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(連絡なし、か)

(連絡なし、か)


 久霧は、スマホの画面をちらっと眺め、またスカートのポケットに戻す。さっきから、何度となくこの動作を繰り返している。多分、電信柱をひとつ通過するたびくらいの頻度で。


 思ったより委員会が早く終わったので、夕食は何がいいかLINEで聞いたのに、いっこうに兄から返事がない。既読もつかない。今日は母が不在だから、兄の好物を作ってあげようと思ったのに。


 結局、テキトーに広告の品を見繕ったが、これで出された夕食に文句をつけるようなら、踵落としの刑も辞さない。


(もう。一時間に一回は生存報告しろって、いつも言ってるのに)


 兄は、久霧の言うことをあまり聞いてくれない。ちょくちょく報告を忘れるから、こちらから話しかけてあげているのに、そのレスだってなかなか来なかったりする。やる気があるのかと問いたい。


(また、どこかで寝こけてないといいけれど)


 クラスの友人達は、久霧のことを過保護だという。


 実の兄に対して、まるでカノジョづらだと。カノジョとしても重いと。

 ブラコンと言われるたびに飛び蹴りをかましてきたので、今では教室内でこの単語を聞くことはすっかりなくなったけれど。皆、本当は心の中で思っているんだろうなーということは、理解しているつもりだ。


 でも、違う。


 久霧の認識では、これは過保護でもブラコンでも、ましてやカノジョづらでもない。


 ただ、心配なのだ。


 何年も何年も眠り続ける兄を見つめてきた。この気持ちは、経験したことのない人にはわからないだろう。


 兄はおぼえていないが、兄がタクシーに撥ねられたのは自分のせいだ。


 当時、まだ二年生だった久霧は、兄に連れられて学校に通っていた。幼い頃の年齢差は絶対的だ。三歳下の妹を連れて歩くのは、兄にとって面白いことではなかったらしく、会話もなければ歩調も全然合わせてくれなかった。けれど、久霧がどんなに遅れても、信号や曲がり角では絶対に待っていてくれる。それがうれしくて、一生懸命その背中について歩いた。


 あの日もそうだ。


 兄はとっくに横断歩道を渡り終えていた。自分は点滅しだした青信号に慌てながら、道路の向こう側の兄を目指していた。待ってよー、とか言いながら。親に買ってもらったばかりのスマホをいじっていた兄が顔を上げ、口があ行の形に開く。この後に兄が言う台詞は知っている。いつもと同じ「早く来いよ」だ。ひどくつまらなそうに。でも、それは、兄が自分を待ってくれていることの宣言だ。ただ、その日は違った。


 ――走れっ、久霧っ。


 え、と思って横を見た時には、既にタクシーが車線を無視してこちらに突っ込んできているところだった。


 居眠り運転だったらしい。


 これは後で親から聞いた話だ。長時間労働が祟っての、居眠り運転。だから、クラクションも鳴らなかったし、ブレーキも踏まれていなかった。

 兄が動かなければ、自分は車の接近に気付くこともなく、死んでいただろう。


 空と地面が何度も逆転して、アスファルトが肘を擦った。


 突き飛ばされたのだとわかるまで、若干のタイムラグがあった。突き飛ばしたのが兄だと理解するのにも。タイヤ痕を道路に引きずって、ガードレールにボンネットをめりこませているのが、さっきまで眼前に迫っていたタクシーであることも。タクシーから少し離れて、倒れている小学生の姿も。小学生の周囲に広がる血だまりも。血だまりに浸るひしゃげたスマホや、散らばった教科書が示す「その小学生が誰なのか」という意味も。


 ――あああ。

 ――ああああああああああ。


 力なく自分の口から漏れ出た呻きの、なんて無様だったことか。


 そうして、兄はベッドの住人になった。


 タクシー会社は管理責任を問われたが、結局運転手個人の問題ということになった。くだんの運転手は、その後職を失ったらしい。養う家族がいたようだが(これも後で聞いた)、知ったことではない。父も母も、賠償金の交渉について容赦はしなかった。兄は目覚めなかったからだ。治療にはお金がかかる。全ての治療に保険が利くとは限らない。誰が悪いかではないのだ。誰が入院費を捻出してくれるかが問題だった。


 ベッドの上で横たわる兄は、一度も瞼を持ち上げないまま、年々身長を伸ばしていく。兄妹としての思い出は更新されないまま、徐々に大人の男の人へと変わっていく。


 学校の後に見舞いに来て、その寝顔を見下ろすのが、あの頃の自分の日課だった。父は単身赴任に出ていて、母はパートで忙しかった――これも入院費のためだ。だから、病院が見てくれないような、細々とした兄の身の回りの世話は自分の仕事だった。


 見舞いの際は、必ずおみやげを持参する。


 プリンだったり、ゼリーだったり。食べないとわかっていながら、持参したおみやげをスプーンで一口すくい、兄の唇に押し当ててみる。それが、久霧の儀式だ。


 家族の誰もが、何がしかの儀式を持っていた。母は、兄が書類上で中学生になって以降、真新しいままの学ランを、定期的にクリーニングに出していた。父も父で、時々、読む相手のいない息子宛ての手紙を、赴任先から送ってきた。


 目覚めない兄との思い出は更新されないから、各自で継ぎ足す必要があったのだと思う。久霧の場合、兄の口に運ぶプリンやゼリーがそれに相当した。スプーンを押し当てたところで、兄の口が開くことなんてないと知りながら。


 でも、あの日は違った。


 事故から丸四年がたった春のこと。


 スプーンが触れると、口もとがひきつったのだ。

 唇が微かに開いて、ゼリーの汁を啜り、ゆっくりと閉じていた瞼が持ち上がった。


 兄と視線が合ったその一瞬を忘れない。


 それは、四年ぶりに久霧が果たした兄との再会だった。

 以来、久霧にとって、寝ている兄の口に食べ物を突っ込むのは、最も確度の高い起こし方になった。このやり方なら、兄は確実に起きてくれる。だから、ポケットにストックを欠かしたことはない。


 兄を死なせないために。


 そのためには、いつも駆け付けられる距離に自分がいなければならないのだ。


(どうせなら、もう一年浪人してくれたらよかった)


 リハビリの都合もあって、とうとう一度も通わないまま中学を卒業した兄だが、その後も自宅学習は続けていた。二浪の末、今の高校に受かったのは去年の春のことだ。四年間のブランクを独力で埋めたのだから、本当にすごいと思う。


 でも、そこまでがんばってくれなくてもよかった。兄が三浪してくれれば、久霧の受験が追いついた。同級生として、二人揃って入学式を迎えることができたのだ。


 別に、兄と同じ教室で机を並べたかったわけではない。全く妄想しなかったといえば嘘になるが、この場合重要なのは、同級生ならば、いざという時すぐに駆け付けられるということだ。

 兄の高校入学当時、久霧は中学三年生だった。高校と中学では、当然通う学校が違う。学校が違うと、寝こけて連絡の途絶えた兄を迎えにいくだけでも一苦労だ。中学最後の年、久霧の打ち立てた早退記録は、ちょっとしたものだった。一緒の学校に通えている今となっては、比較的どうでもいいことだが。


「まあ、同じ学校に通ってても、振られる時は振られるんだけどねー」


 結局、兄からの返信がないまま、家に着いてしまった。


 似たような一軒家の立ち並ぶ住宅街から「道玄坂」のプレートがかかった門扉を選び、数段のステップを跨いで、玄関へ。

 最後にダメモトでもう一度だけスマホを確認してみるも、未読表示に変化はない。溜息をついて、そのまま、ストラップがわりにつけている鍵を玄関に差し込んだ。


「……?」


 いつものごとく、右回りに鍵を捻ってみても、手ごたえがない。

 開いている。

 ということは?

 先ほどまでのセンチメンタルな過去の思い出が去り、カッと怒りが湧いてくる。未読スルーとか。ふざけんな。


(もうっ。人に心配させて)


「ちょっと兄貴! 家に着いてたんなら、連絡くらい――」


 ばぁんっと力任せに扉を開けた。


(な)


 久霧は、固まる。


 三和土(たたき)には、膝をついて背を向ける兄の姿があった。

 肩越しに首だけこちらに向ける兄の表情は歪んでいた。急な帰宅者である久霧の登場に驚いている――否、否、悪戯を見咎めれた子どものように、焦りをたたえていた。まるで一番会いたくない人物に会ったとでも言うように。兄にそんな表情で出迎えられるのはショックだった。が、今、久霧が注目すべきところはそこではなかった。


 兄の背中ごしに、それが見えた。


 玄関マットには、一人の少女が横たわっている。


 知らない女。兄の交友関係は全て把握しているはずなのに、その誰とも一致しない。だって、髪が銀色だ。そんな色、テレビ以外で見たことがない。いや、テレビでだって、こんな整った顔立ちの少女はそうそう見ないだろう。およそ、現実感のないまるで人形のような美しさ。なんで、とか、誰、とか、そんな単語が頭の中をぐるぐる駆け巡る。

 が、問題はそこではない。


 少女は裸だった。

 全裸isすっぽんぽんだった。


「なっ、なっ」

「く、久霧、これは、ちが」

「なにをやっとるか――――――!」


 兄の弁解を最後まで聞く余地もなく、久霧の体は、自動的に、回し蹴りの初動作を紡いでいた。




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