黄泉比良坂。
黄泉比良坂。
それは、国生みの男神イザナギが、黄泉の国に至る過程で通ったという、この世とあの世の狭間だ。
黄泉比良坂が上り坂なのか下り坂なのかは、諸説あるが、一般的には下り坂だといわれている。その下り坂を、イザナギは、持っていた櫛に火を灯して進んだ。このことは、黄泉比良坂は明かりを必要とする程度に暗かったことを示している。
下り坂であり、明かりを必要とする暗さ。
端的にいえば、地下だ。
古事記や日本書紀で語られる黄泉の国とは、つまるところ、太古の地下王国なんだよ――畳ヶ崎はそんなことを言っていた気がする。
「おおむね、その理解で合っております」
かなり記憶があやふやだったが、鈴売的には合格だったようだ。
「ひとつ、違いがあるとすれば――女神イザナミが一人の人間を指すわけではないように、黄泉比良坂もまたひとつの場所を指すわけではないということでしょうか」
「どういうこと?」
「見た方が早いです。ほら、着きましたよ」
B棟を後にし、鈴売の言うまま後ろについてきた石動だったが、着いた先に広がっていたのは少々予想外な光景だった。
「黄泉比良坂――って、ここだったの?」
そこは、石動の知らない場所ではなかった。
来たことがあるのは一度だけだが、強く印象に残っている。何故なら、こここそは石動がいする美と最初に出会った場所だからだ。
ふやけたダンボール片。散乱するビニール袋。市が撤去したという、かつてホームレスが居着いていたという住居跡地。
そこは、学校近くにかかる橋の下だった。
もっといえば、まさにいする美がうずくまっていた、穴の前だった。
橋脚に穿たれた穴は、まだ健在のようだ。コンクリートの柱を斜めにえぐりとり、穴は、半ば地面に潜るようにして広がっている。その様が、見方によっては巣穴のようにも見える。
つまり、穴は地下に向かっている。
「はい。坂というと、語弊がありますが。要は、黄泉から現世に、現世から黄泉に続く穴ということです。それらを総称して、私どもは黄泉比良坂と呼んでいます。そもそも下流にある黄泉の国から、上流側の現世に受肉することが稀ですから、坂が開くこと自体、そんなに例があるわけではありませんが」
説明だけ聞いていると、まるでワームホールだ。畳ヶ崎がこの場にいたら、さぞ喜んだことだろう。
「つまり、いする美は、この穴を通って現世にやってきたってこと?」
「はい。いする美さまと、それに鈴売もです。おそらく、石動さまたちを襲った黄泉軍についても同様でしょう。一度縁が結ばれた場所ですから。この地にゆかりのある者は、全てこの穴から現世へとやってきたはずです」
鈴売が言うには、こういうことだ。
黄泉から現世に至ったとき、肉体が残っていれば、通常はその肉体に還る。しかし、大抵は既に肉体が滅んでおり、還るべき場所がない。受肉すべき受け皿がない、いわば迷子の状態だ。
そういう時、黄泉比良坂は地上のどこかに穿たれる。
いや、穿たれるというよりは、決壊するというべきか。ぱんぱんに膨らんだビニール袋が弱いところから破けるように、行き場を失った肉体が、膨張した結果、現世に漏れ出るのだ。
そして、その漏れ出た黄泉比良坂は、以降、黄泉の者たちの通り道になる。縁が近しいと引き付けられるそうだ。いする美は石動への縁を、鈴売はいする美への縁に誘われて、この場所に辿りついたという。
「じゃあ、俺はこの穴を通ってないのか」
黄泉比良坂が開くのは、肉体という現世の受け皿を失っているからだという。とすれば、石動は、これに該当しない。石動の肉体は、彼が黄泉で過ごしていた間も病院のベッドで横たわっていたはずだからだ。
石動の主観的にも、瞼を開けてまず飛び込んできたのは、病院の白い天井であり、そして久霧だった。こんなうろの中では目覚めた記憶はない。
鈴売は頷く。
「そういうことになります。石動さまの場合は、例外中の例外ですが。あなたのように現世に肉体が残ったまま黄泉で暮らし、その黄泉にも半身を残したまま現世に戻ったなんて例は、おそらく他にないですから。少しは自覚してください。非常識極まりない存在なのですよ、あなたは」
「人が通るには、ちょっと狭い穴だね。それに、本当にそんな奥まで続いてるの?」
「聞いていますか?」
横幅は広いが、高さがない。人がこの穴を通ろうと思ったら、這って進むことになるだろう。穴の奥は、黒ずんでいて底が見通せないが、尻すぼみに横幅が狭くなっていっているのはわかるので、大して深い穴にも思えない。だからこそ、巣穴を連想したともいえる。
「……。どうやら、石動さまはまたお忘れのようですね」
「え?」
「まあ、この姿がそれほど石動さまの印象に残っていると思えば、まんざら悪い気もいたしませんが」
「……。ああ、そういうことか」
確かに。先ほども見たばかりだ。
鈴売たち黄泉から来た者たちにとって、現世でのこの姿は本質ではない。彼女たちにとって、穴の横幅や縦幅なんて大した意味をもたないのだ。
なにせ、ひじきは不定形である。
「では、まいります」
穴の前で、鈴売は腹這いになると、自動販売機下の百円玉を拾う時みたいな気軽さで、暗い穴の中に右腕を差し入れた。
穴の中に沈殿する闇が、鈴売の手をねっとりと飲みこむ。
その向こう側がどうなっているかは、全くわからない。沈殿する闇はいっさい見通しがきかず、鈴売の肩から先はまるで穴の中で闇と同化してしまっているかのようだった。少なくとも、人の腕の形はとっていないだろう。そうして、幹を伸ばし、枝を伸ばし、彼女は探っているのだ。
どれだけそうやって手を差し入れていただろうか、穴の中を手探る鈴売の顔が、怪訝そうにゆがむ。
「……。おかしいですね」
「どうしたの」
「いえ。もしかして、石動さまの言う通りかもしれません」
鈴売は、右手を闇の中から引き抜く。音はしなかったが、とぷんっとプールから脚を引き上げる時のように、闇の表面に波紋が広がった気がした。
起き上がり、彼女は、あらためてその場に片膝を立ててしゃがみ直す。
その目が、じっと穴をにらみつける。
「鈴売?」
「少々おさがりを」
鈴売は、自らのかぶるキャスケット帽を手に取った。手に取った時には、キャスケット帽は既にキャスケット帽ではなくなっている。
握られていたのは、細剣だ。あの日、ゲームセンターでの戦いでも見た。いつの間にか、左手にもある。
その二本の細剣を鈴売は、しゃがんだまま、後ろ手に振り上げる。
「しっ――」
振り下ろした。
鞭のしなるような音と共に、鈴売の腕は交差し、左右の剣が振るわれた。
一瞬のタイムラグ。
爆風が生まれたのは、その後だ。
「っ!?」
どっ――と、限界まで膨張した極大風船が突然破裂したような鈍い音。
辺りに散乱する石が。コンクリの欠片が。ふやけたダンボール片が。ビニールごみが。とにかく地面に固定されていない動かせそうなものすべてが、風圧によって、一瞬で石動たちの後方へ消える。
火と熱のない爆心地の中にいるみたいだった。あるいは、ビルの爆破を、屋内で体感したら、こんな衝撃を受けるだろうか。
とっさに腕で顔を守ったが、それでもびしびし破片が当たるし、風圧に体が持っていかれなかったのは奇跡といってよかった。
それら全ての猛威がおさまるのを待って、おそるおそる目を開けた。
やはりというか、周囲の地面からは根こそぎ石ころのたぐいが消え去っている。
そして、穴の中にたまっていた闇も。
突然の抜刀は、それが理由だったのだろう。黄泉比良坂という穴でとぐろを巻いていた暗闇は、鈴売のたった左右一振りずつの剣閃によって、見事に雲散霧消してしまっていた。
(一声くらいかけてくれたらいいのに)
石動は、肩や膝についた砂埃を大雑把にはらう。
裸にされた黄泉比良坂は、どうやってコンクリートの柱にこんな穴を穿ったかという経緯に目をつぶりさえすれば、まさしくただの巣穴に見えた。
奥の方にいくほどにすぼまっていく斜め下に穿たれた穴。そして――。
「?」
何かが変だった。
違和感の正体はすぐにわかる。
ただの巣穴ではおかしいのだ。
なるほど、その穴は人間が通るには狭すぎるかもしれない。けれど、少なくとも下り坂というからには、それが黄泉に至る道だというのなら、穴は地下へ地下へと続いていなくてはならないのだ。野生動物が作る本物の巣穴のように、すぐに袋小路になっていては、意味をなさないのだ。
しかし、黄泉比良坂は、埋め立てられていた。
大小さまざまなコンクリ塊がびっしりと詰まり、完全に穴の行き先を塞いでいた。天井のコンクリが不自然にえぐれている。おそらくここを崩して、何者かが意図的に穴を埋めたのだろう。少なくとも、ひとりでに崩れたようには見えない。
やっぱり、と鈴売は呟く。その声は、石動の耳にはややうつろに響いた。
「壊されていますね。どうして、こんな」
「……。あの巨大ひじきがやったってこと?」
「そう、かもしれませんけれど。いえ、そのくらいしか考えられないですけれど。でも、そこに何の意味が?」
両手の剣を握ったまま、少女はその場にへたりこむ。
「どうして。だって、これじゃあ。私も。いする美さまも。帰れない。本当に死んで肉体から離れるくらいしか。なんで。鈴売、何も悪いことしてないのに。悪くないのに。なんで、なんで、なんで」
「鈴売、落ち着いて。ねえ、鈴売。痕跡は? 痕跡はどうなの」
鈴売は、首を横に振る。
「ありません。私といする美さまのものしか。いくら野ざらしとはいっても、黄泉比良坂の内側にも気配が残っていないなんて」
「俺たちを襲ったひじきは、この穴を使っていないってこと?」
「でも、でも。この付近の黄泉比良坂はここだけなんです。この地に顕現したなら、その黄泉軍は、縁が強いこの坂をのぼったはずなんです。これは絶対です。そのはずなんです。なのに、なのに」
絶対に気配が残るべき場所。なのに、その気配がない。
人為的に残り香が消されたわけではないだろう。力の痕跡は、臭気と同じ。洗い流されたにせよ、他の強い臭気で上書きされたにしても、そうであるなら、鈴売やいする美の痕跡も消えているはずだ。
とすれば、やはり結論はひとつ。黄泉軍は、この黄泉比良坂を使っていないとうことになる。
(なら、どこからきた?)
思い当たる例がひとつだけある。
いるではないか。
一人だけ、この穴を通らずに現世へと戻ってきた者が。
――石動さまの場合は、例外中の例外ですが。
鈴売は、他に例がないといった。二人目は存在しないと。しかし、本人だったのなら、どうだ? 本質的には一人なのだとしたら?
(半身なのか?)
ただの思いつき。根拠はない。あくまでありえる仮説の内のひとつ。
でも、だとすれば、わざわざ穴を潰す意味は何だ?
たとえば、逃げ道として。半身は、畳ヶ﨑を襲った後、密かに自分だけ黄泉比良坂を下って黄泉へと逃げのび、石動たちの追跡をかわすために道を塞ぎ――いや、違う、それならその時の痕跡が残るはずだ。鈴売は自分達以外に坂を使った気配はないと言っていた。
もうひとつの可能性。
たとえば、そう。追跡をかわすためではなく、逃がさないために退路を断ったというのは、どうだ?
「これじゃあ。これじゃあ、まるで。私たちの方が閉じ込められたみたい」
涙まじりの声で、鈴売が言う。
そうだ。今この瞬間、この町は――現世は、巨大な密室になったのではないか?