あれからすぐに高校に向かい、B棟に着いたのは昼過ぎだった。
あれからすぐに高校に向かい、B棟に着いたのは昼過ぎだった。
「嘘だろ……」
B棟二階の階段前で、石動は立ち尽くす。
眼前にあるのは、三階に続く昇り階段のはずだった。この階段を一階分上がれば部室のある三階、更に上がれば四階、その上が屋上だ。駆け上がれば、三十秒とかからない距離だろう。
しかし、その道程を、今は視界全面を覆う青いビニールシートが阻んでいる。
シートに貼られた張り紙には、赤字で大きく「立ち入り禁止」の文字。その下に数行の文章が続き、防犯上の問題があるため工事中である旨が書き記されていた。
「この分では、非常階段の方もダメでしょうね」
石動の背中に半分隠れた状態で、顔だけをひょこりと前に出し、鈴売が言う。誰かが通りかかれば、すぐに石動の陰に潜めるようにという意図のもとの配置だ。今は午後の授業中であるはずなので、廊下で生徒や教員と出くわす可能性はそう高くないだろうが、用心するに越したことはない。
「……。なんか楽しそうだね」
「以前、ここの敷地に侵入した時から、一度建物の中を見てみたいと思っていたんです」
実際、楽しそうに鈴売は言う。
「現世の学び舎というのは、このように青い布を貼って、通行を阻むものなんですね」
「いや、これを標準的な校舎の形だと思われると、ちょっと困るんだけど」
試しに手を伸ばし、石動はブルーシートに触れてみる。固い感触があった。シートだけではなく、裏に板か何か立てつけているらしい。
「弱ったな」
テープが貼られている程度なら、潜り抜ければ済む話だが、まさか板を壊して強行突破するというわけにもいかない。工事というからには、作業員が出入りする場所がどこかにあるはずだ。それを探すのにあまり時間を割くと、誰かに見咎められる可能性がある。
「何かお困りですか」
「そりゃあ――だって、屋上に上がる階段はここと非常階段だけなんだから」
「ええ、それはわかりますが」
「これじゃあ、黒い染みを確認できない」
「? 何故です?」
おかしい。いまいち会話が噛みあわない。
巨大ひじきが残した力の痕跡を追うには、戦いの場となった屋上を検分する必要がある。が、そこへ至る階段が封鎖されているのでは、そもそも屋上にたどりつけない。その認識なのだが。
これは、まただろうか。
どうも、鈴売には、自分の理解は相手にも当然伝わっているだろうと思いこむきらいがあるらしく、時々こういうコミュニケーションエラーが発生する。
「あのね、鈴売ちゃん」
「あ。いえ。わかりました。理解しました。鈴売は、石動さまのお怒りを買う前に、自分で気づくことができました。なので、ちゃん付けは不要です」
なんと。珍しいこともあるものだ。
「つまり、こうですね。要は、どうやって屋上に辿りつくかをご懸念していると。石動さまはそうおっしゃりたいわけですね」
「何か手があるの?」
「手というか。単に、私が行けばよいかと思います」
「……?」
意志疎通ができたと思ったのだが、またわからなくなった。
その行くべきルートが塞がれているのが問題なのだが。いったいどこから屋上にのぼるつもりなのか。
問いただそうとしたときには、既に鈴売は動いていた。
石動を押しのける形で一歩前に立ち、ブルーシートに右手を伸ばす。
まさか、何か力を使う気ではないだろうか――と思い、一瞬ひやっとする。できれば、校内を破壊しての強行突破は避けたい。
「お忘れですか。何度もお見せしていますのに。鈴売の体は、むしろこちらが本当なのですよ」
ぼこぼこ、と。
鈴売の右手が、泡立ちながら黒く膨れ上がる。粘性を持った蠢く群体。
(あ)
そうか。ひじきだ。
鈴売の右肘から先が、いつも彼女が陰に潜む時と同様、蠢くひじきの姿に戻っていた。いや、違う、蠢きの向こうに時々地肌がうっすらと見える。どちらかといえば、戻ったというよりは、腕の表面からひじきが噴き出しているといった方が正しい。
それら噴き出したひじきは、重力に従って、粘り気を帯びながら、ぼとぼとと床に落ちていく。
たちまちバケツ一杯に少し足らないくらいの黒い小山ができた。
鈴売は、かざしていた手を引っ込める。
「では、行ってきます」
「行くって――」
鈴売の言葉と共に、小山が動き出した。
ずるずると。
なめくじのように。
床を這いながら、鈴売から切り離されたひじきは、ブルーシートの下部にあるわずかな隙間をくぐり、階段の向こう側へと吸い込まれていく。
鈴売のしたいことを悟り、石動はやっと合点がいった。
「そういうことか」
「そういうことです」
「喋りながら、動かせるんだ。ていうか、切り離せるんだ」
「多分、私が特別というわけではないと思いますけれど。そもそも、私どものように、黄泉から無理矢理川をさかのぼってきた者は、受肉が甘いですから。やろうと思えば、こういう芸当もできるようです」
どうやら鈴売にとっても、こちらの世界に来て初めて会得したスキルであるらしい。能力というよりは、受肉の性質を利用したバグ技といったところか。
なんにせよ、驚いた。
不定形生命体のひじきの外見には、そろそろ慣れてきていたのだが。まさか分離もできるとは。あらためて、鈴売が――ひいては、いする美が――この世ならざる者であることを再認識する。
「意識や視界はどうなの? 混乱しない?」
「たとえるなら、ひとつの意識に、複数の視界や五感が重なるような形でしょうか。多少コツはありますが、慣れれば便利ですよ。……そろそろ屋上に着きます」
話しつつ、鈴売は渋面になった。分身の方が何かを発見したのかもしれない。
「どうしたの」
「ダメですね。敷き詰められている石が取り払われているようです」
「タイルが? どうして?」
「近くに作業具らしきものが置いてあります」
ということは、こちらも工事中というわけだ。
妙だな、と思う。
屋上での一戦は、教員たちに知られていないはずなのだが。
「……。ああ、そういう」
考える内に、学校側の思いが透けて見える気がした。
きっと、直したいのは、三階の割れた窓だけではないのだろう。この機に目立つ部分全てに工事の手を入れるつもりなのではないか。そう考えると、ピンポイントに一部屋を立ち入り禁止にするのではなく、ブルーシートで階全体を進入禁止にしている点にも説明がつく。
二度も事件が起きているのだから、検分の意味でも校舎全体を調べたことだろう。黒い染みは目立つ。屋上に誰かが上がれば、すぐ気付いたはずだ。
「資料準備室の方はどうだろう。三階の一番奥」
屋上にすらもう工事の手が入っていることを考えると、望み薄かもしれない。が、他に痕跡が残っていそうな場所がない。
鈴売の眉根が、苦しげに寄る。
「少々お待ちください。今日は、石動さまの家にも体の一部を残してきたので、あまり複雑なことができなくて」
「家にも?」
「私は、本来いする美さまの傍付きですから。あなたに付いて外に出る時は、あのかたをおひとりにしないよう、体を分けているんです。特に、今は、その、あなたの妹さまの御様子も、少々気になるといいますか」
奥歯に物が挟まったような言い方。
石動は、彼女の言いづらい部分を察する。
家を出る前、一度久霧の部屋に行ってみたが、ノックしても反応がなかった。靴は残っていたので、外出しているわけでもない。そのまま部屋に閉じこもり続けているのとすれば、今、家にいるのは久霧といする美の二人だけということになる。
二人のそりが合わないのはもとからだが、今日の久霧は少し妙だった。きっと、鈴売の心配の種も、そこにあるのだろう。
石動は、肩に掛けた鞄に手を触れる。中には、巨大ひじきに初めて襲われた日に部室で見たのと同じ、平たい弁当包みが入っている。出がけにいする美が持たせてくれたのだ。帰ってきていくらも経たないうちにまたすぐ出かけることになった石動を、嫌な顔ひとつせず送り出してくれた彼女。あの笑顔を再び悲しみに歪ませるようなことは、あってはならない。
(何もなければいいけど)
何かが胸に引っかかっている気がした。けれど、その正体がわからない。
「……。ダメですね」
部室に辿りついたらしい。目を伏せたまま、鈴売は淡々と状況を告げる。
「屋上と同様です。窓が既に新しいものに変わっています」
「部屋の中のものは? ひじきが激突した机とか、蹴っ飛ばされた備品とか」
どの程度の接触で、残り香が付着するのかはわからないが。たとえば長机などは期待してみてもよい気がする。あれには、一度巨大ひじきが腹を打ち付けていたはずだ。
「いえ、ぱっと見る限り、それらしい痕跡は。そもそも、どれが激突した机で、どれが蹴っ飛ばされた備品なのか。全部綺麗に壁際に寄せられていて――」
「散らかっていないの?」
畳ヶ崎は、部屋を片付けるのが怖いと言って、荒れるがままにしていたはずなのだが。
「はい。びにーるしいと? ですか? それで机や棚が覆われています。石動さまのご学友はここで倒れたという話だったかと思いますが、床も綺麗なものです」
一条の話では、畳ヶ崎は血だまりの中で発見されたということだったが、その血も綺麗に拭き取られているらしい。既に業者の手が入った後というわけだ。
ダメか。
予想通りだったが、それでも気が落ちる。
「……。非常階段の方はどう? あそこもひじきが通って――」
「もう調べました。というか、屋上から三階に降りるのに、外の階段を使ったのです。こちらは特にいじられた形跡はありませんでしたが、そもそも残り香もありませんでした。収穫なしです」
「……」
「どうします。他に痕跡が残っていそうな場所の心当たりはありますか」
そんなものはない。再び手詰まりだった。
(くそ)
学ランの件といい、間が悪すぎる。いや、石動たちの初動が遅すぎたというべきか。
何か他に、探すべき場所はないのか。
力の痕跡が見つからなければ、追跡ができない。追跡ができなければ、巨大ひじきのもとに辿りつけない。辿りつけなければ、相手の後の先を打つという石動のプランは崩壊する。
「石動さま」
「待って。今、考えてるんだから」
「いえ。特にないのでしたら、鈴売も提案してよいですか」
「……鈴売が?」
眼前の少女を見やる。
「何か思いついたの」
「思いついたというほどでは。私は、実際にその黄泉軍と相対したわけではないので。でも、もし、その黄泉軍らしき者が、本当に黄泉軍であったのなら、絶対に痕跡が残っているだろう場所がひとつあります」
「……」
どうしたことだろう、鈴売がやけに頼もしい。
新手の死亡フラグか何かだろうか。
いや、それとも、本来、これが彼女の自然体なのか。いする美に怯え、黄泉の王の力に怯え、それ以外の色々なものに怯え、常に挙動不審だった鈴売も、気を許せば、こんな顔を見せるということなのだろうか。
「石動さまは、私やいする美さまがどうやって現世にやってきたとお思いですか」
「どうやって……?」
少し考え、おそらく鈴売の言いたかった答えにたどりつく。昔、畳ヶ崎と似たような会話をしたことがあった。オカ研の日々の活動の賜物だ。黄泉と現世をつなぐ道には、名前がある。
「なるほど。そういうことか」
「おわかりいただけましたか」
鈴売は、眼前のブルーシートに向けて、再び手を差し出した。
ずるずると、シートの下から、消えたバケツ大のひじきが戻ってくる。それらは、あたかも動画を逆再生したかのように、ぼたぼたと音を立てながら、突き出された彼女の右手に還っていく。
彼女が振り返った時には、もはや分離したひじきの姿はどこにもなかった。鈴売の右手は、ただ細いばかりの少女の手に戻っていた。
「では、向かいましょうか。私どもが彼の地より此の地へとやってきたはじまりの場所――黄泉比良坂に」




