第二話 斜に構えた半端者が残した痛み
さてさて、今回は関門その一を突破しますよ。
歯茎切開パート一とも言います。そんなもの切らないで0話切りがしたかったです。
紹介状を手に大学病院に臨む筆者。時刻は早朝、通勤ラッシュ全盛期を切り抜け、開院と同時に足を踏み入れたのです。
いや待て、なんでそんな時間に行ってるんだと疑問に思われる方もいるでしょう。もちろん理由があるのですが、待ち時間を短縮するためとか検査に時間がかかるからというだけではありません。
日付をちょっと戻します。紹介状と病院のパンフレットをドクターから貰い、早速病院へ電話をした時のことです。紹介状の力で話はスイスイ進んだのですが、ここで問題が。初診は決められた曜日と時間でないと受け付けていないというのです。
ああ悲しいかな組織制度。紹介してもらったS医師の場合だと、それが月曜の午前しかないのです。電話口から告げられる初耳の情報にマジかよという顔をしつつ、行かなければ始まらないので予約を取り付けました。
そういった顛末がありまして、月曜日働きたくない症候群を抱えたスーツ姿の方々を尻目に病院へ降り立ったわけです。ドラマでしか見たことのないような大病院。おのぼりさんみたいに思われないか少し気になります。
初めてなので受付を済ませるのも一苦労、かと思いきや案内役の人がちゃんと教えてくれるので一安心。ざっと見た感じでは来院者の多数が老人で、寄り添って案内をしている場面もちらほら見受けられます。ドラマとは違うようでもう一安心。
総合受付からそれぞれ受診する科へと向かい、朝から人が溢れる待合室で名前が呼ばれるのを待ちます。よく「呼ばれるまで二時間かかった」なんてことが囁かれていますが、実際はそんなこともなく適当に本を読んでいたら順番が来ました。
担当のS医師は爽やかな若者という見た目で、物腰や言動も丁寧な医者の鑑みたいな人でした。やはり部下を引き連れて総回診するような教授というのはドラマにしかいないようです。
初診の内容は今後の予定を決めるといったものでした。親知らずがこう生えているからこういう方法で抜きますとか、伝達麻酔を使うので痺れが強いですとか、神経に近いので抜歯後は腫れるでしょうとか、色々な説明を受けた後に同意書みたいなのへサインします。インフォームド・コンセントってやつですね。
なので所要時間は思ったよりも短く、昼前には病院を出ていました。これなら半休でもよかったかもしれませんが、せっかく取得した休日なので午後は丸々思いっきり遊びました。
その次からいよいよ動きが見え始めます。
まずはCTスキャンを受けて親知らず周辺の全貌を暴きます。下の親知らずは主要な神経や血管の近くに生えていることが多く、歯根がそれらと干渉している場合もあるそうです。まともに調査せず抜いて神経が傷ついて顔面麻痺です治りませんご愁傷様でした、なんて誰も幸せにならない結末は認められておりません。
筆者の場合は神経や血管が近くを通っているものの、干渉してはいないので問題なく抜けるだろうとのことでした。それでも周辺をいじくることには変わりないので、術後の腫れはしばらく残るだろうとも言われました。仕方ないと受け入れましょう。
ちなみに大掛かりな機械を動かすので請求金額もそれなりです。普通じゃ体験できないアトラクションの勉強代とでも割り切って樋口さんを切ってください。
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さあ、いよいよ抜歯当日です。体調は万全、天気は降雨。今更ですが抜歯は立派な手術です。体を切って中にあるものを取り出すんだから、適当でもいいので心構えをしておきましょう。
けれど、通された先はいつもの診察台と馴染みのチェアユニットでした。手術中、とランプが点灯する部屋には入れませんでした。周りに他の治療を受けてる方々がいる中でのオペですよ。すごいですね。
まずは恒例行事の麻酔です。伝達麻酔の針は結構奥まで入ってくる感覚があり、深い神経に注入されてるなーというのがよくわかりました。
というか痛いです。針ではなく薬剤が入ってくることに対して神経が痛いぞコノヤローと騒ぎました。当時の脳内では、なぜかブロック状の栄養機能食品を神経に突っ込まれてるイメージが浮かんでました。理由は不明。
麻酔が効いてきたらオペ開始……とここで予想外の事態に文字通り直面しました。単純に無知だったのもあるんですけどね。
何が起こったって顔に紙が乗せられたんですよ。医療ドラマで開腹手術なんかするときによく見る、薄緑色で中心に穴が開いた例の紙が。塞がれた視界と開かれた口周辺。えっマジで聞いてないよ、と動揺を隠しきれず今更手術を実感する自分がいました。
ところで皆さん、今ちょっと自分の手で目隠しをしてみてください。
……はい、何やらせんだと思いつつ戻って来た皆様に質問です。目隠しをしていても、視線を下にやれば少しくらいは外が見えていませんでしたか?
なんならもう一度試してみてください。そういうことです。
つまり何が言いたいかって、鼻の高さがあるおかげで手術の内容がなんとなく見えるわけですよ。これを幸か不幸かどちらに捉えるかは人それぞれですが、今回のように体験談を書く場合においては前者でしょう。眼球の手術でメスが迫ってくるのを凝視するより何倍もマシです。
メスが口内へと入っていきます。あ、切られる――と思った次の瞬間にはスーっとメスが動いて歯茎を切っているんです。早業ですね。もちろん痛みはないんですけど、なんかわかるというかそんな感覚があるというか……あまり考えないようにしましょう。
それからは何やら色々な器具を出しては口に入れるということが繰り返されました。口内の様子を自分で見られるわけないので体感と一般的な抜歯の流れと組み合わせて推測すると、切開した歯茎の奥でむき出しになった親知らずを割って取り出して、歯根がくっついている骨を削りつつ除去して、歯があった空間を消毒して……という流れだったようです。
毎度のように字面から想像するだけでキツイ内容ですが、痛くないので耐えてください。口を開けっ放しにすることで顎が疲れるでしょうが耐え忍んでください。
ちなみに今回はメリメリと柱が折れるような音はしませんでした。代わりに「ガリッ、ガコッ……」と描写しにくい音が響いていましたので、ぜひ皆様ご自身で聞いてみてください。
手足に滲む変な汗も引いてメンタルがそよ風状態になった頃です。執刀医のS医師が「抜けましたので縫合させていただきます」と言ってきました。ようやく終わるんだ、と心が軽くなるという感覚を味わいました。歯の重さは数十グラムらしいので誤差ですね。
仕上げの縫合に入ります。使うのは釣り針みたいに曲がった針でした。黒い糸を通してあり、それが切り開かれた歯茎を繋ぎ止めてくれるのです。しっかり縫わないといけないので、グイーと引っ張られて頬の内側が持ってかれそうな感覚を味わうかと思いますが耐えましょう。
その時、引っ張られた糸がピンと張っている様子も隙間から見えました。最後に言うのもアレですが別に目を開けている必要性はまったくありません。目を閉じている顔を見られたくないという問題も紙が隠してくれますし、そもそも目隠しされてるので暗闇の中で今後のご健勝をお祈り申し上げていた方が気休めになります。
縫合が済めばようやく終了です。お疲れ様でした。最後の門番、支払いを片付けましょう。手術なので点数も高くつきます。前回みたいに金属棒でグイーして終わりじゃないので英世や守礼門じゃ倒せません。諭吉を召喚しましょう。お釣りは交通費に使ってください。
寒くなった財布を懐に入れて帰宅――ではありません。クリア後のお楽しみは最近だと当たり前みたいになってますね。オペの後に処方箋を渡されたはずですので、それを持って薬局に向かいましょう。行きつけの薬局がなければ、病院の近くに何店舗かあるはずですので好きなところを選んでください。すぐ目の前にあるのがほとんどなので、玉打ち遊戯よりもわかりやすいかと思います。
さて、薬を買ったらまずするべきことがあります。抜歯後にドクターや歯科助手から言われるかと思いますが、今手に入れたその痛み止めをすぐ飲んでください。便利なことにウォーターサーバーが置かれていることが多いので遠慮なく使わせてもらいましょう。
えっ、麻酔が抜けてないうちから痛み止め飲んでいいのかって?
筆者も最初はそう思いました。でも、抜歯の痛みを甘く見ていると後で泣きたくなるというか暴れたくなることを知った今ではもうそんなことは言えません。大人しくドクターの提案に乗りましょう。薬は体に毒だとかいう考えは歯と一緒に抜いといてください。
そうそう、歯といえば抜いた親知らずを記念として持ち帰ることもできるらしいですよ。血肉で染まった上に分割されて原型を留めていないエナメル質を鑑賞したい方はご一考を。
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抜歯にまつわるエトセトラがようやく終わったわけですが、今までのは前座に過ぎません。四天王の中でも最弱です。自分では何もせずほっとけば終わるオペは受ける側からすればそんなものです。
最強の敵、それはさっきも触れた痛みです。初めての切開抜歯に興味津々になって鏡を覗き込みながら「ほうほうここがこう縫われてるのか」なんて確認していたら後悔します。奥で見えにくいからといって頬を動かしているとピキーンと突っ張るような痛みが患部を駆け巡って顎をガクガクさせるので、気になっても口を閉じて静かにしていましょう。何もしていなくても痛いのにわざわざ増幅させる理由なんかありません。
痛みは本当に曲者で、薬を飲めば確かに消えます。けれど性懲りもなくすぐに顔を出してきます。アニメにありがちな活発イケイケおせっかいキャラよりもしつこさマシマシ。
どれくらいしつこいかって、処方された薬を全部飲みきってもまだ痛むくらいです。薬は三日分くらい出されますが、実はそれからが痛みの本番です。なんで最初から全力で来ないんでしょうね。来られても困るんですけど。
めげない幼馴染ヒロインのような痛みをどうするか。出された薬は既にない。そんな時は迷わず市販の痛み止めを飲みましょう。慣れ親しんだ常備薬をここぞとばかりに放出してください。ドクターも痛みが続くならそうするように助言してくれるはずです。
でも薬を飲み続けるのは抵抗がある、という方もいるかと思いますので無理強いはしません。あくまで一つの提案ですから。ジンジンジリジリと続くどうしようもない痛みに頭を揺らして頬を引きつらせて握り拳を作って床ドン壁ドンするか、薬を飲んで楽になるか。ライフスタイルに合わせた自由な道を選びましょう。
出血については縫合しているので、そんなに酷くありません。ガーゼを噛むようなこともありませんが、それでも口内にジワジワと鉄の味が滲むのは避けられません。鼻をかむと体内圧力がどうのこうので血が出ることもありますが、やはり縫ってあるのですぐ止まるので安心してください。経験談です。
歯磨きはどうするんだ、と気になった方はいい着眼点をお持ちですね。
現実的な話、数日歯磨きが甘かったくらいでどうこうなることはありません。むしろ無理に歯ブラシを当てて縫合に干渉したら大惨事ですので、程々というか適当というかそれくらいで十分でしょう。糸を取るまでの辛抱です。
もし食べカスが患部周辺に入ってしまったら、水を含んでそっとゆすぐようにして取りましょう。それでも駄目なら爪楊枝とかデンタルフロスに頼りましょう。歯磨きついでに取ろうと歯ブラシを投入するのは、ピキーンとなってさっきまでなかったはずの糸が血と共に出てくるのでお勧めしません。痛いやらショックやら自己嫌悪やらで泣きたくなります。
ここまでは内面的な問題ですが、厄介なことに外見にも影響が出てきます。ドクターの説明にもあった腫れです。骨や神経をゴリゴリした影響で、顔の形が変わったかなってレベルで腫れました。歯を治療したのに、見た目は虫歯を抱えた人みたいになります。しばらく休みを取って引きこもるのが得策ですが、どうしても外に出なければならない場合はマスクでもして顔を隠すといいでしょう。
腫れている部分に、ぼんやりとした痺れが出ることもあります。むしろ出ました。とっくに麻酔は切れているのに、なんだかまだ残っているような不思議で奇妙この上ない感覚が張り付いていました。頬や顎を触っても、まるでビニール越しに撫でているような気分です。それだけ大掛かりなことをしたんだなと感慨に浸りながら安静にしておきましょう。
一週間くらい耐えたら最後の仕上げ、抜糸に臨みます。今回抜くのは歯じゃなくて糸です。抜歯と抜糸、読みは同じでも苦労は段違いです。もう死ぬ気で挑まなくても大丈夫ですよ。
ただ、よく抜糸は痛くないと言われますが正直痛かったし血も出ました。場合によりけりだとは思いますが、筆者は直後に口をゆすいだらトロリと血が出ました。すぐに止まったのでどうということはありませんでしたけど。
抜糸の内容については、長いハサミっぽい器具でチョキチョキ切って糸を引っ張っておしまいです。糸が歯茎の中をズルズル抜けていくとか想像しただけで血の気が失せますが、それほど痛くないので耐えましょう。注射といい勝負かな程度です。
糸を抜くと不思議なことに傷の治りが加速して痛みも大人しくなります。あの糸が全ての元凶だったんじゃないかってレベルでなんともなくなりますので、ここを一つの区切りとして頑張りましょう。
縫合されていた傷もその頃にはピッタリくっついているはずなので、抜糸すれば傷口が開くこともなく平穏な日々が訪れるでしょう。お疲れ様でした。その傷が完全に治ったら次の親知らずを始末するので備えましょう。
――となればよかったんですけどね。
どうやら筆者はアナザールートと呼ばれるものが好きなようです。
抜糸して数日、そこには空洞を覗かせる歯茎の姿が!
おそらく、初めての下顎処置に心を揺らして色々なヘマをしたせいでしょう。ドクターも大丈夫だと言ってくれたので、このまま回復を待ちます。幸い傷みもなく異変といえばぽっかり開いたクレーターくらいです。そんなの前回経験したわい。
でもやっぱり食べた物が入ること入ること。食後に口をゆすぐのが必須になります。親知らずがあった部分がそのまま空き地になったようなものなので、奥深くまで入り込む感覚はこの時しか味わえない貴重な体験でした。真似はしないでください。
そんなこんなで様々なイレギュラーもありましたが、二ヶ月もすれば穴は大体塞がります。元に戻った歯茎と顔を引っさげて次の親知らずに挑みましょう。
早くもラスボス、しかも完全埋没で横向きという究極形態です。弱体化ツールは歯科業界に存在しないので覚悟しましょう。