騒がしくて、目が覚めた。
騒がしくて、目が覚めた。
耳元にざわざわくるような種類のうるささではない。何枚か壁を挟んだ向こうで、人の気配と声がする。
その意味に気付き、久霧はベッドから跳び起きる。
(兄貴だ)
帰ってきてくれた。
階段を上がる足音がする。彼が久霧の部屋に勝手に入るわけはないから――逆はしょっちゅうだが。今もそう――向かっているのは、ここ、石動の部屋でしかありえない。
机の上の時計を見る。まだ昼前。こんなに早く戻ってきてくれるなんて。
久霧はポケットからスマホを取り出し、手早く自分の前髪をチェックした。服の皺は気にしない。どうせ、パジャマだ。
(どうしよう)
口元が緩む。寝たふりで迎えようか。それとも、扉の前で待機するか。どちらも兄の驚く顔が見れるという点では、同じくらい魅力的だ。もう既に足音が階段まで来ている以上、あまり考えている時間はない。後者を選ぶことにする。
久霧が扉前に駆けつけるのと、ノブが回るのは、ほぼ同時だった。
おかげで、部屋に入ってきた兄と鉢合わせする形になる。
距離が近い。うれしいハプニング。
「お帰り、兄貴」
「久霧?」
見慣れた兄の顔と、数時間ぶりに再会した。
背丈は自分より高く、周囲より年齢が上である分、容貌も体つきも、同級生や先輩たちより若干大人びている。その顔に、幼さの残る表情が乗っているのだから、反則だ。
彼が寝たきりになった八年と少し前から、ずっとその顔を見つめてきた。
彼が起きてからの四年間、ずっとその表情を追ってきた。
今目の前にあるのは、久霧の知るいつもどおりの道玄坂石動だ。
ただ、いささかいつもどおりすぎた。
幸せな事故をよそおって彼の胸へとダイブすることもせず、足が止まったのはそのせい。
今朝のリビングでの一件は、自分にとっては喜ばしい出来事だったが、兄にとっては辛い一幕のはずだった。可哀そうな兄。だから、兄が帰ってきたら、自分がかわりに慰めてあげようと思っていた。それもまた、自分にとって楽しい時間になるはずだった。
なのに、どうだ。戻ってきた石動の表情は、あまりに普通で、綺麗すぎる。
これでは。これでは、まるで。
「どうして。おまえ、学校は? ていうか、なんで俺の部屋?」
「あの女はどうしたの」
「……」
そのタイミングで黙らないでくれと、強く願った。
「久霧、聞いてくれ。俺はやっぱりいする美を守ろうと思う」
「なにそれ」
言っている意味がわからない。兄が家を飛び出してから、まだほんの数時間だ。あの叫び方から、あの出ていき方から、どうしてそんな結論が導かれる? あれだけのことが起きて、これからも更に起きそうで、何故まだあの女に肩入れしようという発想を生まれる?
「兄貴、まだ懲りてないの。守れないって。そう言ってたじゃん」
「いや、厳密には守れないんだけど。守れなくてもいいように、守ろうと思う」
「わけわかんない」
舞い上がっていた気持ちに、一瞬で強い重力がかかる。ずっしりと腹の下の方で沈殿するこの気持ちは何だ。
「どうして。なんでわからないの。こんなの。わかるじゃん。明らかじゃん。あの女はやばいんだよ。兄貴は騙されているんだよ。怪我をするのは、兄貴の先輩だけじゃないかもしれないんだよ」
「……わかってる」
「わかってない。全然わかってない」
そうだ、兄はちっともわかっていない。妹の気持ちなんて全然考えてくれていないのだ。
「ねえ、じゃあ私は? 私が襲われるところを想像してみて? 兄貴の知らないところで襲われるのは、私かもしれないんだよ? 兄貴は私が襲われても平気なの? 私が怪我をしても、兄貴はあの女を選ぶの? 私やまわりを全部差し出して、それでもあの女がいいの?」
「そうじゃない、そうじゃないんだ」
兄は首を横に振って否定してくれるけれど、その言葉は久霧にはさして響かない。結局、そういうことだ。少なくとも、今この瞬間、兄は妹の忠告よりあの女を取っている。その事実は明白だ。
(馬鹿みたい)
急に、何もかもどうでもよくなる。
これじゃあ、自分が道化みたいではないか。
「ごめん、久霧。俺、わがままを言ってる。でも、俺は――」
「どいて」
「久霧?」
「そこ。どいて。邪魔だから」
「あ、ああ」
肩をそらし、石動は道を空ける。
俯いたまま、久霧は足早に兄の部屋を後にした。




