《序》美しきハルリア
カンバリア共和国の東の先端に、ハルリアという美しい村がある。
その村は国境線の海峡に面していて、天気がよければ、小さく対岸の大陸を見ることができた。
村人たちは、晴れの日でも特に、対岸がくっきり見えるくらいの快晴が大好きだった。
そういう日はなぜか果物がよく売れる。
鮮やかな空の青を見ていると、鮮やかな色の果物が欲しくなるような、そんな気質の村人たちだった。
カンバリア共和国は平和の国である。
人間と魔物が共存した国だ。
対岸の国で日々巻き起こっている人間と魔物の諍いなど、ハルリア村には関係のないことだった。
たとえ対岸で魔王が自爆魔法をぶっぱなしたとしても、そよ風程度もハルリア村には届かない。
なぜならその海峡は、《悠久の壁》と呼ばれる原初の不可侵領域だったからだ。それらは魔法力の影響を受けないとされていた。
《悠久の壁》は、大陸プレートや山脈、海溝などの、惑星の境目に多く存在する。
目には見えない。
実際には壁などない。
常人では、通りすぎても気づかない。
それらは、魔法力の影響を受けないとされていた。
白い海鳥が、甲高い鳴き声を美しく響かせながら、港を優雅に飛び交っている。
帆船や汽船が停泊する岸壁に、巨大な黒い影がゆっくりと迫ってきていた。
一つや二つではない。暗い影は大群をなしている。
戦艦の影だった。
人々は港に集い、ゆっくりゆっくりと大きくなる戦艦たちを、ただただ無言で見つめていた。
鮮やかな青い空に、澄んだ青い海。
海鳥は楽しげに歌い、白い雲が風に乗って走って行く。
いつもと変わらぬ美しいハルリア。
くっきりと対岸が見える、鮮やかな午後。
港から少し離れた場所に、その暗く不気味な大船団は停まった。
人々は息を飲んだ。その巨大な戦艦のすべてが、見るも無惨な姿だったからだ。
幾つの攻撃を受けたのだろう、どの戦艦も壁に大穴があき、へしゃげ、ススで黒ずんでいた。たなびく旗は半分以上が焼けていて、辛うじてそれが対岸の国の国旗であることがわかった。
対岸の戦禍から逃れてきたのだろう。ハルリア村の人々はそう思った。
人間と魔物が対立する隣国は、いつの時代も戦争ばかりだ。
しかし、このような船団が姿を見せるのは、ハルリア村の歴史上初めてのことだった。
まるで死人しか乗っていないかのような、暗い船団。
助けを求めることも、威嚇してくることもなく、ただただ、そこにいるだけだ。
時間がそこだけ止まったかのようだった。
だが、世界はなにかを予感したのだろうか。
一瞬、風が止まった。
次の瞬間、船団は熱せられた鉄のように真っ赤に発光し、赤黒く膨れたかと思うと、爆発したのである。
爆炎がハルリアの港を襲った。
爆音を聞いた者はいなかった。
音が届くまで生きていた者はいなかったのだから。
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カンバリア共和国の東の中心都市、コーカル。
謎の衝撃波が襲ったのはつい五分前だ。
コーカル市の若き市長ロキは、市議と市庁幹部を緊急召集していた。
「軍からの報告は?」
「まだありません。ただいま、コーカル市の観測所には連絡を取っています」
「地震や、火山の噴火の可能性は?」
「まだそのような情報も来ていません」
「だろうな。魔法師団には?」
「それが……」
「どうした。早く言え。緊急事態だぞ」
報告を促された市庁幹部の表情は怪訝だ。
「あの、ロキ市長。……先ほどの窓の揺れが、……どれだけの重要性があったのでしょうか?」
ロキは舌打ちをした。無駄口をたたいている場合ではないのだ。
「早く魔法師団に連絡をしろ!」
「はい! それが、魔法師団からはすでに連絡が来ています!」
「は? お前、それを早く言え!」
「す、すみませんでした」
「それで?」
「そ、それが。……今回の件は、魔法師団コーカル支部に指揮権をよこせ、と……」
「……なんだと? それはサヴァランからか?」
「はい。市長が防衛庁へ直接電話をかけているときに……」
「サヴァランから直接来たのか? と聞いているんだ」
「はい、サヴァラン所長から直々の連絡でした」
「で? 何と答えた?」
「おって市長から返事をいたします、と」
緊急招集から七分、市長室には続々と人が集まり始めていた。
「市長、王宮には一向に連絡が付きません」
「ロキ市長、観測所からのデータが届きました!」
「市長、カンバリア軍コーカル支部の長官より、折り返しの直通電話です」
「先ほどの揺れによる市街地での被害は報告は上がっていません」
「動物園から異常報告です。動物たちが暴れているそうで、大型獣に麻酔銃を使用。なお、死んだ生物はいないそうです」
「水族館からも異常行動の情報です」
「川の色が濁ったようです」
「リテリア国立森林公園からの緊急電話が入りました」
「ハルリアの観測所からの電波が途絶えた模様」
人と共に続々と集まる情報を聞きながら、ロキは下唇を噛んだ。皆、不安がっているというよりも、戸惑っているようだった。
危機感が薄い。
それがロキをさらに苛立たせ、焦らせた。
市庁舎、いや、市内の人間のほとんどは感じなかったのだろう。
しかし、ロキには感じたのである。
先ほどの衝撃波には、多量の魔力が含まれていることを。
その方向は東の海。衝撃波と共に魔力の波が襲った。一瞬で波は過ぎ去ったが、あの魔力をかぶった瞬間に目の前が真っ黒になったのを感じた。
あれはなんだ。
まさか、海を挟んだ隣国からの攻撃か。
対岸の国ではつい半年前、魔王が自爆魔法を発動させ、魔王そのものは消滅したという情報が来た。
しかし魔物の活動は以前と変わらぬまま。
もしかしたら新たな魔王が立ったのではないかと、国の上層部は考えている。
市長であるロキを含めた市の幹部たちは、みな新魔王説派だった。
カンバリア共和国の中で最も隣国に近い経済特区はコーカル市であるし、近隣の村の統治もほぼコーカル市が肩代わりしている。
新魔王一派が攻めてくるとしたら、海を渡ってすぐのハルリア村を含めた東側。
そしてその中心であるコーカルが被害を受ける。
最悪の事態を想像するのは当然だ。そしてその対策を早急に立てなければならない。
国に対し、隣国や世界の動向を再三問い合わせているのだが、返事はなかなか帰ってこない。
コーカル市独自の調査さえも、咎められる始末だ。
そのような最中に起こった、謎の衝撃波。
真っ先に反応をしたのは、国でも市政でもなく、魔法師団の所長。
市長室に、召集命令を受けた全員がそろった。
「魔法師団は、この件の全権をよこせと言ったのだな?」
ロキの目が僅かに光を帯びている。
金と緑の光彩が、ロキの前に並んで立つ者たちの視線を惹きつける。
まだ三十を過ぎたばかりの若造に、誰も逆らうことができなかった。
市長を代々務める施政者の家系のためか、それともロキ自身の資質のためか、ロキは人々の上に立つにふさわしいオーラを持っていた。
「はい、市長。……あの、いったいなにを感じ取られたのでしょうか?」
「私は専門家ではないので分からない。しかしあのサヴァランが珍しく指揮権を欲しているようだ。この国における魔法師の実質トップが、そう言っている。その意味を考えてみろ」
その言葉により、市議と幹部たちは、事の重大性を察知したのだった。
「まさか、隣国の新魔王……ですか?」
「分からない。分からないが、先ほどの衝撃波。あれには異様な魔力が含まれている」
市議と幹部が息を飲む。
「まず、情報を集めたい。先ほど上がってきた情報と、これから上がってくる情報を速やかに精査しろ。カンバリア軍コーカル支部の電話をつなげ」
「はい! こちらに!」
ロキは受話器を耳に当てる。
『市長、先ほど要請のございました件についてです。我らコーカル支部軍の魔力探知装置が、異常を検知いたいしました。空軍での緊急スクランブルの準備は整っています』
「軍本部からの連絡は?」
『緊急時の判断は現場に任されております』
「では緊急出動だ。魔法部隊の緊急配備も急げ。場合によっては魔法師団と連携する」
『は、速やかに』
電話を切り、ロキは指示を飛ばす。
「至急、リテリアの森への入り口全てを閉鎖しろ。ハルリア村からの情報が入るまで、森の中の街道を使わせるな。動物園や水族館での異常報告から考えて、野生の動物や魔獣、神獣も凶暴性を増している可能性がある。全集落に通達をせよ」
「はい!」
「沿岸部からの情報は? 海上も一時封鎖だ。至急各港と船舶会社に通達。異常事態発生、東の海には絶対に入るな。軍が調べに向かっていると言え」
「市長、王宮より命令が来ました」
「命令?」
「『今は動くな』とのことです」
「なんだと?」
「『全ての判断は国が行う』と」
馬鹿な!
ロキは思い切り舌打ちをした。
「市長、国軍コーカル支部より緊急連絡! 調査に向かった無人探査機が、リテリアの森上空で制御不能。墜落の可能性あり!」
「は?」
「有人型戦闘機が緊急発進しました!」
「なんだと!」
カンバリアは、世界で唯一というくらい科学技術が発達している。
魔力や法力を持たぬ者も、それに匹敵する力を得ている。
しかしこの状況下、得たいの知れない魔力が渦巻く地に、魔法を使えない者をむかわせることは、どう考えても危険すぎた。
「なにを馬鹿なことを……!」
「市長、衛星からの映像が届きました。ご覧ください」
壁に映像が映し出される。そこにいた全員が絶句した。
ハルリア村を中心にした海岸線の形が、えぐられたように変形していたのだ。
「さらに拡大した映像がこちらです」
それを見て、ロキは愕然とした。
「……なんだこれは。……色がおかしい……、ちゃんと映せ……」
拡大された映像は、全面が真っ黒であった。
「いえ、これが……ハルリア村を宇宙から見た映像、……のようです」
カンバリアの科学力を、このときばかりは疑いたくなった。
世界は魔法力が主力であり、科学などとるに足らない劣った力。
そう。そのはずだ。
他国がせせら笑う程度なのだ、科学など。
だから、これは、間違いだ。
「……」
「……」
異様な静けさに包まれた。
「隣の国の映像は? ハルリアだけなのか? カンバリアだけ、なのか?」
「そ、それが。隣国の映像は、妨害波により、……砂嵐の画面しか出ないそうです」
「……」
「市長! 軍コーカル支部より緊急連絡! 有人型戦闘機、リテリア上空で制御不能! 墜落は回避! 近くの小規模空港に緊急着陸!」
「……」
「市長! ハルリア村との連絡は依然取れません! 観測所自体がなくなった可能性があると」
「市長、カンバリア軍本部より、無人偵察機一機、有人偵察機二機がリテリア上空に向けて緊急発進したそうです!」
「その件にて追加報告! リテリアの森上空にて、やはり機体の異常が出たとの救難信号受信!」
「市長、リテリアの森の警備部より報告です! 二日前に魔法結界柵の修理依頼あり。……もしかしたら、リテリアの森には今、魔法結界が張られていない可能性が」
「市長、軍本部の偵察機体がリテリアの森上空にてやはり、制御不能。近隣の広場および小規模空港に不時着。……パイロットに精神異常あり、とのこと……」
「市長、カンバリア国魔法師団コーカル支部のサヴァラン所長より再びの伝言。今回の件、国には頼るな。すべてを魔法師団コーカル支部によこせ……と」
次々と上がる情報に、ロキは眉根を寄せて、目をつぶった。
続く