初は三つくらいでやってみよう。
マーガレットは自分の実力を計算し、決して無謀な真似はしないように心掛けた。
杖を構える。
《ファーメ》
上手く出せる自信があった。そもそも、ファーメくらい魔力や法力がある人間なら誰だって出せる。基本中の基本だ。それに、超簡易版杖でなんども練習していた。一度も出なかったけれど、精度は上がっているに違いなかった。
しかし、ファーメは発動しなかった。
「な、……なんで?」
どうして。
なんで。
《ファーメ》
《ファーメ》
《ファーメ!》
「なんで出ないの!」
何回呪文を唱えても、魔法が発動する気配がない。
三つの炎どころか、一つも出やしない。
魔力が消えてしまったのだろうかと思った。けれど、空に蠢く魔力の光は見える。
だから魔法力はちゃんとあるのだ。
けれど出ない。
《セピュ》
試しに風魔法も唱えてみた。これも基本中の基本だ。
けれど出なかった。
《マキュー》
水気が強いので水魔法ならと思ったけれど、それも出ない。
《ゾッカ》
土魔法も当然のようにうんともすんとも言わない。
マーガレットは青ざめた。
震えた。
恐ろしくなった。
簡易版杖なら使えなくてもまだわかる。
けれど、今手元にある杖はネロの杖だ。これを使ってネロが魔法を発動させていた場面はたくさん見た。
この杖は壊れてなんていないし、ただの木の棒なんかじゃない。
「なんで……? なんで使えないの? なんで!」
マーガレットの叫び声は森の中に消えていく。
足元はぬかるんだまま。
せっかくシャワーを浴びたのに、汚れてしまう。そんな些細なことさえもマーガレットの涙腺を決壊させるには十分だった。
とめどなく流れ出した涙が唇に触れ、口の中に入り込んでくる。
しょっぱさが惨めさを煽った。
嗚咽が止まらない。
誰も聞いていないのだから声を出して泣いたっていいのだけれど、そうしてしまうともっと惨めになってしまう気がして、マーガレットは必死に声を殺した。
きっとネロはすぐに帰ってくるだろう。そんな気がする。
あの人はきっと天才だから。
ネロが帰ってくるまでに、せめて泣いた顔をもとに戻しておかなくちゃいけない。泣いたなんてバレたくない。
自分の嗚咽の間から、マーガレットの耳に人の声が届いた。
「ネロさん……?」
慌てて涙を拭いて顔を上げた。
けれどどこにもネロの姿がない。
……―レット……マーガレットか……誰なんだ……おい……返事…………
声がはっきり聞こえた。
名前も呼ばれている。
「ど、どこ? 誰?」
マーガレットか?
声が鮮明に聞こえた。
それはマーガレットの胸元からだった。
はっとして、服の下からペンダントを取り出した。
勇者の仲間の証。
そのペンダントヘッドが光り輝いている。
《おい、返事をしろ! この魔法を使ったのは誰だ? マーガレットなのか?》
勇者だ。
勇者ピクスリア。
「ピクスリア! 私です! マーガレットです!」
《マーガレットか! 良かった! 無事だったんだな!》
「はい! 無事でした!」
良かった。
マーガレットの両目から再び涙があふれだした。
今度の涙が喜びの涙だ。
静寂に包まれている。
ネロが再び大地に足を下したとき、そこには黒く細長いものがぶらりと垂れ下がっていた。
そよ風が吹いていた。涼しい風だ。
リテリアの森は温暖であるが、夜になれは肌寒くなり、空気に含まれる水分が体温をゆっくりを奪ってゆくのだ。
けれど今夜の涼風は気持ちが良い。
絶壁の下、明るければ断層の壁がそそり立つだろう場所だ。
見上げれば月が浮かんでいた。十六夜か。月明かりが雲を黒く浮き上がらせてる。
断崖の手前に、水の網が張り巡らされており、中央には蛇の死骸にも似た魔人の体がぶら下がっていた。
魔が網の一部に腰かけ、片足で魔時の頭を踏みつけていた。
魔の黒い羽に月明かりが映り込んでいる。
《魔よ。殺したのか?》
《いいえ マスター》
魔人は蛇の半獣にも見えた。上半身は人間の男にもみえ、しかし肌の具合からところどころに固い鱗があるようだ。
下半身は蛇か、もしくは水生生物系だろう。
この魔人が使役していたのはリヒャルであり、それを考えればおそらく蛇だろう。
しかし蛇にしては下半身が短い。
通常は上半身の十倍ほどの長さがあるが、この魔人の下半身はせいぜい三倍だ。
ネロは一歩近づいた。
すると瞬時に魔人が顔を上げ、鋭い眼を光らせた。
その瞬間、ネロの目の前を何かが横にかすめてゆく。
ぞくっとした。
もう少しだけ歩幅が広ければ、両目をこそげ取られていただろう。
「ちっ!」
魔人が舌打ちをした。
魔人の下半身の先は、ネロの斜め前の水網をばっさりと切り裂いていた。
網は水でできているため、すぐにつながる。
蛇の胴体にしては短いと思っていたが、どうやら尾の先には鋭く長い針のようなものが付いているらしかった。
毒も持っているかもしれない。
それにかなり鋭い。
「貴様か、こんなふざけた真似をしてくれたのは!」
魔人が叫ぶ。ネロは魔人が言葉を操ったことに驚いた。
いや、魔人のほとんどは人と同じ言葉を使うことができる。
けれども、たいていは自分たちの種族の言語を使うし、ましてや人間にもそれぞれの国の言葉というものがある。
「……ふざけた真似というなら、それはお前のほうだろう?」
ネロはその場から動かずに言った。
水網は、魔人の上半身と下半身の大部分を拘束している。
それは術者であるネロ自身がよく分かるのだけれど、あの針だけは別だ。
針の間合いギリギリ外が、今立っている場所だろう。
ネロは魔法使いである。
魔法師である。
貴族家の人間として剣術や銃の扱いには慣れているけれど、剣士や戦士並みに強いわけじゃない。
目の前の魔人が魔法使い系であれば余裕で勝てるが、その肉体を大いに活用する武闘派であったら、立場は逆転する。
下手に動いたら首を持っていかれる。
モルテロに魔力を込めた。
「ぐっ!」
しかし、硬い。この魔人の下半身の筋力は尋常ではない。
「……お前はカンバリアの魔人か?」
「……ふ、ざけるな……あんな奴らと一緒にしてもらっては困る……」
魔人は苦渋の表情の中に嘲笑を混ぜた。
「我々はカンバリアの魔族を魔族とは認めん。はっ、そうとも、まさしく魔人だな。人に成り下がった魔族が!」
「ふうん、……なるほど」
なるほど。
意外だった。しかし考えてみれば、そうか。
ネロも、魔王軍に下った人間を見れば、同じように思うかもしれない。
「ではお前はどこの魔人だ?」
「魔人と言うな! 私は誇り高き魔族だぞ!」
「で? その誇り高き魔族がなにしにこの森に来たんだい?」
ギリギリと水網を締め上げながらネロは聞いた。
「ぐ、……く……、お前ごときに、口を割ると思っているのか……?」
苦しそうなのに頑なだ。口が堅いのは嫌いじゃなかった。
骨のある魔人のようだ。
ネロは魔人をからめとっている水網を、さらに網目を細かく変化させた。
肌にぴったりと張り付かせ、ゆっくりと鱗の間に忍ばせてゆく。
そして、ビリッ、と鱗を剥いだ。
「ギぁ!」
魔人が息を詰まらせたような悲鳴を上げた。
「へえ、固い鱗だな。二三枚剥ごうと思ったのに、一枚がやっとだ」
露わになった小さな肌に、水の針を刺した。
「つぅっ……、貴様……、」
「別に拷問する気はないんだ。勘違いしないでくれよ?」
「だろうな、こんなものが拷問とは……言えないな……」
「生ぬるいよな?」
ネロは手にしていたモルテロを地面に叩き付けた。
《モルテロ! 大地の水脈と結合せよ!》
「な! ぐあ!」
ネロが叫んだ瞬間、魔人の体が地面に叩き付けられた。
水の網が凄まじい力で大地の中へ向かってゆき、ネロの足元からは水が這い上がってきた。
ぐああ、ああ!
声ともつかない雄たけびが響き渡った。
魔人が大地に縫い付けられ、その体から血を吹き出させていた。
水脈がモルテロを己の一部と認証し、同時に水脈にネロの魔力が浸透してゆく。
もともと地脈に透していた魔力と、水脈の魔力がまじりあっている。
あの下半身の鋭い針も、水脈と一体化したモルテロががっしりと抑え込んでいた。
ふう、やっぱり大地や自然の力というのはすさまじいな。
びくとも動かない魔人の様子を一瞥し、ネロは自然の持つ途方もない巨大な力に感嘆した。
自分の力だけでは、あの針は抑えるには心もとなかった。
それがどうだ。
大地とはすばらしい。
「なあ、魔人。お前がこけにしていたリテリアの力はどうだ?」
「こけ、……だと?」
息絶えそうになりながら、魔人は目をネロに向けた。
ネロは一瞬だけ戸惑いがあったものの、横たわり血を流し続ける魔人の傍へ立った。
「そうだとも。ずいぶんとまあ、色々と悪さをしてくれたもんだよ。精霊も怒っているし、へんな蛇も出てくるし」
「はっ……精霊ね……残念ながら、私には精霊が見えないものでね……、怒りなど知るものか……」
「精霊が見えない? ではあのリヒャルはなんだよ」
「リヒャルだって? なんのことだか……さっぱりだな……」
「……じゃあお前じゃないのか? 白い蛇の姿をした精霊がたくさんいたぞ? おかげで俺の使い魔がたくさん食べられちまった。唯一残ったのは、この使い魔だけさ」
ネロがテキトーなことをつらつら言いながら腕を横に動かすと、そこに魔の精がふわりと飛んできて座った。
人ほどの大きさではなく、幼児よりも少し小さいくらいの背丈で、人形のような大きな目をしている。ころころ姿を変える魔にとっては、これくらいの転変は呼吸をするようなものだったが、死にかけの魔人は目を丸くしていた。
「は、はは……貴様……それを使役しているのか……」
「なんだ、妖精が見えるんじゃないか。嘘を吐いたな」
ネロは魔人の腕を思いきり踏んだ。
肘関節がずれる感覚がした。
「ぐああ!」
「嘘は嫌いなんだよな」
砕けた肘をグリグリを踏みつける。
「まて、やめろ! くそ、貴様……なんなんだ!」
「お前こそ何者だ?」
ネロは足を上げた。
血の付いた靴底を地面にこすりつけ、魔人を睨む。
「私は……コルセッカの配下、ソワゾ。……」
「コルセッカ?」
「……やはり、なにも知らぬのか……」
そう言った瞬間、魔人の力がふっと抜けたのが分かった。
死ぬ。
ネロはとっさに思った。
瀕死の物が生きながらえるのは、強い意志や希望があるときだ。
憎しみでもいい。強い感情があるとき、死んでもおかしくない状況で命をつなぐことができる。
しかしそれが費えた時、生物は死ぬ向かって急降下する。
死なれては困る。
「教えろ」
ネロは強い声で言った。
「コルセッカとはなんだ。誰だ。貴様は何をしにリテリアに来た」
「……コルセッカも知らぬ一般人に、私は殺されるのか……」
「コルセッカとは誰だ」
「……人の国というものは、本当に愚かだな……」
「なぜ国が出てくる?」
「はは。はははは、本当になにも知らぬのか……こんな国を相手にしなければならぬのか……」
「おい!」
「なあ、どうして軍隊がいない?」
言葉ははっきりしているが、声がどんどんか細くなってゆく。
「どうして、戦わないのだ?」
「……ソワゾ、お前はなにをしに来たんだ?」
「……宣戦布告を無視したというのは本当のようだな……、あれだけの攻撃を受けておきながら……なにも知らぬ冒険者が、……こんなところを一人うろうろしている……、はは……」
「ソワゾ、おい!」
コルセッカが配下、ソワゾは目を閉じた。
ネロはモルテロを解いた。
すると魔人の体から大量の血液が噴き出した。
モルテロは、ネロが思った以上に深く食い込んでいた。
大地の引き寄せる力が想像を超えていたのだ。
バラバラの肉塊になっていないのが不思議なくらいだった。
きっと相当強い魔人だったのだろう。
鱗も鍛えた鋼のようだった。
《魔よ。こいつの命を縫い付けられるか?》
《命 縫い付ける》
《そうだ。救わなくていい。傷も癒さなくていい。命をこの体から出さないでおけるか?》
《言っている意味が分からない マイマスター》
《魂をこの体から出さないようにしたい》
魔は少し首を傾げた。分かっていないのかもしれない。
《マイマスター それなら マイマスターの魔力 使うといいと思う》
《俺の魔力も法力も、自然界ほどたくさんあるわけじゃないんだ》
《マナ やってた》
星の魔と一緒にしないでくれ。
《マナ いつもやってた》
《原初の魔王と俺を同格に扱われても困るんだ》
《マナ よくやってた マナのやってたことはきっとマイマスターにとってもいいこと》
前の主が規格外であると、次の主は非常に困る。
しかも前の主への絶対的信頼と愛が篤いため、主張が決して崩れない。崩してくれない。
《いいか。魔よ。私はこいつから情報を聞き出したい。そして死んだあとの体は実験材料にしたい。傀儡術は得意じゃない。不死術は禁術だからアンデット化もできない。だから命を……魂を肉体に留まらせておきたい。そして疲れていて、私は魔力も法力も使いたくない。だからお前にやってほしいんだ。分かる?》
《でも マナ よくやってた》
《俺の魔力もうないの。分かる? マナは魔力の源だからそんなことはなかったかもしれないけど、俺は人間なの。魔力に限界があるわけ。それに今日はいろいろあったろ? 頑張ってたの見てただろ? だから、お前にやってほしいの》
《けど マナ よくやってた》
だめだこいつ。
そしてこのやりとりの間に魔人は死んでしまう。
「しゃーないな」
ネロはロッドを構えた。
《生命の鍵よ》
ロッドの前に大きな光の円盤が現れた。
これまでお目見えしたことのない美しい円盤だった。
このロッドがどれだけの逸品かがよく分かった。
精霊が宿っている様を是非見たかった。惜しい。
円盤の前でネロは、鍵を回すようにロッドを回転させた。
すると円盤に幾何学模様ににた線がうかび、パズルのように割れて開いた。
《癒しの扉よ》
開いた部分からは、白くあたたかな光があふれてくる。
魔法の中でも法術に分類される、治癒魔法。癒しの扉と呼ばれる制約が課せられている。
術者の力によって出現する扉の種類が変わり、呼び出せる呪文も変わるのだ。
《セイレーンブル》
ネロは求める呪文を口にした。
セイレーンブル。肉体治癒の高度魔法であり、人体の構造を知らなくとも肉体の再生を促すことができる。
魂が記憶している肉体地図を手本として、元に戻すのだ。
上手く使えば、失った手足や内臓をも再生できるかもしれない。
魔人ごときにこんな高度魔法を使いたくないが、相手はネロの知らない種族だった。
どんな器官があるのか分からない。どんな成分の細胞なのかもわからない。
そんな相手に通常の回復魔法をかけることはできない。
癒しの扉から反応が返ってくる。
白い光に文字が浮かび上がり、まるで許可を与えるかのように《セイレーンブル》とネロの声が返ってくる。
同時にロッドにセイレーンブルの呪文が記憶された。
ネロは急いでロッドを魔人の体の受けに掲げた。
《セイレーンブル 彼の者を癒せ》
魔人の体に光が注ぎ込まれた。
けれど、魔人は動かなかった。
遅かったのだ。
すでに魔人はこと切れていた。
「くそ。あっけないな」
損をした気分だった。
悲しみなど当然ない。
苦労したのに情報がほとんど得られなかった。諜報はしたことがないから当然かもしれないが、謎が謎のまま残してしまったのは悔しい。
宣戦布告とはなんのことだろう。
もしかして、カンバリアは他国と戦争をするのだろうか。
いや、宣戦布告をされたというのなら、すでに戦争中になる。
先日の衝撃波や、ハルリアの爆発というのはその宣戦布告だったのだろうか。
しかし軍隊は動かない。
サヴァランが情報を求めている。
国王を出し抜きたい。
ロキが極秘任務を依頼してきた。
結界の書き換え。
宣戦布告。
コルセッカ。
「くっそ、……なんなんだ? ああ、もう!」
なにが起こっているのか、ぼんやりと見えてきたが輪郭がはっきりしなくてイライラ知る。
そんなネロに、魔がささやいた。
《ネロ様 マイマスター マナ やってたこと する?》
「……あー……」
頭をかいた。
《ああ。分かった。やるよ》
魔の精は嬉しそうに赤い唇を弓なりにさせた。
この際、疲れるならとことん疲れるまでやりきってしまおう。
「お手柔らかにな……」
そして魔はネロの中に飛び込んだ。
瞬間、ネロの視界が揺れた。
魔が、何かを掴み、引きちぎろうとしている。
魔力の塊のような、命の中心のような、なにかを魔が掴んでいる。
「あ、」
酷い立ちくらみが起こったときに似ていて、貧血のような感覚とも近かった。
気持ちが、悪い。
魔が飛び出してきた。
一体ではなく三体だ。
三体の魔は螺旋を描くように回転しながら辺りを飛び回り、その後ろからは光の帯が伸びている。
その帯はネロの胸や額とつながっていて、光の帯を持ったままソワゾの躯へと飛び込んだのだった。
ああ、気持ち悪い。
ネロは虚空を見つめながらそう思った。
自分の一部が、自分からはなれた場所で、なにかに書き換えられている。
気持ち悪い。
思わず口元を押さえた。
気色悪い。
よろけながらソワゾを見る。
すでにネロから伸びる光の帯は途切れていたが、魔の精たちはソワゾの体から出てこなかった。
そしてネロの体のなにかを使って、魔の精たちがよからぬことをしているのが嫌というほどわかった。
「うえええ、気持ち悪い……、胸やけがひどい、くらくらする……」
早く終わってくれ。
ロッドに寄りかかり、しゃがみこみそうになるのを必死にこらえる。
帰って寝たい。
せめて野営場所に帰って横になりたい。
マーガレットは大丈夫だろうか。
煎じた魔法薬がまだ残っていたはずだ。帰って飲もう。
「あ、待てよ。暴れたからゴミとか入ってるかな。ああ、マーガレットの料理も駄目になってるかな……」
これでは持ってきた魔法薬のお世話になるしかなさそうだ。節約したいのに、と思っていた時、体がふっと楽になった。
ソワゾを見ると、見た目は変わっていない。体液にまみれた躯が月明かりに照らされているだけだった。
けれど、ネロの魔力のような法力のような、体の一部が注ぎ込まれることはなくなっている。そしてこねくり回されている感覚もなく、いつの間にか傍らに魔の精が三体浮遊していた。
《マイマスター》
《ネロ様》
《マイマスター》
まるで、褒めて褒めてとでも言っているようだった。
「ああ、よくやったよ。偉い偉い」
なにをよくやったのか説明はないけれど、ネロの魔法力を使いソワゾの魂を縫い付けたのが確かだ。
そう依頼したのだから、そうでなければ困る。
近寄ってみると、依頼通り、呼吸をしているけれど傷はまったく癒えていない。
「うん、確かに癒さなくていいと言ったけれどな」
どうせならついでに回復もさせておいてほしかった。
《セイレーンブル》
ネロは改めて治癒魔法を唱えた。
それから、肉体は回復したが目を覚まさない魔人を空間魔法で異空間にしまい込み、元居た場所へ戻ることにした。
周りは魔人の血液らしき液体で汚れていたが、後始末をする気力はない。
考えてみれば、ここは魔人が身を潜めていた崖の下だ。よほどのことがない限り人は近寄らないだろう。
発見される前に、雨が洗い流してくれるに違いない。
移動魔法は直線的な魔法だ。
点と点とつなぐもので、単純だけれど魔力を意外と消費する。また確実に場所が特定できていないと使えない魔法だ。
使い勝手は悪い。
呪文自体は有名だ。けれど使い手はほとんいなかった。ネロも久しぶりに使った。
学生時代は使っていたな、夜遊びしすぎて借りてる部屋に帰るのが面倒だったときとか、はは。などと過去を思い出して乾いた笑い声を出した。
《プォーヴォ》
移動は一瞬。
ネロは野営地に舞い戻っていた。
「ネロさん! お帰りなさい!」
足元はぬかるんでいる。
けれどマーガレットは頑張っていた。
魔法ではなく、木の枝に火をつけてそれを地面の上で振り、乾かしていた。
「聞いてください、ネロさん!」
火のついた木の棒を持って、マーガレットが駆け寄ってきた。
危ないな、おい。と思いながら、ネロは笑顔を作って見せた。
「あー、どうした」
「勇者から連絡がありました!」
マーガレットはとても嬉しそうに言った。
胸元でペンダントが揺れている。
喜ばしいことだ。
けれどネロはなぜだか一気に疲れた。
勇者。
魔人の次は勇者を相手にするのか。
「おー、良かった良かった! よし、一安心だな! よし!」
「はい!」
「一安心だ! よし!」
よし。
うん。
疲れる。




