第一話 真っ直ぐ生えた優等生が起こした反乱
さて、まずは一番手のかからない良い子ちゃんからです。
これは他の歯に干渉することもなく、素直に全貌を見せているので簡単に抜くことができました。特別なこともせず、内容としては麻酔して効き目が出てきたら抜歯してガーゼ噛んでおしまいです。
ですが、それで終わるわけありません。どうやって抜くのか、その後は痛みとかどうなのか。そういった部分が読みたいのは筆者も同じなのでご安心くださいませ。
麻酔については大丈夫ですね。専門的なことを気にしていても歯は抜けません。チクリとするのは数秒ですから我慢してください。場合によっては数回に分けて注射することもあるようですが、むしろその方が後に刺す分が痛くなくてありがたいです。
さあ、麻酔が効いたらいよいよ抜歯にとりかかります。親知らずが歯茎に埋まっていたらここでメスを筆頭に物騒なあれこれが出てくるわけですが、今回はちゃんと生えている親知らず(ドクターの言葉を借りるなら簡単)なので用意されたのは三つの道具でした。よくわからない棒状金属と、洗浄や消毒に使うであろうシリンジと、仕上げに噛むガーゼ。
抜歯の方法ですが、まず顔を少し横に傾けるよう指示されたのでそうします。するとドクターが口内に先程の棒を忍び込ませて親知らずをグリグリするわけです。この時に結構な力を加えてきますので、頭も一緒に押されて動くわけです。でも自分に何ができるわけでもないから、脱力してなすがままにしているしかないわけです。
そうすると、なんだか物騒な音が聞こえてくるんですよ。
ミシッ、メキッ……メリメリベリッ! と大黒柱が折れるような音が脳内に直接響いてきたんです。
そう、これこそ親知らずが骨や歯茎から引き離される断末魔の叫びってやつです。事前にそういう音が出るということは知識として持っていたものの、実際に聞くとなんというかショックが大きくて呆然の二文字でした。
その後はシリンジで洗浄やらなんやらをして、ガーゼをしっかり噛んで血を止めるようにと言われて終了です。お疲れ様でした。口内にじんわり広がる血の味に耐えつつ受付で精算して薬をもらって指示通り飲んで安静にしてください。お大事にどうぞ。
――まあ、そうやって簡単に済めばよかったんですけどね。
いくつかの状況が重なって、ここから筆者は変なルートへ突入します。なぜそうなったのか、後になって考えてみれば理由がよくわかります。
一つ目の要因。それは心理的なものでした。
親知らずを抜くのは今回が初であり、メンタルの弱さも重なって緊張が限界突破していたのです。
次に挙げられるのは抜歯直後の行動でしょうか。
メリメリという破壊音で緊張の糸がプッツンした筆者が抜歯後に見たものは、ついさっきまで口内にあった親知らずでした。「あ、抜けたんだな」と血塗れの歯を見ながら思い、喪失感を芽生えさせながらフラフラと待合室へ戻ったのです。
最後に、抜歯をした時間が一番大きかったのではないかと思います。
それは午前十一時過ぎ、ちょうどお昼前でお腹が鳴り始める時刻だったのです。緊張でそれどころではなかったとはいえ、空腹を訴える体は栄養を求めていたというわけです。
何言ってんだコイツと思われるかもしれませんが、この一点を改善したら以後の抜歯では同じ過ちを繰り返すことはありませんでした。あと、医師や歯科助手の方に指摘されたのもこれです。空腹時の抜歯は避けましょう。
以上のことを踏まえ、何が起こったかを見てみましょう。
待合室に戻った筆者は椅子に座り、そのまま動けなくなってしまったのです。
例えるなら、湯あたりと立ちくらみと貧血が同時にやってきたような感覚と言うべきでしょうか。
呼吸は荒くなり、視界にはチカチカした光の靄がかかり、口内には粘度マックスの変な唾液が溢れ、背中には脂汗が滲み、頭の中では「ヤバイ」の三文字が無限増殖して暴れ回るという始末。真っ白に燃え尽きてしまいそうな体勢のまま、なんとか動けるようになるまで待合室をお借りしました。
いつの間にか外は雨。どれくらい危険境界線の綱渡りをしていたのか正確な時間は不明。そんな精神状態で家に帰ったわけですが、抜歯はこれからが本番です。痛みとか出血とか空腹とか悩みは尽きません。最後のは自業自得なところがあったりしますけど。
まず目下の悩みは出血です。これが解決しないことには食事はもちろん、ドライソケットとかいう厄介なことにもなりかねません。なんだそれって方のために簡単な説明をすると、抜歯したところが空洞になって中の骨が露出している状態のことです。文字だけでも恐ろしいのでこの辺で解説終了。
しっかり噛んでおくんだよ、というドクターの忠告に従っていたおかげか、一時間ほどで血は止まりました。じっとしている時間は退屈極まりないと思うので、あらかじめ暇を潰せる何かを用意しておくといいでしょう。筆者の場合はそんなものに気を取られる余裕すらありませんでしたが。
血も止まったということで、ようやく食事にありつけます。帰りがけにガーゼを口に入れたまま近所のスーパーで買ったそばをレンジに入れて待つこと数分。鍋を使わずにそばが食べられるなんていい時代ですね。
このように抜歯後は柔らかくて簡単に食べられるメニューを考えておきましょう。スープ春雨とかゼリー飲料なんかもいいですね。ヘタに刺激的な辛さマシマシ料理なんて食べるのはお勧めできません。
しかし当時の筆者は何を考えていたのでしょう。まだ意識が朦朧としていたのでしょうか。ご丁寧に添付されていたトッピングを全部投入しているではありませんか。そばを彩るキノコや山菜はもちろん、小袋に包まれた真っ赤な七味まで。
ちなみに一味と七味の違いは入っている材料の違いです。読んで字の如くです。
抜歯した方を上に向けるような格好で首を傾けて七味入りそばを食べたわけですが、その後痛みが爆発したということはありませんでした。でも危険なことには変わりないので当時の自分に説教したい気分です。
こんなに安定していた理由としては元々しっかり生えていた以外に、上の親知らずだからというのもあります。どうやら上部の方が血流やらなんやらのおかげで治癒能力が高いのだとか。ネットの片隅で見つけた知識なので参考程度に聞き流してください。
そんなこんなで痛みもすぐになくなって安心したのか、翌日にはもう仕事をしていました。
いやホントさっきから何やってんだコイツ。当日だけじゃなく翌日くらいは大事を取って安静にしておくべきだろうに。血は出てないけど血の成分が滲んでる感じがあったでしょ。
問題行動のオンパレードでしたが結果論で語るなら特に問題はなく、昼食のおにぎりが抜歯後の穴に潜入しようとしたくらいで済みました。口をゆすげば米粒くらいすぐ取れます。思いっきりブクブクするとドライソケットルートに入りかねませんが。
それから一週間ほどして再度歯科医へ向かい、抜歯の消毒と確認をしてもらってようやく一区切りです。長い目で抜いていこうということになり、今回の傷跡が落ち着いてきたら次へ取り掛かることになりました。
次――すなわち下の親知らずたちです。ここではないどこかへと行かなければ処置できない代物です。場合によっては「当院で抜けない歯はありません! どんな親知らずにも絶対屈しない!」というハイレベルな歯科医もありますが、大抵は紹介状を書いてもらい次のステージへ進むことになるでしょう。
舞台は大学病院へと移ります。
そうです。なぜか微妙に行きにくいところにある気がする大学病院です。免許センターと同じくらい行きにくいのではないでしょうか。駅前とまでは言いませんが、もう少し交通が行き届いたところにあってもいいと思います。
このように思わぬ伏兵こと交通費が襲い掛かってくることもありますので、精神面だけではなく金銭面でも余裕を持っておきましょう。申請したって返ってくるものではありませんから。