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「追わなくて、よろしいのですか?」

「追わなくて、よろしいのですか?」


 いきおいよく閉まった扉を眺めたまま、ぼうっとしていたらしい。

 天井からは、ぼたぼたと粘性の半液体が落ちてきていた。甘い腐臭を放つ、コールタールをかぶったかりんとうの群れ。それらは、蟻塚のようにその場で積み上がり、人の形を成していく。

 言わずもがな、鈴売だ。


「……。多分、自分の部屋に戻っただけだと思うから。それに、今行っても、かえってこじれそうだ」

「そういうものですか?」


 鈴売は首を傾げる。


 久霧の反応は、当然といえば当然だった。妹は、もとからいする美のことをよく思っていない。そして、悲しいかな、常識にてらしあわせれば、正しいのは圧倒的に久霧の方なのだ。

 客観的には、石動は厄介な女の口車に乗せられて、泥沼にはまっている頭の悪い男に過ぎない。周囲を巻き添えにして、それでもまだ状況の危うさに気付かない。今度は大丈夫、作戦を考えてきたから――そう言いながら、ますます沼に深くはまっていく。


 いする美の言葉を思い出す。


 誰かを巻き込んででもしたいことがあるのなら、選ぶしかない。諦めるか、巻き込んででもわがままを通すか。


 その通りだ。


 そして、石動は既に選んでいる。


「始めようか、鈴売。俺はどうすればいいの? ……鈴売?」


 気付けば、隣の鈴売が消えていた。ではどこにいるかというと、石動のベッドの上だった。膝をつき、奥の方――壁際に向かって這っている。


「何してるの」


 オーバーサイズのジャージでそういうポーズをとられると、斜め後ろにいる石動からは、鈴売の腹部やらあばらやらその先やらがうっかり見えてしまいそうで、大変気まずい。というか、なにゆえ素肌の上に直接ジャージを着ているのか。


「……。ないですね」


 数秒ほどそうしていただろうか、壁を向いて四つん這いの姿勢を保ったまま、鈴売がぽつりと言った。


「えっと、何が?」

「当てが外れました。石動さまのお召し物になら、あるいは例の黄泉軍の痕跡が残っているかと思ったのですが」


 石動は、少女がベッドの上を這った理由に思い至った。布団に膝をつくのが目的ではない。目当ては、壁にかけてある石動の制服だったのだ。


 高校指定のオーソドックスな詰襟。


 校則において、校内での着用が義務付けられている。当然、石動と畳ヶ崎が巨大ひじきに襲われたあの日も、これを着ていた。

 なるほど、だから、鈴売は家に場所を移そうと言ったのか。


「痕跡というのは、服に残るものなの」

「服に限りませんが。石動さまは毎日湯浴みをされるでしょう?」

「そりゃまあ風呂には入るけど」


 確認の意図がわからないまま、答える。


「力の痕跡というのは、水で洗い流したり、いぶしたり、他のにおいで上書きすることで消えてしまうんです。仮に、石動さまの体に力の痕跡が付着していたとしても、ここ数日の湯浴みで、すっかり洗い流されているものと思います」

「本当に匂いみたいなものなんだね」

「ほぼ、その理解でよろしいかと思います。鼻で嗅ぎわけるわけではないんですが。鼻を使わずに嗅ぐ香りというか。……説明が難しいですね」


 どうやら力の痕跡というのは、気配とかオーラとかそういった曖昧なものではなく、もっと物理的な(もしくは、それに類する)残留物であるらしい。


 イメージしたのは、テレビなどでたまに見る硝煙反応という奴だった。銃を撃つと、発砲時に飛沫が腕などに付着するというあれである。それは、人間の目や鼻では気付けない微かな痕跡かもしれないが、だからといって存在しないわけではない。特殊な薬品を用いることで、検出することが可能だ。


 異能の力も同じなのではないだろうか。力の行使がいわば発砲にあたり、鈴売のいうところの残り香は、腕に付着した硝煙に相当するのでは? そして、その特殊な飛沫を検出する検査薬が、鈴売というわけだ。


「おかしいですね。そう何日と経っていないのに。ここまで残り香が()()なんて。石動さま、このお召し物は、あの黄泉軍との一戦の後、洗濯されたりいたしました?」

「していないはず、だけど。あ、いや、でもファブリーズかけてるかも」

「なんです、それ?」


 鈴売に現代が誇る消臭スプレーの効能について説明した。

 学生服のようになかなかクリーニングに出せない衣類には、重宝するのだ。あの日は、畳ヶ崎に鞄のにおいのことでからかわれたので、鞄にも服にも、特に念入りに吹きかけた気がする。


「……。申し訳ありません。御無礼を承知で言わせてもらってもよいですか」

「なに」

「あなた、馬鹿ですか」

「仕方ないじゃん!?」


 こんな局面で、学生服に付着した臭気が重要な鍵を握るなんて、誰が予想できただろう。服を汚して怒られるならともかく、逆をしてなじられるのは心外だ。

 しかし、現状打開の一手の前に立ちはだかるのが、まさかうっかり吹きかけたファブリーズだなんて。


「冗談はさておき、済んでしまったことは仕方ありません。他に何か心当たりはないでしょうか。とにかく、まずは痕跡を見つけないことには」

「って言われても」


 あるだろうか。

 力の痕跡が残りそうな場所。

 考える内に、ふとあの日ひじきと相対した時の記憶がよみがえる。


「……。残り香がありそうなものを探せばいいんだよね」

「? そうなります」

「痕跡っていうのは、ものだけじゃなくて、場所にも残るの? ものじゃなくても、嗅ぎわけられる?」

「……。可能かと思います。色々な気配(におい)が混ざるので、ものよりは多少難しいですが。せいぜい数日前のものですから」


 残っているだろうか。


 天井のない野ざらしの場所だ。でも、あの日から今日に至るまでは、梅雨の気配を感じさせない快晴が続いている。力の痕跡というものが臭気とほぼ等価なら、可能性はあるのではないか。


 抜けるような青空だった。


 給水塔のシルエットと、腕の中でぐったりと弛緩する畳ヶ崎の重み。そして、苔むした床には黒い()()()が残っていた。


 これ以上ない、目に見える形の刻印。


「鈴売、ちょっとついてきてもらっていい?」

「どこか心当たりが?」


 心当たりというほど、突飛な場所ではない。むしろ、何らかの事態を検証する場合に、現場を当たるのは、発想としてすこぶる自然だ。


 B棟の屋上。


 直接ひじきと対決した、あそこなら。


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