口の中に異質な歯触りと甘味をおぼえ、石動は目を覚ます。
口の中に異質な歯触りと甘味をおぼえ、石動は目を覚ます。
甘味の正体はわからない。が、強引に口を割って入ってくるこの異物の食感は、もうおぼえた。
妹の指だ。
「兄貴、起きた?」
しかし、その妹が、パジャマ姿で、石動の胸にしなだれかかっている今の状況はどうだろう。布団の上からではなく、布団の中からだ。掛布団からぴょこりと頭だけ出し、昨日の教室で起こされた時など問題にならないくらいの近距離から、こちらを見つめてくる。顎と顎が触れそうな距離感。
いつから自分は、妹とベッドを共にするようになったのだろう。
「おひたから、おひて」
「降りたから、起きて?」
「起きたから! 降りて!」
わかってるけどー、とぶちぶち言いながらも、ベッドを降りる久霧。
布団がめくられ、毛布と人肌の熱が室内に拡散し、冷えた空気が襲ってくる。窓から差し込む朝日はカーテンに遮られ、部屋の中は薄暗い。手さぐりで枕もとの時計を引き寄せてみると、まだ六時前だった。登校の準備をするにしても、少々早すぎる。
「で、今日は何食べさせられたの?」
「チョコ。籠城するなら、日持ちする食品を選ばないとね」
――籠城?
その意味を尋ねるまでもなく、部屋の異変に気付く。
妹の部屋と色違いの壁紙。まごうことなき自分の部屋。なのだが、なんだかやけにがらんとしている。それもそのはずだ。本棚や机などの家具類が、扉を遮るように積み上げられている。
夜、寝る前は、いつもの自室だったのに。
「……これ、どうしたの」
「バリケード」
「それは見ればわかるけど」
「兄貴が悪いんだよ。あんな電波な女、家に泊めちゃって。部屋に忍び込まれたりでもしたら、どうするの?」
「今、まさにお前に忍びこまれてるんだけど」
「私が内側にいないと、兄貴を守れないじゃない」
そんな当然でしょみたいな顔で言われても。
久霧は、ベッド脇に置いてあった小振りなバッグを取り、「ほら」と中を見せてくる。通帳に、印鑑に、母の年金手帳に、家の契約書――そこには、道玄坂家における重要書類が一式揃っていた。
「一応、階段も荷物で塞いできたから。あの女がよっぽど礼儀知らずじゃない限り、一階をうろうろするくらいしかできないはず」
「……全然信用してないんだな」
「当然。兄貴は、あんな話信じるつもりなの?」
石動は、昨日の会話を思い出す。
***
「……黄泉の王?」
「はい、そして私の旦那さま」
少女は、にこにこと微笑む。
「どういう、ことかな」
横にいる妹を制しながら、石動は訊く。
「黄泉の国は御存知ですか?」
「日本神話の? 古事記に出てくる程度なら……」
「充分です」
もっとも、オカ研の先輩から聞き齧った付け焼刃の知識でしかないが。
日本神話とは、日本に住まう八百万の神々をめぐる物語だ。
出典の多くは、『古事記』『日本書紀』『風土記』により、その中で、黄泉の国の名は、イザナギとイザナミをめぐる挿話に登場する。
イザナギとイザナミ――彼らは、創世にたずさわる最古の神々の一柱だ。
様々な神を生み落とし、日本を形成した偉大な男女神であり、ついでに「兄弟にして夫婦」という最古の近親相姦事例の当事者でもあるという、色々な意味でも偉大な神さまである。
その偉大な神さまの片割れイザナミが、ある日、不慮の事故により命を落としてしまうところから、この挿話は始まる。
普通なら妻の死を嘆くばかりだが、そこは神話だ、男神イザナギは、死んだ彼女を連れ戻すべく、死後の世界を訪ねる。
この死後の世界こそが、『黄泉』だ。
イザナギは、黄泉の国にたどりつき無事妻と再会を果たすが、妻を連れ帰ることは叶わなかった。妻イザナミは、既に黄泉の国の食べ物を口にしてしまっており、生者としての性質を失っていたからだ。
『決して覗いてはいけない』という彼女の禁を破り、黄泉での彼女の醜い姿を見てしまったイザナギは、怒ったイザナミに追いかけられ、現世へと逃げ帰る羽目になる。このことが原因で、二人は離縁してしまう(ちなみに、日本最古の離縁だ)。
以来、黄泉に残されたイザナミは、黄泉津大神として死後の世界を総べるようになった――と、細部は忘れたが、大体そんな話だったと思う。
「おぼえていましょうか。私の名前」
「いする美、だよね」
「そう。そして、おまえさまはいする儀。……似ているとは思いませんか?」
イザナミとイザナギ。
いする美といする儀。
なるほど、名前が似ている。
言ってみれば、ただそれだけ。だが、名前の類似は、日本神話においては重要な意味を持つ。名前は、物の性質を定義する。いわゆる言霊信仰。
いや、話はもっと単純かもしれない。
子どもの名前が親やその親に似るのは、よくあることだ。
「私は、イザナミの直系の子孫なのです」
いする美は、微笑む。
「そして、当代のイザナミでもあります。『イザナミ』という呼び名は一人の人間を指していたわけではありません。代々のイザナミがおり、代々黄泉を総べる役目を引き継いできました」
「イザナミって世襲制なんだ……」
「はい。そして、お前さまは、当代のイザナミたる私が選んだ伴侶。いわば、当代のイザナギです。伴侶を選んだ私は、黄泉の国の統治をお前さまに譲りました。だから、お前さまは、ここ十年弱ばかり、たしかに黄泉の国の王だったのですよ?」
突然そんなことを言われても。
ひじきから始まり、次はイザナギ・イザナミで、自分は彼女の夫で、しかも、かつて黄泉を統べる王だった? 非現実的すぎる上、設定を盛りすぎだ。そんな記憶は、頭の中のどこを探しても見当たらない。
いや、あるといえば、ある。
あのイメージだ。
暗い闇の中を歩いていて、その先で泣いている女の子に会った。
眼前にいる少女(いする美)は、記憶にある彼女よりだいぶ年上に見える。が、彼女が実在の人物なら、石動が年月の分だけ背丈を伸ばしたように、彼女も歳を重ね、その分だけ大人びていることだろう。
ちょうど、こんな風に。
「……俺は。君に食べ物をあげた気がする」
「そうです。私も、おまえさまに、黄泉の国の桃を渡しました。八年ほど前のことです。それを食べたから、おまえさまは黄泉の住人になった。黄泉の国に生きる者として、受肉した。私と一緒にいてくれると、おまえさまが言ったから。実際にそうしてくれたから」
「受肉?」
「おまえさまも、今日私にしてくれたでしょう? 橋の下でうずくまる私に。現世の桃をくださった。だから、私はこちらの人間としての肉体を得たのです」
「俺が寝たきりだったのは、黄泉の国の桃を食べたから……?」
いする美は頷く。
日本神話だ。妻イザナミは、黄泉の食べ物を口にして、生者としての性質を失った。
その地のものを口にすることで、その地に根差すという概念。その地の者としての肉体を得るための儀式。
それが――受肉?
「でも、待ってくれ。現に、今、俺はこうして生きて喋っている」
いする美の話が本当なら、今、石動がここにいるのはおかしい。小学五年の頃のあの交通事故で既に死んでいるのなら、今こうして生きて喋っている石動は誰なのかという話になる。
「理由は二つあります。ひとつは、おまえさまが黄泉の比較的手前で受肉したこと」
「手前で?」
「本当なら、おまえさまは黄泉のもっと深い深いところへ行くはずだった。けれど、おまえさまが私の呼びかけに応じてくれたから。泣いている私の前で足を止め、私の桃を食べてくれたから。おまえさまは、黄泉の深淵に辿りつく前に受肉した。おかげで、現世の肉体が完全に消滅せず、残った」
行かなくちゃ――あの時、自分の中にはその想いだけがあった。あれは、いわば死出の旅だったのか。あのいする美の涙に足を止めなければ、自分はあの暗闇の世界を更に突き進み、多くの人間がそうであるように、死を迎えていた……?
「そして、もうひとつ」
いする美は、指を立てる。
「おまえさまが目覚めたのは、いつの話ですか?」
「四年、前だけど」
十四歳の春だった。病院で目が覚め、ベッドの脇には、成長した久霧がいた。こんなに長い意識不明状態から復帰できるのは奇跡的だと、医者が言っていた。
何かきっかけがあったのではないか、と。
「……。また、桃、か?」
「ご名答です」
思いついておきながら、自分でも半信半疑だ。
その地のものを口にすることで、その地に根差す。だから、日本神話の中で、黄泉の食べ物を口にしたイザナミは、現世の者としての性質を失った。ならば、再び現世の者としての性質を得るためには、どうすればいいか? 何を食べるのが正解か?
「四年間――おまえさまが寝たきりになっていた四年間です。最初の四年間、おまえさまは、幼い頃の約束のままに私に連れ添ってくれました。迷子になった私を黄泉の国の城に送り届け、一緒に暮らしてくれた。うれしかった。その頃の私は泣き虫で、世の中の色々なことが悲しくて、よく泣いていた。でも、そんな時、隣にはいつもおまえさまがいてくれて。私の涙をすくいとってくれた」
うっとりと、夢見るようにいする美は言う。
彼女の語る石動を、石動は知らない。記憶がない。けれど、仮にあの夢で見た少女の出会いに続きがあるのなら、自分はそんなことをしたかもしれない。あの時、幼い石動の中には、彼女を守らなくちゃという想いが満ちていた。小学五年生の子どもが抱いたシンプルで純粋な行動原理。今の自分とは似ても似つかない。けれど、自分がやりそうなこと。
残酷だなと思う。
そんな決意が成立するはずがない。想いだけが先行し、実現可能か否か全然考えられていない。見切り発車だ。
案の定、いする美の表情が、一転、寂しげに歪んだ。
「でも、おまえさまは、次第に現世を恋しがられるようになった。家に帰りたいと。妹が、家族が心配だと。会いたいと」
「……。だろうな」
子どもなら、そんなものだろう。一人の少女のためだけのナイトを気取るには、まだ修行が足りない。母に甘えたくて、友達と遊ぶのが楽しくて、現実に対する覚悟がなくて、基本的に守られている存在。小学五年生なんて、そんなものだ。
「わかっています。だって、私がそうでしたから。私なんて、ちょっと迷子になっただけでぽろぽろと泣いて。少しおまえさまがいないだけで、また泣いて。迎えに来てくれたのがうれしくて、やっぱり泣いて。なのに、私と同じくらい子どもだったはずのおまえさまは、四年間不平を漏らすことなく、堪えてくれた。私の頭を撫でて、大丈夫だよと言ってくれた。だから、おまえさまがついに我慢できなくて、家が恋しいと私に言ったのは、本当に当たり前のことで。でも、それなのに、私はおまえさまがいなくなってしまうことが辛くて、辛くて」
長い下睫毛に涙がたまる。
その涙を指でぬぐってやりたくなった。それはひどく当たり前のことのように思えた。何度もそうしてきた気がする。けれど、眼前のいする美は、夢の少女よりずっと大人びていて、石動の体も大きくなりすぎていて、間合いの違いが、とっさに手を伸ばすのをためらわせていた。
「結局、せがまれて、私はことわりきれなかった。せがまれた私は、おまえさまに桃を渡しました。おまえさまと出会った時にもらった現世の桃です。黄泉にあるものは、黄泉にある限り、腐りませんから。食べずに、持っていました。そして、おまえさまは現世の人間として受肉した。半分だけ」
「半分だけ?」
「私は、おまえさまにお願いしたのです。だって、おまえさまと離れたくなかったから。身勝手ですよね。私の方は、四年間もおまえさまを独り占めしていたのに。自分のもとから去られるのは、嫌だった。だから、お願いでした。私は言いました。昼は現世に戻ってもいい。でも、夜は私のもとに帰ってきて。日が沈み、夜のとばりが辺りを包む間は、黄泉の国で私のそばにいて。そうすがりました。おまえさまは、頷いてくださった。渡した桃を半分だけ口にされ――」
――そして、寝たきりの石動は、病院のベッドで奇跡的な回復を遂げた。
「ふさげないでっ」
隣で久霧が叫ぶ。とっさに、石動は制止の手を再び伸ばそうとする。が、逆に久霧に押しとどめられてしまう。言わせて、とでもいうように。
「勝手な。勝手なことを。嘘ばかり。黄泉の国の食べ物を口にしたから、寝たきりになった? またこっちの食べ物を食べたから、戻ってきた? 信じられるわけないし、もし本当なら、よけいに身勝手だよ。それが本当なら。それが本当なら――私が毎日病院に通った四年間は」
「でも、事実です。だって――」
一瞬久霧の方に泳いだいする美の視線は、紡ぐ言葉と共に、なめらかに石動のもとへと舞い戻る。
「――起きてからの四年間、お前さまは夢を見ないでしょう?」
「……。ああ」
何故それを、とはもう思わない。
彼女の言葉は、石動が今までずっと心にしまってきた違和感の欠片と符号する。ただ、石動のてのひらには、まだ手つかずのパズルピースが一枚だけ残っている。
「ユメとは、ヨミです。二つの言葉は、語源を同じくします。寝ることと死ぬことは、再び目を覚ますか否かを除けば、ほとんど同義です。お前さまは、この四年間、夢を見るかわりに、黄泉の国で暮らしていた。夜寝るたびに毎日死んでいた」
「待てよ」
彼女は言っていた。「四年間を毎日のように。それからの更に四年を半分ずつ。会えなくなってからのここ十数日」と。つまり、まだあるのだ。黄泉の国で過ごした四年間と、現世と黄泉を毎日行き来した四年間の他に、まだもう一幕、十数日分だけ、彼女と自分の物語は残っているのだ。
「俺は最近――夢を見るぞ?」
***
「兄貴?」
ふと気付くと、久霧が不安げにこちらを見上げていた。
いする美と名乗った彼女。石動を黄泉の王と、旦那様と呼んだ少女。その白い肌と銀の髪、こちらを見つめる金の瞳。彼女が告げた石動の知らない石動の過去について……。
正直、まだ持て余している部分はあるのだが。
「久霧が言ったとおりだよ」
「私の?」
「自分の見聞きした範囲で信じるってこと。信じられる部分は、信じる。簡単には信じられない部分は――どうしようかな。それを悩み中」
ベッドから降り、石動は、入口付近に形成されているバリケードに向かう。全てをどかすのはなかなか手間がかかりそうだったが、一部をずらして、扉を開ける程度だったら、そんなに苦労もなさそうだ。
「ちょっと、兄貴。何してるの」
「や。だって、これじゃ学校行けないだろ?」
「でも、でも、廊下にあの女がいるかも」
「階段にも何か作ったって言ってなかったっけ」
それに、まだ六時も回っていない。普通に考えれば、あの少女も一階のリビング辺りでまだ寝ているはずだ。
出くわす可能性があるとすれば、少女が既に目覚めていて、階段の障害物も強行突破し、かつ、扉の外で待ち伏せを決め込んでいる場合くらい。でも、それはさすがにないだろう。いつ開くともしれない扉を待つには、朝の廊下はいささか寒すぎる。
だから、石動は、さして気負いなくノブを回した。
「おはようございます、お前さま」
そして、当然のように。
廊下に正座し、三つ指をつく少女いする美の頭頂部と遭遇したのだった。