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 椀の中では、熱々の汁が揺れている。

 椀の中では、熱々の汁が揺れている。

 底で渦巻く味噌のつぶ。具は、わかめと豆腐くらいだが、(すす)るとしっかり鰹だしが効いている。これぞ日本の味というかんじである。


「和食なんて久しぶりだな」

「お気に召しましたか」


 朝餉(あさげ)ができています――いする美のその言葉に導かれるままリビングに降りた石動と久霧だったが、本当にテーブルに膳が三人分用意されていて、驚いた。

 メニューは、ご飯と味噌汁とたまご焼き。

 たったそれだけではあるものの、食べてみると、これがまたうまい。特に、たまご焼きに刻みネギが入っているのがいい。


「まだまだ、たくさんありますので」


 隣に座るいする美が、うきうきとうれしそうに言う。

 自分が作った料理だろうに、特に食事に手をつける様子もなく――というか、はなからテーブルではなく石動の方を向いて座っているのだ。かつ、何故か椅子の上で正座。胸にはしゃもじを掻き抱いている。

 そうして、ひたすら味噌汁をすする石動を、熱いまなざしで凝視、凝視、凝視。

 ……。


(まさか、おかわりするまでずっとこうしているつもり、とか?)


「……じゃあ、軽く、お願いしてもいい?」

「はい」


 熱視線に負けて、空のご飯茶碗を差し出す。

 その時、彼女が浮かべた満面の笑みときたら、バックに花びら的な効果背景が見えるくらいだった。何がそんなにうれしいのか謎だが。どうやらおかわり待ちで正解だったらしい。


 平和な朝の風景だった。


「って、おかしいでしょ!」


 だんっ、と久霧がテーブルを叩く。


「あんた、人んちで何してるの!? 何勝手に朝食準備してるの!? その格好も!」

「どこか着付けが変でしょうか」


 自分の胸元を見下ろし、いする美は首を傾げる。

 今のいする美の格好は、昨日着せたワンピース姿ではなかった。ピンク地に白い花模様の和服で、その上から更に割烹着をつけている。卓上の純和風な朝食風景もあいまって、そうしていると、まるで本当に嫁いできたばかりの新妻といった風情である。


 ――私の旦那様。


 昨日のいする美の台詞が脳内でよぎり、石動は味噌汁を噴きそうになる。


「じゃなくてっ。なんで着替えてるのかってこと。しかも、すっごい見たことある柄っ」

「ええ、奥の部屋のタンスから」

「やっぱり、母さんのだ――――!?」


 絶叫する久霧。


「信じらんない、信じらんない。なんでごく普通に、人んちあさってるの!? よその冷蔵庫開けて、ご飯作ったりする普通!?」

「ですが、許可をとろうにも、どこにも姿が見えませんでしたので」

「うぐ」


 久霧は口ごもる。

 石動の部屋に立てこもり、バリケードを築いて彼女をハブにした身としては、そこを突かれると弱いのだろう。完全に、行動が裏目に出ている。


「お怒りはごもっともですが、ご飯を食べなければ、人は死んでしまいます。それに、一晩中裸では寒いです。いわば、私のとった行動は自衛の範疇といえましょう」

「昨日! 着せた! ワンピ!」

「気に入らないのであれば脱げ。そう言ったのは、あなたの方ではないですか」

「うぐ」

「それとも、裸でお出迎えした方がよろしゅうございましたか?」

「うぐぐ」


 久霧が再び口ごもる。

 どうも先ほどから、自分で設置した地雷を自ら踏み抜いているようで、不憫だ。


「もうさ。いいだろ。いする美を一階で一人にしたのは、こっちが悪い。母さんの和服だって、タンスの肥やしになってたんだ。LINE入れとけば、多分貸してくれるだろ」


 結果論だが、味噌汁うまいし。


「……。兄貴。懐柔されてない?」


 助け船を出したつもりが、かえって疑念の目を向けられてしまった。そんなことはない。はずなのだが。あまり自信はない。温かい米と味噌汁のタッグに、普段のトースト&カップスープにない魅力を感じたのは確かだった。


「――っと。そろそろか」


 時計を見て、石動は立ち上がった。

 いする美が、不思議そうにそれを見上げる。


「お出かけですか」

「ん。高校にね。俺ら学生だから」

「ちょ。兄貴、もう出るの。早くない?」


 やや焦った声で、久霧が言う。確かに、普段の家を出る時間まではまだ一時間以上あるのだが。


「ちょっとね。部室寄っていこうかなって」

「嘘。聞いてないよ」


 言っていない。さっき思いついたのだ。


「……。別に、久霧は後から来てもいいよ?」

「やだ。無理。置いてったら泣く。十分は? 十分待とう? ね?」

「十分は長いよ」

「じゃ、じゃ、五分ねっ」


 椅子から転げ落ちそうになりながら、久霧がリビングを飛び出していく。すぐ後に、階段を駆け上がる音が続く。着替えにいったのだろう。一階へ降りるに際して既に着替えを済ませておいた石動と違い、兄の部屋から直行した久霧は、まだ寝間着のままだった。


「高校……」


 テーブルの向かいで、いする美が首をかしげている。

 自称黄泉の住人には「高校」では通じなかっただろうか。

 どう言ったものか石動が悩んでいると、いする美は立ち上がり、ぱたぱたとリビングのソファへと駆け寄っていく。

 背もたれ側から身を乗りだし、何やらごそごそとやりだす。石動から見ると、ちょうど着物に包まれたいする美のお尻が左右に揺れている図になり、倫理的に大変よろしくない光景だ。


「い、いする美?」


 何をするつもりだろう――と思っていると、やがて目当てのものを引き当てたのか、いする美が再び体を起こす。


 その手が掴んでいたのは、石動の通学鞄だった。


 普段は自室に持っていくのだが、昨日からリビングに置いたままになっていたらしい。

 鞄を両手に抱え、ぱたぱたと石動のもとへと戻ってくるいする美。


「もしかして、これが必要でしょうか」

「えっと。うん」

「そのままで。お召し物が」


 鞄を受け取るのとほぼ同時に、いする美の細い指先が石動の首へと伸びてくる。襟が曲がっていたようだ。そのまま、直される。

 されるがまま過ごす時間は、少し居心地が悪かった。おもに、彼女の顔が近すぎるのが、原因だ。妹と違うにおいがする。


「……はい、これで大丈夫」

「え、なにこれ。なんかすごく納得いかない雰囲気なんですけどっ」


 ちょうどその時、扉が開いて、久霧が顔を出した。

 超特急で仕度を済ませてきたらしい。やや肩で息をしつつも、きちんとセーラー服に着替え、髪も結ってあるのだから、すごい。


「って、久霧、なんか、鞄めっちゃぱんぱんじゃない?」


 ちらりと見える肩掛け鞄が、学期末最終日かというくらい膨らんでいる。


「だから。保険証とか家の書類とか。全部詰めてきたんだってば。どうせ、兄貴、あれでしょ? この女に留守番させる気なんでしょ」

「え、あ、うん」


 深く考えていなかった。

 しかし、石動が学校に行き、久霧が学校に行くということは、そういうことか。


「……。ええと。怒らないの?」

「とりあえず。とりあえずだから。時間ないし。兄貴もう学校行くって言うし。教室までついてこられるよりマシだし。本当、さっさと追い出せばいいのにって思うけど。ひとまず、うちの重要な物は全部私が持ち歩くからね。後は知らないからね。本当だからね」


 言いたいことは色々あるのだろうが、ひとまず棚上げ。そういうことらしい。


「久霧」

「なに」

「ありがとう」

「……っ。兄貴、マジ卑怯だよ」


 ぶちぶち言いながら、久霧は目をそらす。


「十分は長いって言ったの兄貴だからね。あんまり待たせないでよ」


 そう言い残して、久霧の顔が扉の向こうへ引っ込む。先に出て玄関で待つつもりのようだった。多分、さっさと合流しないと、本気で起こる奴。急がないと。

 石動は、いする美と向かい合う。

 真っ直ぐこちらを見上げてくる瞳。その金色のまなざしを正面から受け止めるのは、正直、まだ慣れない。


「じゃあ、行くけど」

「はい」

「とりあえず、リビングのものは自由に使っていいから。冷蔵庫も。あんまり他の部屋は入らないでくれると、うれしい。不自由があれば、帰ってから聞くから」

「お帰りは、いつ頃に?」

「四時過ぎ、くらいかな。ええと、時間ってわかる? 今の日本は、二十四時間制で、一時間が――」

「大丈夫です。心得ています。でも、そうですか。四時過ぎ、ですか」

「いする美?」


 一瞬、いする美の表情が陰った気がした。まるで、親の手を振りほどかれた子どものような。しかし、すぐに、もとの楚々とした大人びた表情に戻る。


「いえ、大丈夫です。わかりました」


 すっ、と。

 いする美は、リビングの床に膝をつく。あまりに流れるような所作だったので、止める暇もなかった。そのまま、小一時間前、二階の廊下で見た風景が再現される。三つ指をついて、深々と下げられる形のよい頭部。


「行ってらっしゃいませ」



 ***



 ばたん、ばたんと、二度扉が閉まる音がした。

 一度目はりびんぐの。二度目は玄関の。そして、火が消えたような静寂が家を満たす。


「……」


 その静寂が充分に室内にいきわたるのを待って、いする美は、下げていた頭をようやく上げる。


 閉まりきった扉を、じっと眺める。その瞳に込められた意味を読み解く人間は、今この場にはいない。ただ、眺める。

 ふるふると首を振り、ふんぎりをつけるように立ち上がる。


 食卓へ向かう。

 卓上には、先ほどまでの朝食風景がまだそのまま残っている。

 いする美は、それらの食器のひとつに、つ、と指を這わせる。


 石動が使っていた茶碗だ。

 米粒ひとつ残っていない、きれいな食べっぷり。


 いする美の頬が少し緩む。

 その意味を読み解く人間は、やはり今この場にはいない。


 いする美は、振り返り、壁を見た。

 そこにあるのは、壁掛け時計。

 文字盤の数字に指を伸ばす。綺麗な楕円を描く爪が、硝子の表面にぶつかり、こつりを音を立てる。

 指は、まずは短針が指し示す「七」の文字に。それから、ひとつずつ文字盤の数字を辿っていく。


「ひと、ふた、みつ、よつ……」


 指は、文字盤の一番高いところにある「十二」を通過し、「四」のところでぴたりと止まった。


 少し眉根が寄る。

 その意味を読み解く人間は、やはり今この場にはいない。


 もう一度最初から。指先を「七」へ。


「ひと、ふた、みつ、よつ……」


 やはり、指は同じ「四」のところで止まる。


「ここのつ……」


 呟く台詞も一緒。七つでもなく、八つでもなく、九つ。

 はあ、と溜息。


「はやく」


 少し咎めるように、こつこつと硝子の表面をつつく。


「はやく。おねがい。ね?」


 硝子に映るいする美の表情は、憂いをたたえ、少しいじらしく、拗ねているようにも、不安がっているようにも、もどかしく思っているようにも、すごく遠いが数十歩分何かのスイッチが入れば泣きが入ってしまいそうにも見え、そして不思議とどこかうれしそうな――拗ねたり不安がったりできること自体に喜んでいるようにも見えた。

 その意味を読み解く人間は、やはり今この場にはいなかったが、仮にいたとして、彼女の溜息の表面的な意味を探るのは、そう難しくなかっただろう。


 何故なら、いする美の眼差しは、典型的な恋する乙女のそれだった。


 しかし、表面的以上の意味を探るとしたら、どうだろうか。

 彼女の感情、想い、記憶、複雑な焦燥を探ることが誰にできただろう。

 たとえ、石動がこの場にいたとしても、彼女が何を考えているか正確に読み解くことは、おそらくできないのではないか。


「おまえさま」


 伝わらないのだ。呆れるほどに。想いというのは。




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